#50 石山本願寺
五十話目です。
一つの節目を迎える本作をここまでお楽しみいただきありがとうございます。
これからもお楽しみください。
◼︎永禄五年十一月 摂津国 石山本願寺
木下弥右衛門一行は美濃を避けるように山道を西へ抜け、近江を経て、ようやく摂津へ入った。
武田から二年を買った。
代わりに、塩をさらに二割安く売ることになった。
時間は得た。銭は失う。
木下家にはこれから渥美開発、湊、城、鉄砲と、銭を呑む話が山ほどある。
(どこかで新しい稼ぎ口を作らねばな……)
そこで頭に浮かぶのが、これから会う本願寺だった。
本證寺との付き合いだけでも分かる。寺には人が集まり、市が立ち、物と銭が動く。まして石山本願寺は全国に寺と門徒を持つ巨大宗門だ。もちろん今回の第一の目的は関係性の構築だが、上手く話が合えば、それだけでなく何か金になる話もできるかもしれない。
そんなことを考えているうちに、巨大な石山本願寺が見えてきた。
「……これは寺というより、城だな」
堀と土塁に囲まれた境内。その周囲には家々が密集し、僧侶、門徒、商人、職人、船頭が絶えず行き交っている。湊には荷船が並び、市には米や油、木材、紙、塩が溢れていた。
これほど大きな構えを見たのは、この時代へ来てから初めてだった。
「殿。本證寺とは桁が違いますな」
「ああ。比べるものではないらしい」
これほどの人、物、銭を抱える組織が、全国各地へ糸を伸ばしている。下手な大名家より余程恐ろしい。
そして――商いの相手としても面白い。
案内の僧に導かれ、広間へ入る。
上座に座していたのは、本願寺第十一世宗主・顕如。
まだ二十前後の若者である。
「木下弥右衛門吉成にございます。本日は――」
「堅い、堅い。空誓から散々聞いておる。そのような挨拶はいらぬ。近う寄れ」
また名乗りの途中で遮られた。
(……そういえば武田殿にも、名乗りを最後まで聞いてもらえなかったな)
だが、あちらとはまるで違う。
信玄の「座れ」は、こちらを押し潰すような重さがあった。対して顕如の声には、待ち望んだ客がようやく来たという親しげな軽さがある。
「では、お言葉に甘えまして」
弥右衛門が座り直すと、顕如は楽しげに身を乗り出した。
「木下弥右衛門。百姓あがりが桶狭間を境に織田上総介へ近づき、今では三河に領国を築いておる。座株楽座天王なる妙な座まで作り、塩を売り、湊を整え、商人どもと一緒になって銭を稼いでいるそうではないか」
さらに、本證寺へ巨額の布施を出したことまで挙げ、顕如はニヤリと笑った。
「……色々と聞いたぞ」
「空誓殿からにございますか」
「そうだ。あやつが『木下弥右衛門という男は、きっと上人様と気が合いまする』と申してきた。しかも最後に、『金になる話ができましょう』とな」
弥右衛門は思わず笑った。
「それはまた、空誓殿らしい」
「ゆえに、そなたとの話をほとんど全部知らせてきた。道を通したことも、木下領側の関銭を軽くしたことも、市を繋げたことも、布施を出したこともな」
顕如は愉快そうに笑う。
「余も銭の話は嫌いではない。むしろ大好きだ。だから今日は、そなたがどんな男か随分楽しみにしておった」
「奇遇でございますな」
「何がだ?」
「某も武田殿に随分と銭を取られましてな。本願寺へ参れば、何か金になる話の一つでも見つからぬものかと考えておりました」
一瞬の沈黙。
次いで顕如が大笑いした。
「はははっ! 会って早々、それを余に申すか!」
「隠しても仕方ありますまい」
「よい。実に良いぞ。ますます空誓の申した通りではないか」
顕如は笑っている。
だが、その目だけは笑っていなかった。
空誓から話を聞いているからこそ、弥右衛門が本当に使える男なのか、自分の目で測っている。
「それにしても弥右衛門。そなた、空誓を随分とうまく手懐けたようだな」
