#53 京、人の集まる町
◼︎永禄五年十一月 山城国 下京
堺を発った木下弥右衛門一行は、二日後に京へ入った。
尾張まで同行する下間右兵衛尉も一緒だったが、京に着くなり本願寺と関わりのある寺院や門徒衆へ顔を出す必要があるとのことで、一時別行動となった。
「夕刻までには宿へ戻りまする。くれぐれも、目立つことはなされぬよう」
「某を何だと思っておられる」
「石山で上人様と意気投合し、伴天連へ南蛮の言葉で話しかけられた御方にございます」
「……それを言われると弱いですな」
下間右兵衛尉は小さく頭を下げると、人混みの中へ消えていった。残ったのは弥右衛門と勘十郎、それに数名の供だけである。
京は、堺とはまるで違う町だった。
先の争乱で焼けた場所が残る一方、通りを一つ隔てれば商家が軒を連ね、公家、武士、僧、商人が入り混じって歩いている。朝廷があり、幕府があり、三好がいる。六角も京へ手を伸ばし、寺社も独自の力を持つ。
「堺では、銭の流れを追えば何となく町の姿が見えたのだがな」
「京では、それだけでは足りませぬか」
「ああ。誰が誰を動かしているのか、さっぱり分からん」
そんな話をしながら細い通りへ入った時、前方に人だかりが見えた。古びた町家の前で、一人の町人が頭を抱えている。
荷車の車輪が折れ、積んでいた薪や炭が道へ散乱していた。その一部は脇を流れる細い水路へ落ち、流れまで塞いでいる。荷主らしき男が通行人へ何度も頭を下げていたが、皆困った顔をするばかりで、そのまま通り過ぎていく。
その時、一人の僧が町人の前へしゃがみ込んだ。
三十ほどに見える。身につけた墨染めの衣は質素で、草鞋には旅の泥が残っていた。
「まず、怪我はございませぬか」
「へ、へえ。私は何とも……。ただ、このままでは道を塞ぎますし、水も溢れてしまいます。今日中に薪を届けねば、代金もいただけませぬ」
「なるほど。それは困りましたな」
僧は折れた車輪を覗き込み、それから荷と水路を見比べた。
「車を直すには職人が要りましょう。まず荷を退けて、道と水を通しましょうか」
「ですが、これだけの量を私一人では……」
「では、某も運びましょう」
そう言うなり、僧は衣の袖を括り、地面へ落ちていた薪の束を抱えた。
「お坊様、そのようなことをしていただくわけには!」
「某一人増えたところで大した違いではありませぬが、一人より二人の方が早いでしょう」
僧が笑った、その時だった。
「あれ……この前のお坊様ではございませぬか?」
近くの店から男が顔を出した。
「おお、やはりそうだ。この前、我が店と御武家との揉め事を収めてくださった方ではないか」
「これはどうも」
「何をなさっておられるので?」
「ご覧の通りです。少々、道を開けようと思いましてな」
「ならば儂もやりましょう」
男が薪へ手を伸ばすと、それを見ていた別の町人も腰を屈めた。
「俺も手を貸すぞ」
一人増え、二人増えた。
向かいの商家から奉公人が綱を持って走ってくる。近くを通りかかった大工は折れた車輪を覗き込み、眉をひそめた。
「こいつは車輪だけではないな。軸まで痛んでおる。こいつは今日中には直らんぞ」
大工がそう言うと、荷主が青ざめた。
「それでは薪が……」
「うちの荷車なら空いておるぞ」
向かいの商家の店主が声を上げた。
僧はぱっと顔を明るくした。
「それはありがたい。では、皆で積み替えれば間に合いそうですな」
奉公人が駆けていく。
「では、その間にこちらの荷をまとめてしまいましょう。水路へ落ちた炭は先に上げた方がよろしいですな」
「そっちは儂らでやる」
「綱をこちらへ!」
誰かが声を上げ、それに別の者が応じる。
気づけば、先ほどまで遠巻きに眺めていた者たちまで動き始めていた。
僧は誰にも命じていない。ただ自分も薪を運び、手を貸した者へ「ありがたい」「助かります」と笑っているだけだった。それなのに、一人が始めたことを次の一人が拾い、そのまた次へと仕事が繋がっていく。
