#51 銭好きの二人
◼︎永禄五年十一月 摂津国 石山本願寺・奥座敷
最初のうちは、普通の酒宴だった。
膳には魚や野菜、豆腐を使った料理が並び、銚子から酒が注がれる。顕如の傍らには下間右兵衛尉が座り、弥右衛門の後ろには勘十郎が控えていた。
二十にも届かぬ若者と、四十五ほどの男。親子ほど年は離れ、片や全国の門徒を束ねる本願寺宗主、片や三河に領国を築いて間もない新興大名である。本来なら、そう簡単に打ち解ける間柄ではない。
だが酒が二巡する頃には、二人の間から妙な遠慮が消えていた。
「弥右衛門。余は前から思っておるのだが、人を動かすなら脅すより得をさせた方が早い」
「まったく同感にございます。人は損をする話には理屈を並べますが、儲かる話となれば、こちらが何も言わずとも知恵を絞りまする」
「銭を出して兵を百人動かすより、一人の商人を大儲けさせた方が、時には千人分の荷を動かす」
「しかも、その商人が別の商人を連れてくる」
「分かっておるではないか!」
顕如が嬉しそうに盃を掲げ、弥右衛門も笑って応じた。
二人とも、銭を貯め込むことより、それによって人や物が動くことを面白がる性質らしい。道を整えれば商人が来て、市が立ち、人が集まり、また新たな銭を生む。話題は商いから政治へ、人の欲へと途切れることなく移っていった。
「武士は忠義で人が動くと申すがな。信心とて、腹が満ちてこそ続く。寺を直すにも、門徒を養うにも銭は要る」
「銭を持つことが大切なのではなく、銭は他のものに変えられるから大事なのでしょうな」
「そう。それだ」
顕如が膝を叩く。
下間右兵衛尉は黙って二人を眺めていた。人の欲を見極め、銭と人脈で相手を動かす顕如に対し、弥右衛門もまた驚くほど似た考え方をしている。
「そういえば弥右衛門。空誓から聞いたが、本證寺へ随分と景気よく銭を出したそうではないか」
「ああ……あれでございますか」
「本山へ回ってきた分だけでも相当な額であったぞ。そなた、やはりかなり儲けておるのだな」
弥右衛門は苦笑した。
「それが、そうでもございませぬ。木下は今、入ってくる銭を片端から使っておりまする。城を直し、道を造り、湊を整え、常備兵を雇い、鉄砲を買う。その上、今度は渥美まで手に入りましたからな」
「では、あの布施はどこから出した?」
「木下の透破の蓄えにございます」
「透破どもの銭か?」
「左様。遁尾衆には、いざという時すぐ動かせるよう銭を蓄えさせておりまする。人を買収するにも、逃げ道を作るにも、情報を買うにも、最後にものを言うのは銭でございますからな」
「その非常の銭を、本證寺へ回したのか」
「十分に使う価値があると思いましたので」
顕如が面白そうに目を細めた。
「なるほど。それほど空誓を買ったか」
「空誓殿だけではございませぬ。本證寺との縁を深めれば、その先には本山との縁もございましょう。今こうして上人と酒を酌み交わせているのも、その銭が無駄ではなかった証かと」
顕如は満足そうに頷いた。
「で、その透破どもはどうやって銭を貯めておる?」
「商いでございます」
「透破が商いを?」
「商人ほど諸国を歩き回りやすい者もおりませぬからな」
遁尾衆は駿河や遠江へ潜る際、商人を装うことが多い。武士がうろつけば警戒される場所でも、荷を背負った商人なら入り込める。ならば姿だけでなく、本当に商売をした方が都合がよい。
「米、兵糧、馬、武具、日用品。自ら荷を扱う者もおりますし、懇意の商人へ話を流して口銭を取る者もおりまする。無論、目当ては商いだけではございませぬ」
「物の動きから情報を拾うのか」
「左様。米が上がった。馬が大量に買われた。鍛冶屋に槍の注文が増えた。それだけでも戦支度は読めまする」
「面白い」
「ところが、先の戦を前に今川が盛んに軍備を整えましてな」
顕如の口元がゆっくり上がった。
「……まさか」
「その、まさかにございます」
軍需が膨らめば、当然そこに商機が生まれる。しかも遁尾衆は今川家中を探っているため、普通の商人より早く何が必要になるかを察知できた。
「つまり今川が、そなたを討つために戦支度をするほど――」
「今川領で商いをしていた木下が儲かりました」
数瞬の沈黙の後、顕如が声を上げて笑った。
「はははははっ! よい! 敵がそなたを討つために使った銭を、そなたが掠め取ったということではないか!」