弥右衛門はすぐには否定せず、柔らかく笑った。
「いえ。空誓殿ほど聡い御方を、某が手懐けたなどとは、とても申せませぬ。あの御方とは主従でも上下でもなく、互いに利のあるところで手を結ばせていただいただけにございます」
「ほう。では、空誓は何を欲していた?」
弥右衛門は少し考えて答えた。
「実績にございます」
「銭でも土地でもなく?」
「無論、それらも必要でしょう。されど一番欲しておられたものは、『自分の代になって本證寺が栄えた』と周囲から認められることではないかと」
若くして本證寺を任された空誓は、蓮如の血を引く一家衆とはいえ、常に周囲から器を測られる立場にある。だから木下は道を整え、関銭を軽くし、商人を呼び、布施を出した。
「空誓殿には寺を富ませたという成果が残る。我らには本證寺との協力関係が残る。互いに欲しいものを差し出しただけにございます」
顕如は満足そうに笑った。
「空誓がそなたを面白がるわけだ。あやつ、自分が木下をうまく利用しているつもりであろう?」
「某も空誓殿を頼らせていただいております」
「それでよい。互いに利がある関係ほど、案外長く続くものだ」
そして今度は楽しそうに自分を指した。
「――ならば弥右衛門。余が欲しいものは何だ?」
「上人が?」
「そうだ。空誓の欲を見抜いたのであろう。ならば余の欲も当ててみよ」
弥右衛門は返答に詰まった。
改めて顕如を見る。
若い。だが、その若さで既に八年近く、本願寺という巨大な宗門の頂に座っている。
従う人がいる。全国に拠点がある。土地もある。各地から銭が集まり、商人との繋がりも深い。畿内の大名や公家とも渡り合い、必要とあらば門徒を動かすことすらできる。
……銭か?
それは好きだろう。間違いなく好きだ。
だが、単に銭が欲しいだけなら既に相当なものを持っており、これからも集まってくる。多少の銭を足したところで、この男の行動を変えられるほどの価値にはならない。
勢力か。
全国に寺を持つ本願寺が、さらに勢力を広げたいと考えるのは自然だ。だが、それも既に右肩上がりである。加賀に巨大な勢力を持ち、三河でも今川を相手にその力を示した。
京への影響力。
朝廷との繋がり。
寺領。
港。
一つずつ頭に浮かべ、消していく。
どれも欲しくないはずはない。だが、「これだ」と思えるものがなかった。
弥右衛門は広間へ視線を巡らせた。
豪壮な建物、控える側近、遠国から届けられたのであろう品々、石山の外には巨大な寺内町があり、市と湊まである。
大名でなくとも、すでに一国に近いものを持っている。
(ならば、これから得るものではなく――かつて失ったものか)
そこまで考えたが、その先は分からなかった。
「……分かりませぬな」
弥右衛門は正直に答えた。
「上人は既に、多くのものをお持ちに見えまする。銭、土地、人、寺、商い、政治の力。さらに欲しいものがないとは思いませぬが、某にはその中で何が一番なのかまでは見抜けませぬ」
「ほう」
「下手にもっともらしい答えを作って、上人の御機嫌を取る方が失礼でしょう」
顕如は弥右衛門をしばらく見つめた。
やがて、満足そうに口元を緩める。
「よい答えだ。分からぬことを分からぬと言える者は、思いのほか少ない」
顕如は少し考え、やがて視線を遠くへやった。
「強いて申せば――山科が欲しい」
「山科?」
京の東にある土地という程度しか、弥右衛門は知らない。
「申し訳ございませぬ。某、詳しくは……」
「ならば教えてやろう」
顕如の表情から、少しだけ軽さが消えた。
かつて山科には、本願寺の中心地として大規模な伽藍と寺内町が築かれ、多くの門徒や商人が暮らしていた。しかし天文元年。争乱の中で攻められ、山科本願寺は焼亡した。そこから再建は認められていない。
