#52 堺と海の向こうの町
◼︎永禄五年十一月 和泉国 堺
石山本願寺を発った弥右衛門一行は、京へ向かう前に南へ回り、堺へ入った。
同行する下間右兵衛尉頼廉からすれば、かなり露骨な寄り道である。だが弥右衛門には、一度この町を自分の目で見ておきたい理由があった。
日本有数の商業都市――堺。
加えて遁尾衆から、この町には南蛮の伴天連がいるとの報せも届いていた。石山で根来の鉄砲生産へ出資する話が動き始めた以上、硝石や鉛、海の向こうとの交易について知る者には会っておきたい。
ところが町へ入る前から、弥右衛門の興味は別のものへ奪われた。
「……城がない」
「ございませぬな」
なのに、守りが薄いようには見えない。西には海があり、町の外れには濠が走る。町への入口には人の目があり、一歩中へ入れば家と店と蔵が隙間なく続いている。
城主の威勢で守られた町ではない。
町そのものが、自らを守る形を持っている。
その奥では、米、塩、油、木材、陶器、布――あらゆる物が動いていた。荷を担ぐ者、値を決める者、帳面を睨む者が絶えず行き交い、どこを見ても銭の動く気配がある。
「……一色湊が、随分と可愛らしく思えてくるな」
「木下領を合わせても、まだ届きませぬな」
勘十郎も、いつになく素直に感心していた。
座株楽座天王を作り、湊を整え、街道を直し、商人を集めてきた。それなりに栄えた町を作ったつもりになっていた弥右衛門だったが、堺を歩くだけでその自信が少しずつ削られていく。
下間右兵衛尉がそんな二人を見て問いかけた。
「弥右衛門殿は、何をご覧になっておられるので?」
「誰がこの町を動かしているのか、と思いましてな。これだけの船と蔵と商人を、武家が一つ一つ差配しているようには見えませぬ」
普通の城下なら、まず城がある。そこから道が延び、家臣屋敷があり、市が置かれる。
だが堺は違う。
武家の力が及ばぬわけではない。この畿内で三好を無視して生きていける町などあるまい。それでも、日々この町を動かしているものは城主の命令とは別のところにあるように見えた。
そんなことを考えながら歩いていた時だった。
勘十郎が不意に足を緩めた。
「殿。あれを。遁尾衆の報せにあった者ではございませぬか?」
視線の先に、明らかに周囲とは異なる一団がいた。
背が高く、鼻筋が通り、肌の色も日本人とは違う男。その傍らには日本人らしき男もいる。南蛮風の衣を纏った者たちの胸元には、見覚えのある十字の印があった。
弥右衛門は思わず見入った。
令和の世で木内亮治だった頃は、外国人など珍しくもなかった。仕事でも旅行でも、数え切れないほど顔を合わせている。五年ほど担当した南米の仕事では、現地で覚えた言葉を使うこともあった。
だが、ここは永禄五年の日本である。
電車の向かいに外国人が座っているのとは、わけが違う。
「……伴天連の者ですな」
下間右兵衛尉が低く言った。しかし少し考えた後、肩をすくめる。
「もっとも、御上人ならば『信心はともかく、あれは銭の匂いがする』と申されそうですが」
「奇遇ですな。某も同じことを考えておりました」
右兵衛尉が呆れた顔をする横で、弥右衛門はすでに南蛮人へ向かって歩き出していた。
日本人の男がこちらに気づき、一歩前へ出る。
「何か御用でございましょうか」
「木下弥右衛門吉成と申す。三河より参った者にございます。南蛮の方と少し話をさせていただきたい」
男が後ろの南蛮人へ伝えようと振り返る。
その前に、弥右衛門は一歩だけ前へ出た。
「Deus vos salve. Chamo-me Kinoshita Yaemon」
――ごきげんよう。木下弥右衛門と申します。
南蛮人の目が丸くなった。
それ以上は続けない。
ポルトガル語を話したのは、商談をするためではない。名前を覚えさせるためだった。
この男が日本で何十人、何百人と人に会おうとも、自分の言葉で名乗った三河の領主なら、しばらくは記憶に残るだろう。
狙い通り、南蛮人は明らかに興味を示した。