やがて空の荷車が運ばれてきた。
皆で薪や炭を積み替える間、大工は壊れた車を脇へ寄せ、後で直せるよう軸を外している。水路に落ちた荷も引き上げられ、塞がれていた水が勢いよく流れ始めた。
半刻も経たぬうちに、道は元通りになっていた。
しかも荷主は、借りた荷車で今日中に薪を届けられる。
「本当にありがとうございました。この御恩は忘れませぬ!」
荷主の町人は、何度も僧へ頭を下げた。
「いやいや。某は少し口を挟んだだけ。あとは皆さんがなされたことです」
「されど、お坊様がおられなければ、誰も集まりませなんだ」
僧は自分の袖についた木屑を払いながら、困ったように笑った。
「そう申されても、某は薪を何束か運んだだけですぞ」
周囲から笑いが起こった。
弥右衛門も、つられて口元を緩める。
近くにいた老人へ尋ねた。
「あの御坊をご存じで?」
「ええ。前からああなのですよ。困った者がおれば、いつの間にか首を突っ込んでおられる」
「何という御坊なので?」
「天海様、と名乗っておられます」
天海。
弥右衛門には聞き覚えがなかった。だが、興味は湧いた。
「勘十郎」
「はい」
「少し話していこう」
立ち去ろうとしていた僧へ声を掛ける。
「天海殿、とお呼びしてよろしいかな」
僧が振り返った。
「はい。某が天海にございます」
「木下弥右衛門吉成と申す。三河から参りました。先ほどは見事でございましたな」
「見事などと申されるほどのことはしておりませぬよ」
「某には真似できそうにない。誰にも命じておらぬのに、あれほど人が集まった」
天海は困ったように笑った。
「皆、最初から手を貸したかったのでしょう。ただ最初に動く者がおらなんだ。それだけにございます」
簡単に言う。
だが、その最初の一人になれる者が案外少ない。
「天海殿は京の御方で?」
「生まれは……まあ、この辺りですな。幼き頃に離れまして、今は諸国を巡っております」
「諸国巡っておられる?」
「寺を訪ね、人と会い、その土地を見るのが好きなのです」
「ならば三河にいらっしゃったことがおありで?」
「まだ深くは。ただ、近頃随分と騒がしい国とは聞いております」
天海は少し考えながら続けた。
「岡崎を中心に松平殿が勢力を固め、西尾から渥美にかけて木下殿がお治めになっている。今川は三河を失い、吉田は松平、田原は木下。――その程度なら、京でも耳へ入ります」
「その程度、ですか」
弥右衛門は苦笑した。
「某より三河の様子をご存じの京人もおられそうですな」
「京には諸国から人が集まりますゆえ。噂だけは嫌でも入ってまいります」
ならばと、弥右衛門は逆に京のことを尋ねてみた。
「某はこの町へ来たばかりでしてな。今の京では、誰へ話を通せば物事が動くのでしょう」
「難しい問いでございますな。何を動かしたいかによります」
天海の答えは淀みなかった。
「京では、一番偉い者へ話せばよいとは限りませぬ」
「ほう」
「公家へ頼むにも、その公家へ誰が話を持っていくかで値打ちが変わります。寺の口添えで動く者もあれば、商人の銭で耳を貸す者もいる。京では、人より先に、その人へ続く道を探した方が早うございます」
そこから話は公家、寺社、商人へと広がった。
誰に頼むかより、その者へ誰を通じて頼むか。天海の話を聞いていると、京では人と人との間に幾重もの道が張り巡らされているらしい。
「随分と京の事情にお詳しいのですな」
「京へは何度も戻っておりますゆえ」
天海はそれだけ言って笑った。
しかし、弥右衛門には少しだけ引っ掛かった。単に事情を知っているだけではない。高位の公家や武家を話題にしても、敬称や言葉遣いに妙な迷いがない。覚えて身につけたというより、そうした者たちの中にいることが当たり前だったかのようだった。
(本当にただの諸国巡りの坊主か?)