「余が生まれる前のことだ。ゆえに栄えていた山科を、余自身は見たことがない。だが幼い頃より幾度も聞いた。大きな御堂があり、堀があり、町があり、多くの門徒が暮らしていたとな」
「石山を捨て、戻られたいので?」
「石山は良いところだ。湊があり、商いにも都合がよい。余はここを捨てたいわけではない」
顕如は少しだけ笑った。
「ただ、失ったものを失ったままにしておくのが気に食わぬ」
その言葉で、弥右衛門にはようやく分かった。
山科はただの土地ではない。
本願寺がかつて持ち、奪われた繁栄の象徴なのだ。
「なるほど。上人にも、銭だけでは買えぬ欲しいものがございましたか」
「山科を銭で買える方法があるなら、余は喜んで買うぞ」
「そこは上人らしい」
下間右兵衛尉が小さく咳払いした。だが弥右衛門の頭では、すでに別の思考が動き始めていた。
――山科。
本願寺が欲しい土地。
当然、自分には与えられない。木下領でもなければ、今の木下家が兵を出してどうこうできる場所でもない。
ならば誰なら動かせる。
将軍、朝廷、三好、六角。
だが、いずれも木下とは縁が薄い。
ならば――織田信長。
そこまで考え、令和の記憶が微かに刺激された。
自分は歴史に詳しくない。織田信長がいつ美濃を取り、いつ京へ入ったのかなど知らない。だが、織田信長という人物が後に天下へ大きく近づくほど勢力を伸ばしたことは知っている。将軍も朝廷も京にある。畿内を押さえずして天下へ近づけるとは思えない。
(天下へ近づくなら……京へ行かぬはずがない)
そしてもう一つ。
弥右衛門はいずれ盤面が整えば、信長へ伊勢攻略を提案するつもりでいる。渥美半島を得た今、海を挟んだ志摩は目と鼻の先だ。木下が志摩へ入り、織田が北から伊勢へ進めば、互いに助けとなる。
だが、その前に伊勢の盤面を崩す必要がある。
そして、それができる者がいる。
顕如が欲しがる山科。
いずれ京へ進むであろう信長。
織田と木下が欲しい伊勢と志摩。
そして、その間にいる長島。
一つ一つ別々だったものが、弥右衛門の頭の中で繋がった。
「上人」
「何だ?」
「山科そのものを、某が差し上げることはできませぬ」
「当然だ。そなたの土地ではないからな」
「ですが」
弥右衛門は顕如を正面から見据えた。
「織田が京へ上られる日が来れば、山科本願寺の再興を認めるよう、某から掛け合うことはできまする」
顕如の表情が止まった。
「……随分と当然のように申すな。織田上総介が京へ上ることを」
「あの御方が美濃一国で満足するとは思えませぬので」
「まだ美濃すら取っておらぬぞ」
「だからこそ、今から話しておく価値がございます」
顕如はしばらく弥右衛門を見つめ、やがて笑った。
「織田上総介一人が許せば済む話ではないぞ」
「承知しておりまする。されど、京へ兵を入れ、畿内の政へ口を挟めるほどの者が後ろ盾となれば、話は変わりましょう」
「よかろう。ならば代わりに何を求める?」
「伊勢にございます」
弥右衛門は、盤面さえ整えば、いずれ木下が志摩へ兵を入れ、織田も北から伊勢へ進む考えを明かした。
「そこで長島か! つまり、長島を退けろと?」
「いいえ。長島は今まで通り、本願寺の重要な拠点としてお持ちいただいて構いませぬ」
「では何を求める」
「織田と木下が、伊勢と志摩へ兵を入れられる盤面を作っていただきたい」
顕如の目が細くなる。
「北伊勢の門徒を通じ、国人衆へ圧を掛けていただく。木下や織田へ従わせる必要はございませぬ。伊勢の者どもが、一つにまとまれぬようにしていただければ、それで十分にございます」
「寺と門徒を使って、国人どもの疑心を煽れと?」
「そこまでは申しませぬ。ただ、寺を圧する者と、寺を庇う者が現れれば、自然と国人同士にも溝ができましょう。その中で本願寺へ明確に敵対し、寺や門徒を圧迫する領主が現れれば――」
顕如が手を上げた。