「ガスパル・ヴィレラ師でございます。私はロレンソ。洗礼を受け、今はロレンソ了斎と名乗っております」
弥右衛門は内心で二人の名を反芻した。
ロレンソ了斎。
そして、ガスパル・ヴィレラ。
どちらも覚えておいた方がよさそうな名である。
「ヴィレラ殿は、普段から堺におられるので?」
了斎は首を横へ振った。
「いえ。今は都におります。本日は以前より世話になっている堺の商人へ用向きがあり、こちらへ戻って参りました。明日にはまた都へ戻ります」
弥右衛門は少しだけ目を瞬いた。
どうやら遁尾衆の報せは少し古かったらしい。それでも、今日ここで会えたのなら文句はない。
今度はヴィレラが了斎を介して尋ねた。
「木下殿は、どこで我らの言葉を覚えられたのでしょう。少し変わった響きがございますが、たしかにポルトガルの言葉である、と申しております」
「今川に仕えていた頃、太原雪斎公から、海の外の者とも話せる人間を作っておけと命じられましてな。たまたま言葉を知る者がおりましたので、少々」
横から、勘十郎の視線が突き刺さった。
――そんな話は初めて聞きましたが。
顔にそう書いてある。
弥右衛門は見なかったことにした。
死人に口なし。雪斎公ほど、何を考えていても不思議ではない人物もそうはいない。
了斎の説明を受けてヴィレラは納得したのか、少なくとも面白そうには頷いた。それから自分たちがイエズス会の者であり、日本へ神の教えを伝えるために来たのだと説明し始めた。
「我らが説くのは、天地万物を創られたただ一人のデウスについてでございます」
了斎は静かな声で続けた。
「武士であろうと百姓であろうと、デウスの御前では皆、救われるべき魂を持つ者にございます。富や身分があるからとて、その者だけが救われるわけではございませぬ」
弥右衛門は思ったより真面目に聞いた。
戦国の世では、人は生まれた家と身分によって随分と扱いが変わる。そこへ魂そのものに貴賤はないと言われれば、心を動かされる者がいるのも分かる気がした。
「なるほど。身分より先に、人の魂を見る教えということですな」
「左様にございます。そしてデウスは人を愛されるがゆえに――」
「ところで、南蛮船では硝石も運ぶと聞いたことがございますが、どこより参るものなのでしょう」
了斎の言葉が止まった。
下間右兵衛尉が横を向いた。笑いを堪えているらしい。
それでもヴィレラは嫌な顔をせず、訳を聞くとむしろ面白がったように笑った。
そこから弥右衛門の質問は止まらなくなった。
硝石はどこから来るのか。鉛はどこで手に入るのか。そして、それを運んでいるのは誰なのか。
ヴィレラは商人ではないため細かな値や取引量までは知らなかったが、明から運ばれる絹、南方から来る薬種、南蛮人が拠点とする澳門、九州の港を経て日の本へ品が入ってくることなど、自ら知る範囲の交易について話してくれた。
やがてヴィレラが何かを言い、了斎が笑いながら訳す。
「ヴィレラ師が、木下殿は神のことより商いの方がお好きなようだ、と申しております」
「神仏のことは坊主に任せておりまする。某は領民を食わせねばなりませぬゆえ」
今度こそ下間右兵衛尉が弥右衛門を見た。その坊主の一人が、まさに自分なのだが。そう言いたげな顔だった。
もっとも弥右衛門にとって、硝石と鉛の話は単なる好奇心ではない。
石山で顕如と酔った勢いから生まれた、座株楽座根来。根来で鉄砲を増やすなら、火薬と弾を継続して揃える道が必要になる。
だからといって、ここでいきなり取引を持ちかける気にはならなかった。
誰が扱い、どれほどの量が動き、誰に話を通せばよいのか。それすら分からず商談を始めれば、こちらから騙してくれと言っているようなものだ。
「ヴィレラ殿。もし三河へ来られることがあれば、我が領へもお寄りくだされ。歓迎いたしますぞ」
了斎が訳すと、ヴィレラは嬉しそうに何か答えた。
「布教のお話も、お聞きいただけますかな、とのことです」
「もちろん。その後で、商いの話も聞かせてくだされ」
ヴィレラが声を上げて笑った。
それから話題は、目の前の堺へと移った。