どこか名のある寺の僧か。
あるいは、公家に近い家の生まれなのかもしれない。
だが問い詰めるほどでもない。
やがて話が幕府へ移った。
「今年は六角まで京へ兵を入れ、また退いたとか。公方様も、さぞ難しいのでしょうな」
弥右衛門がそう言うと、天海は僅かに視線を落とした。
「……公方様も、難しいお立場にございますから」
ほんの一瞬だけ、声が変わった。
「上に立つ者は皆、難しいものなのでしょうな。某も三河の端で小さな国を持っただけで、毎日頭が痛い」
「それはまた、随分と贅沢なお悩みで」
「まったくです」
二人は笑った。
しばらく歩くうち、天海が尋ねた。
「木下殿は、どのような国をお作りになりたいので?」
「某の国ですか」
「ええ。戦に勝ちたい、領地を広げたいという話ではなく。その先にございます」
弥右衛門は少し考えた。
「難しいことは分かりませぬ。ただ、他所から見て、あそこへ行けば食える、商いができる、仕事があると思われる国にはしたいですな」
「人が集まる国、ですか」
「その通りです。人がおらねば、田も城も銭も何にもなりませぬからな」
天海は顎に手を当てると少し考えた。
「銭を持つ国、ではないのですな」
「蔵へ積んで眺めても仕方ありますまい。銭は使って、人や物を動かしてこそ意味がある」
「では、銭を使えば人は主君についてくると?」
「そこまで単純ではないでしょうな。ただ、腹を空かせた者へ忠義を説いても長くは続きませぬ」
「某もそう思います」
天海は頷いた。
「人は腹が減れば、善人でいることすら難しくなります。まず今日を生きられるようにせねばならぬ」
そこで少し笑った。
「されど、腹を満たせば心まで買えるというものでもないのでしょう」
「耳が痛いですな」
弥右衛門は笑ったが、胸のどこかへ小さな棘が刺さった。これまで自分は、人を動かす時にはまず利を考えてきた。それで随分とうまくいった。だが、先ほど薪を拾った者たちに、天海は一文も払っていない。
「木下殿を責めているのではございませぬよ。同じ禄をいただいても、この御方のためなら一肌脱ごうと思う者もおれば、禄が絶えればそれまでという者もおりましょう」
「では、何が違うのでしょうな」
「分かりませぬ。ただ、この人が困っているなら自分も少し手を貸そう。そう思わせる何かがあるのでしょう」
弥右衛門は、先ほどの荷車を思い出した。
「難しいものですな」
「だから面白いのでしょう」
そこで、黙って聞いていた勘十郎が口を挟んだ。
「殿の場合、まず家臣へ無茶を申される癖を直されるところからではございませぬか」
「勘十郎」
「事実にございましょう。仕事を頼む時ほど楽しそうな顔をされまする」
天海が声を上げて笑った。
「それは木下殿が悪い」
「天海殿……!」
「ですが勘十郎殿も、そう言いながら木下殿について京まで来ておられる」
「……まあ、それは」
「ならば、まったく悪い主君でもないのでしょう」
勘十郎が言葉に詰まり、弥右衛門が笑った。
天海は弥右衛門だけを相手にしなかった。勘十郎にも、後ろに控える供にも自然に言葉を向ける。
気づけば随分と長く話していた。
(……欲しいな)
ふと、そう思った。
京の事情に詳しい。頭も切れる。だが、それ以上に、この男が家中にいたら皆がこの男を好きになるだろうと思った。
「天海殿」
「はい」
「三河へ来ませぬか」
さすがの天海も目を瞬いた。
「……はい?」
「某に仕えてほしい。屋敷も用意いたしまする。禄も出そう」
勘十郎まで驚いて弥右衛門を見る。
だが弥右衛門は本気だった。
「我が家はまだ小さい。人も足りぬ。されど面白い国にするつもりです。天海殿のような御仁がおられれば、必ず良くなる」
天海はしばらく呆気に取られていたが、やがて楽しそうに笑った。
「今日初めて会った旅の坊主へ、いきなり禄をくださるという御方は初めてにございます」
「禄が嫌なら寺でも建てますぞ」
「木下殿……。ありがたいお話ですが、今はまだ一所へ腰を据えるつもりはございませぬ。見たい国も、会ってみたい人もおりますので」
「駄目ですか」
「されど、それほど面白い国を作っておられるのでしたら、三河にも寄らねばなりませんな」