「そこまで言わずとも分かる」
若き宗主は口元を歪めた。
「余が一揆を起こさせる、とは申さぬ。ただ、門徒が己の寺と暮らしを守るため立つというなら、止める理由もあるまい?」
「某も、そのように考えておりまする」
弥右衛門は笑みを深くした。
「そうなれば織田には、北伊勢へ兵を入れる名分が生まれる。そして何より、長島がその背を衝かぬのであれば――北伊勢へ入った兵を、そのまま南へ向けることができまする」
下間右兵衛尉だけが、小さく息を吐いた。
「上人様。長島は石山の駒ではございませぬ。願証寺には願証寺の都合がございます」
「分かっておる。証恵にも話を通さねばならぬ。長島に何を与えるかも考えねばなるまい」
顕如はそこで表情を改め、伊勢の絵図を持ってこさせた。
「だが弥右衛門。この話、余にも山科以外の旨味があるぞ」
「ほう?」
「伊勢には高田派がおる。本願寺だけの庭ではないのだ」
本願寺とは別系統に属する真宗勢力であり、伊勢国内には強い基盤を持っているという。
「北伊勢が揺れ、その中で本願寺の門徒が力を持てば、高田派とて今まで通りではおれまい。長島は残る。山科への道もできる。その上、伊勢で新たな縁を広げる機会にもなる」
顕如の指が、絵図の尾張から伊勢、さらに志摩へ動いていく。
「国を取るのはそなたら。その陰で余は門徒を増やすか」
顕如は顔を上げた。
「……皆が得をするな」
「左様」
「気に食わぬ」
弥右衛門が一瞬固まった。
次の瞬間、顕如は声を上げて笑った。
「余より先に、そなたがこの儲け話を見つけたことが気に食わぬ!」
「はははっ! それは申し訳ございませぬ!」
こうして、山科本願寺再興と伊勢攻略を巡る取引は、ひとまず仮の合意へ達した。もっとも、弥右衛門に信長の意思を保証する権限はない。
「まず某が尾張へ持ち帰りまする。信長様が山科再興への協力を約されるなら、その時改めて話を詰めたい」
「よかろう。余も、そなた一人の口約束で門徒を動かすほど安くはない。いきなり土地を寄越せとは申さぬ。まずは再興を妨げぬ立場を取らせよ。それだけでも大きい」
話はまとまった。
それを確かめ合うように、一瞬の静寂が広間へ落ちた。
「さて」
静寂を消すかのように、顕如が、ぱん、と膝を叩いた。
先ほどまで伊勢の国人をどう揺らすか話していた男とは思えぬほど、その顔が明るくなる。
「堅い話は終わったな」
「……終わりましたな」
「ならば酒だ」
あまりに迷いのない一言に、弥右衛門は目を瞬いた。
下間右兵衛尉が嫌なものを予感したように、僅かに眉を寄せる。
「上人様。まだ日も――」
「右兵衛尉。客人が遥々三河から来たのだぞ。もてなさず帰せと申すか?」
「そのようなことは申しておりませぬが……」
顕如はすでに聞いていない。
「酒を持て! それから膳もだ。今日はゆっくり木下殿の話を聞くぞ!」
廊下の向こうで、慌ただしく人の動き始める気配がした。
弥右衛門も思わず笑う。
武田では、刀を喉元へ突きつけられた。
石山では、どうやら酒を突きつけられるらしい。
「上人。某も一つ、聞いてみたいことがございます」
「何だ?」
「本願寺ほどの商いの網があれば、何か一緒に儲けられる話があるのではないかと思いましてな」
顕如の目が、ぴたりと止まった。
そして、ゆっくりと口元が吊り上がる。
「……弥右衛門」
「はい」
「余も、ちょうど同じことを考えておった」
下間右兵衛尉は、深く息を吐いた。
だが、この時の溜め息など、まだ軽いものだった。
木下弥右衛門と顕如。
この二人に酒の肴に銭の話を与えた夜は、まだ始まったばかりである。
ご拝読いただきありがとうございます。
次回も、似たもの同士の二人にご注目ください。
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