弥右衛門が、この町はなぜこれほど栄えているのかと尋ねると、ヴィレラと了斎は顔を見合わせた。
了斎によれば、堺では富を持つ商人たちが町の運営にも大きく関わっているという。有力者たちが寄り合い、町を守り、商いを続けるための決まりを作る。武家や寺社の力を拒んでいるわけではなく、それらと折り合いをつけながら、町のことは町の者たち自身で動かしている。
弥右衛門はその話に強く惹かれた。
座株楽座天王も、木下家が商人を雇って動かしていない。
木下家が持つ座株は三割。残りは商人や天王社が持ち、日々の差配は座主を中心とした商人たちに任せている。木下家は土地を差し出し、その中では年貢も関銭も取らない。その代わり、他の株主と同じように座から配当を受ける。湊や道を整える銭も、必要なら座の勘定から出す。
自分なりに、商人の銭と知恵をできる限り使える形を考えたつもりだった。
だが、堺を見ていると、そのやり方だけが答えとも思えなくなってくる。
「南蛮にも、このような町がございますか」
了斎はヴィレラの言葉を聞き、少し考えてから訳した。
「ヴィレラ師は、以前この町のことを国へ書き送りました。その折、海の向こうのヴェネツィアという町に似ている、と」
「……ヴェネツィア?」
その言葉を聞いた瞬間、弥右衛門の脳裏にその景色が浮かんだ。
青い海。
水路を行き交う舟。
サン・マルコ広場。
古い建物の間を歩き、ゴンドラに乗り、写真を撮った。
――行ったことがある。
木内亮治だった頃、旅行で訪れた。
美しい街だった。飯もうまかった。観光も楽しかった。
だが、なぜあの町が栄えたのかは知らない。
商人がどう政治へ関わり、海の利益をどう守っていたのか。考えたことすらなかった。
(……何を見ていたんだ、俺は)
未来から来たところで、知らないものは知らない。
当たり前のことだった。
歴史書も経済書も百科事典も、頭の中に丸ごと入っているわけではない。自分が知っているのは、木内亮治という一人の男が、生きている間に仕事で覚え、興味を持ち、たまたま記憶したことだけなのだ。
ならば、今から覚えればよい。
「ヴィレラ殿。三河へ来られた折には、そのヴェネツィアという町についても聞かせてくだされ」
了斎が訳すと、ヴィレラは不思議そうな顔をした後、快く頷いた。
南蛮人たちと別れた後、弥右衛門はもう一度堺の町を眺めた。
一色湊と堺は、まるで違うようでいて、どこか似ている。どちらも、武家が一から十まで差配せず、商人自身の銭と知恵で町が動いている。
だが、一色では、弥右衛門が先に枠を作り、その中へ商人を入れた。堺は、商人たちが先に商いを積み重ね、その後から町の形が出来上がっているように見える。
どちらがよいのか、今の弥右衛門には分からない。
そもそも座株楽座天王とて、二年前に弥右衛門が思いついた仕組みにすぎない。今は上手く回っているが、それが十年先も同じとは限らない。
ならば、堺を見ればよい。南蛮人がヴェネツィアを知っているなら、それも聞けばよい。使えるものがあれば、一色へ反映していけば良い。
堺を発つ前、弥右衛門は勘十郎を呼び止めた。
「この町の有力者なら誰でもよい。一人、我らと話のできる者への繋ぎを作っておけ」
「硝石や鉛のためにございますか?」
「それもある。だが、堺の商人とも繋ぎを作っておけ。会合衆の大物でなくてよい。町の内情を知り、長く話のできる者がいい」
「承知いたしました」
「それと、この町が武家とどう付き合っているのかも見ておいてくれ」
勘十郎が頷いた。
「世の中、知らぬことばかりだな」
「今更でございますか?」
弥右衛門は苦笑した。
知らぬなら、知ればいい。
一行はそのまま、京へ向かった。
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次はいよいよ京都へ弥右衛門がたどり着きます。
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