「本当にございますか」
「ええ。諸国を回りますゆえ、三河にも寄らせていただきましょう」
「ぜひ来てくだされ。西尾でも田原でも、好きなところをご案内いたす」
「では、その折はお願いいたします」
天海は深く頭を下げ、そのまま人混みの向こうへ歩いていった。
弥右衛門も勘十郎も、その背中が見えなくなるまでしばらく眺めていた。
「……惜しい御仁ですな」
「ああ」
何者なのかという僅かな引っ掛かりより、また会いたいという思いの方が遥かに強く残っていた。
◼︎永禄五年十一月 山城国 上京
天海と別れた後、京の町を北に向かって歩く弥右衛門の機嫌は良かった。
「勘十郎。天海殿が三河へ来たら、次は逃がさぬぞ」
「嫌がる御仁を無理に召し抱えては、先ほどの話が台無しにございます」
「分かっておる。向こうから来たくなる国にすればよい。」
そんな話をしながら大路へ出た時だった。
前方から来る武者の一団を見て、勘十郎の足が止まった。弥右衛門もすぐに気づく。先頭を歩く若い男。穏やかな表情を浮かべ、その後ろには見慣れた三河武士たちが従っている。
「これは義父上。京でお会いするとは」
松平蔵人佐元康は、いつもの穏やかな笑みを浮かべていた。弥右衛門も同じように笑った。
「これは蔵人佐殿。奇遇にございますな」
先ほどまでとは違い、勘十郎が半歩後ろで口を閉ざした。
「義父上こそ、随分遠くまで来られたね」
「摂津へ用がありましてな。その帰りに京を見ておこうと思ったまでにございます。蔵人佐殿はいかなる御用で?」
「朝廷の方々へ挨拶をしている。少し、欲しいものがあってね」
「ほう。何をお求めで?」
蔵人佐は、何でもないことのように答えた。
「三河守だよ」
弥右衛門は、一瞬言葉を失った。
「……三河守、にございますか」
「うん。まだ話を通しているところだけれどね」
胸の奥に、引っ掛かるものがあった。三河は、まだ松平一色ではない。
――西尾、東条、上ノ郷。さらに渥美半島。
木下もまた三河に領地を持ち、人を治め、兵を抱えている。
それでも蔵人佐は、三河守を望む。もしその官途を得れば、京から見た「三河を治める者」は、蔵人佐になる。
「……随分と大きく出られましたな」
「そうかな」
蔵人佐は穏やかに笑った。
「私としては、三河を治めていく上であった方が都合がいいと思っているだけだよ」
「しかし三河には、某もおりますぞ」
自分でも分かるほど、少しだけ言葉に棘が混じった。
蔵人佐はそれを聞いても、表情を変えなかった。
「もちろん分かっているよ、義父上」
その返しが、余計に腹立たしかった。
分かった上で、三河守を取りに来ているのだ。
そして弥右衛門にも分かっていた。
少なくとも、この勝負では松平に勝てない。
兵の数でも、領地の広さでもない。
もっと古くから積み重ねてきたものの差だった。
弥右衛門は尾張中村の百姓から這い上がった。銭も城も兵も後から手に入れたが、何代も遡る由緒だけは、そう簡単には手に入らない。
「もっとも」
蔵人佐が少し肩をすくめた。
「松平のままでは、三河守を望むにしても話が簡単ではないらしくてね」
「……家格にございますか」
「家格というより、朝廷へ何者として名乗るか、という話らしい。だから姓を改める」
「姓を?」
「徳川と名乗るつもりだ」
その瞬間、弥右衛門の思考が止まった。
――徳川。
歴史に詳しくなくとも、その名だけは知っている。
徳川家康。
江戸幕府を開いた男。
(……こいつ、本当に徳川家康になるんだな)
「義父上?」
「ああ、失礼。松平のままでは具合が悪い、と」
「徳川と名乗れば、望む官途へ繋がる筋を立てやすいそうだ。松平の祖を遡り、朝廷へ示せる系図も整えることになる」
蔵人佐は軽く言った。
だが弥右衛門には、その一手の重さがよく分かった。
三河を統一していない。それどころか、その一角には木下がいる。それでも蔵人佐は、三河守という名を取りに行ける。
木下には真似のできない一手だった。
銭なら稼げる。兵なら集められる。
だが、松平が今使おうとしているのは、そのどちらでもなかった。
祖先。姓。官途。朝廷。