「全部ではございませぬよ」
「その銭を空誓へ渡し、今度は本證寺を味方につけた」
「結果としては、そのようになりましたな」
「最高ではないか!」
顕如は心底愉快そうだった。
下間右兵衛尉は笑いながら、頭の中で銭の流れを追った。今川の戦支度で生まれた利益が本證寺へ渡り、その縁が後の三河で木下を助けた。
(敵の戦支度から生まれた銭で、その敵と戦う味方を増やしたのか)
偶然始まった商いだとしても、その利益を何へ使うかには明確な意図がある。
弥右衛門は大仰に自慢するでもなく、静かに酒を口へ運んでいる。その横では顕如がまだ楽しそうに笑っていた。
(……なるほど。気が合うわけだ)
その時だった。
「ところで弥右衛門。先ほどから、鉄砲に銭が掛かると何度か申しておったな」
「ええ。今後の木下軍の柱にしたいと思っておりまするが、如何せん高い」
「何丁持っておる?」
「百前後にございます」
顕如が目を丸くした。
「領国を持ってまだ間もない割には、随分と集めたではないか」
「されど足りませぬ。できることなら、あと三倍は欲しい」
顕如は盃を置き、少し考えるように目を細めた。
「弥右衛門。鉄砲、買うばかりではつまらぬな……」
◼︎永禄五年十一月 摂津国 石山本願寺・客人宿所
翌朝、弥右衛門は僅かに重い頭を押さえながら身体を起こした。
昨夜は随分と飲んだ。山科や伊勢について話したことも、その後に顕如と商いの話で盛り上がったことも覚えている。ただ、最後の方だけがどうにも曖昧だった。
「……根来、だったな」
鉄砲の話から、顕如が紀伊の根来について語り始めたことまでは覚えている。その先、何をどこまで決めたのかが綺麗に繋がらない。
すでに身支度を整えていた勘十郎へ顔を向けた。
「昨夜、鉄砲の話をしてから、どこまで話した?」
「かなり先まで」
「……そうか。聞かせてくれ」
「では、順に」
勘十郎によれば、顕如が口にしたのは紀伊の根来寺だった。根来には鉄砲を扱う者が多く、作る鍛冶も、自ら鉄砲を担いで戦場へ出る者もいる。そして、根来は本願寺の配下ではないが、話を通す伝手はあるという。
「そこで殿が、『作る者も使う者もいるなら、生産そのものを増やせぬか』と」
「……そこまでは覚えておる」
「上人様もすぐに乗られました。銭が足りぬなら銭を出せばよい。人が足りぬなら、余のところでも探してやれる、と」
弥右衛門は顎を撫でた。
完成した鉄砲を一丁ずつ買い集めるより、すでに作れる土地へ銭を入れ、生産そのものを増やした方が早い。鉄や木は銭を積めばある程度集められる。だが鍛冶はそうはいかない。火薬とて、増産となれば材料をどこから集めるか考えねばならぬ。そこへ本願寺の人脈と商人の網が加わるなら、筋は悪くない。
「そこから上人様が、『木下だけが買っていては大きな銭にならぬ。他国へも売ればよい』と」
「いかにも上人らしいな。それで私も乗ったのか?」
「かなり」
「……続けてくれ」
鉄砲を増産し、木下家が一定数を買う。余れば諸国へ売り、弾や火薬までまとめて扱う。
「殿は、『鉄砲を買っても使い方を知らぬ者は多かろう』と」
「それは確かに申した気がするな」
「そこで上人様が、『ならば、使い手までひとまとめに商えばよい』と」
鉄砲、火薬、弾。それを扱う使い手まで送り込む。武器を売るだけではなく、戦場で使えるところまで一まとめにして商いにする。
「……面白いな」
「昨夜も同じことを申されておりました」
弥右衛門は苦笑した。
そして話は、座株楽座天王の仕組みへ進んだらしい。
「木下と本願寺が銭を出し、根来にも座株を持たせる。作った鉄砲や火薬を売り、利益を三者へ戻す。上人様が提案し、殿も乗り気でした」
「……随分進めたものだな」
「新しい座まで作ると」
「待て。まさか名前まで決めたのではあるまいな」
「決めておられました」
「……何と?」
「座株楽座根来」
弥右衛門はしばらく黙った。
「誰が付けた?」
「上人様にございます」
「……あの御方か」
昨夜の自分も間違いなく賛成したのだろう。
「座株は?」
「三者で分けるところまで。ただし取り分は根来側と話してから、と」
「それは当然だ。まず向こうの話を聞かねばな」
根来は本願寺の配下ではない。
木下と本願寺だけで勝手に形を決め、後から乗れと迫っても長続きはしない。