木下弥右衛門が今から欲しいと言っても、すぐには手に入らぬものばかりである。
木下と松平は同じ三河で争っている。
されど、生まれた時から持っている札まで同じではなかった。
「ところで義父上。最近、遠江が少し騒がしくてね」
蔵人佐が何気なく話題を変えた。
弥右衛門の胸の奥が、僅かに締まる。
「今川家中で疑われている者や、立場を悪くした国人から文が来るようになった。本領を安堵してほしい、今川から攻められたら庇護してほしい。中には、こちらが兵を出すなら内応するとまで言ってくる者もいるよ」
「それはまた、松平殿の御威光が遠江まで届きましたな」
「私としては困っているんだけどね」
蔵人佐は苦笑した。
「しばらく三河を整えたい。戦続きで田畑も荒れ、兵も疲れている。義父上の領内へ人や商人が流れているのも、正直に言えば困っている」
「それは申し訳ございませぬ」
「そちらが良い土地を作っているから人が行くのであって、私が文句を言う筋ではないよ」
口調は柔らかいままだった。
「ただ、松平を頼ってきた者を無下にもできない。一度庇護すると決めれば、今川に攻められた時には助けなければならない」
弥右衛門は黙って聞いた。
狙い通りだった。遠江から頼る者が増えれば、蔵人佐は無視しにくい。受け入れれば、兵も銭も使うことになる。
それなのに、少しも喜びが湧かなかった。
「ただね」
蔵人佐が首を傾げた。
「妙なんだ」
「何がでございましょう」
「増え方が急すぎる」
弥右衛門は表情を変えない。
「少し前まで皆、今川が立ち直るのか、私が三河を固め切れるのかを見ていた。それが、ここへ来て急に動き始めた。しかも遠江のあちらこちらで、似た時期にね」
蔵人佐の目が、弥右衛門へ向いた。
「義父上は、何かご存じないかい?」
勘十郎の気配が僅かに固くなる。
「さて。某には何とも。松平殿の御威光が遠江まで届き始めたのでございましょう」
「そうかな」
「そうでございましょう」
蔵人佐はしばらく弥右衛門を見つめ、それからいつもの穏やかな笑みを少しだけ深くした。
「ならば、そういうことにしておこう」
それ以上、元康は尋ねなかった。
弥右衛門には、その方が余程恐ろしかった。
「では義父上。私はこれから、もう一つ公家の屋敷へ顔を出さねばならない。尾張へ行かれるのであれば、織田殿へよろしく伝えておいてくれ」
「承知いたしました」
蔵人佐は今度は勘十郎に目を向けた。
「遠江についても、何か面白い噂を聞いたら教えてほしいな」
「無論にございます」
「では、また三河で会おう。私たちの国でね」
最後まで穏やかなまま、蔵人佐は去っていった。
その姿が人混みへ消えた後、勘十郎が小さく息を吐く。
「……気づかれ始めておりますな」
「ああ」
弥右衛門も否定しなかった。
今回の旅で、木下は随分と手を広げた。
松平もまた、立ち止まってはいない。
木下が銭を稼ぎ、人を集め、裏から遠江を揺さぶっている間に、松平もまた強固な家臣団だけに頼らず、別の手を伸ばしている。
それも、木下には容易に真似のできぬところへ。
「……一長一短だな」
「左様にございますな」
天海を見た時には、あのような人物が欲しいと思った。蔵人佐と話した今は、もっと単純だった。
「勘十郎」
「はい」
「人を探すぞ。木下に足りぬものを持つ者を探す」
「また良き人がいれば声を掛けられるので?」
「無論だ。今はな」
「今は?」
「いつまでもこちらから追いかけてばかりではいかん。天海殿のような者が、自ら見に来たくなる国にする」
弥右衛門は京の大路を見渡した。
天海の周りには、命じられずとも人が集まった。
元康は、木下にはない由緒と朝廷まで使おうとしている。
自分には銭がある。商いがある。人を食わせることなら、少しはできるようになった。
だが、それだけではないらしい。
「さて。尾張へ参ろう」
ご拝読いただきありがとうございます。
京都では、天海と元康という似ているようで対極的な二人と出会いました。次回はこの旅の終点、尾張です。
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