「他には?」
「根来の鉄砲衆を、少人数でも木下家で雇ってみてはどうかという話になりました」
「それはよい。鉄砲だけでなく、扱う者を見たい。構え方も撃ち継ぎも、火薬や弾の運び方も、我らには知らぬことが多かろう」
「では、話がまとまれば?」
「何人か雇おう」
弥右衛門は水を飲んだ。
酒で判断を誤ったわけではないらしい。
ただ普段なら一度持ち帰るところを、気の合う顕如を相手に何段階も先まで話してしまった。
その時、障子の向こうから声が掛かった。
「木下殿。お目覚めでございますか」
入ってきた下間右兵衛尉は、昨夜遅くまで酒席にいたとは思えぬほど普段と変わらない。
「昨夜の鉄砲商いの件ですが」
「ちょうど今、勘十郎から聞いておりました」
右兵衛尉が僅かに苦笑した。
「一つだけ。その『座株楽座根来』という名は、まだ根来へ申されぬ方がよろしいかと」
「……確かにそうですな」
「我らだけで勝手に根来の名を付けたと知れれば、商い以前の話になりまする」
「酒とは恐ろしい」
二人は小さく笑った。
「ともあれ、まず根来の意向を聞きましょう」
「上人様も同じお考えです」
「ならば結構」
こうして酒宴の席で生まれた話は、一夜明けて正式な検討事項へと変わった。
まだ座株楽座根来ができたわけではない。
それでも、話は動き始めていた。
◼︎永禄五年十一月 摂津国 石山本願寺・山門
出立の支度を整えた弥右衛門は、最後に顕如へ挨拶しようとしたが、下間右兵衛尉に止められた。
「上人様は今、少々手が離せませぬ」
「もしや……」
「根来の件にございます。朝から寺内の者を呼びつけ、根来へ話を繋げられる者はもちろん、鉄や火薬を扱う商人へ伝手を持つ者がおらぬか、片端から当たらせております」
弥右衛門は本願寺の奥へ視線を向けた。
「本当に動いておられるのですな」
「朝からずっと」
「昨夜は某より飲んでおられたと思うのですが」
「上人様は昔から朝がお強いので」
「……羨ましい限りですな」
昨夜生まれたばかりの話が、もう人を動かしている。
「それと木下殿。本来のお話について、上人様より申し付かっております」
下間右兵衛尉の表情が引き締まった。
「山科と伊勢ですな」
「左様。ゆえに、私も尾張まで同行いたします」
弥右衛門は僅かに目を見開いた。
「右兵衛尉殿が?」
「上人様の仰せにございます。織田上総介殿が山科について何と申されるか、私自身が聞いて参れと」
昨日の話はまだ仮の合意に過ぎない。弥右衛門一人が「本願寺も伊勢で協力する」と語ったところで、信長にとって確かな保証にはならない。
それだけではなく、織田と本願寺が本当に利を分けられるのか、そして弥右衛門が信長へどれほど話を通せる男なのか。それも見極めるつもりなのだろう。
「……なるほど。では、道中よろしくお願いいたしまする」
「こちらこそ」
石山へ入った時には、弥右衛門と勘十郎、それに数名の遁尾衆だけだった。そこへ本願寺宗主の側近まで加わる。
駿河では今川との間に細い糸を結び、甲斐では武田から二年という時間を買った。そして石山では山科と伊勢を巡る取引を結び、予定にもなかった鉄砲商売の種まで拾った。
「さて」
弥右衛門は石山の山門を振り返った。
「尾張へ戻る前に、少し寄り道をしよう」
「どちらへ?」
「まず堺だ」
「堺に何か?」
「南蛮人に会う」
右兵衛尉が眉を上げた。
「南蛮人、ですか」
「鉄砲を増やすなら、鉄砲だけ集めても仕方あるまい。火薬も要る。鉛も要る。それに、海の向こうから入ってくる品もあると聞く」
昨夜までは、ただ一度会ってみたいと思っていた。
だが今は、少し違う。
根来で鉄砲を増やすというなら、その材料がどこから来て、誰が運び、どこで銭に変わるのかまで知っておきたい。
「それに――」
弥右衛門は三河のある東へ目を向けた。
「渥美の先には海がある。その向こうに何があるのか、知らぬままでは湊など造れぬ」
勘十郎が小さく息を吐いた。
「殿。旅程がまた伸びましたな」
「折角ここまで来たのだ」
弥右衛門は笑った。
「日の本の外まで見て帰ろうではないか」
こうして一行は石山を後にした。
次なる目的地は、日の本でも指折りの商業都市――堺。
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