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オヤジ太閤記〜天下人の父に転生した男、株式会社を作って、表裏比興の者として生き抜く。〜  作者: 芭音
永禄五年(1562)

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#49 甲斐の虎

武田信玄に許しを得るべく弥右衛門は甲斐に向かいます。

◼︎永禄五年十月 信濃国・甲斐国境


 駿府を発ってから、すでに半月近くが過ぎていた。


 弥右衛門一行は甲斐へ直接北上せず、いったん三河へ戻り、信濃を経て甲斐へ入る大きな迂回路を取っていた。まさか武田へ、駿河へ立ち寄ってきたなどと明かすわけにはいかない。表向きはあくまで、三河から信濃を経て甲斐へ入ったことにする。


 信濃側から甲斐へ近づくにつれ、街道には見慣れた荷が増えていった。馬の背に積まれた白い塩俵。その端には、座株楽座天王の印が押されている。


 三河の塩だった。


「……随分と増えたものだな」


 弥右衛門は馬上から荷駄の列を眺めた。


 三河から信濃を抜け、甲斐へ。わずか一年ほどの間に、商人たちは確かな塩の道を作り始めていた。さらに反対方向へ進む馬には、紙、漆、麻、薬草などが積まれている。塩を売った帰路を空荷にせず、甲斐や信濃の品を買い付けているのだろう。


 弥右衛門はそれを横目で見送りながら、何も言わなかった。


 ――やがて前方に、赤い旗が現れた。


 一騎、二騎ではない。

 街道の先を塞ぐように赤備えが並び、左右の林にも兵影が見えた。


「木下弥右衛門殿でございますな」


 先頭の武者が馬上から問いかけた。


「左様」


「ここより先、皆様方の帯刀を禁じます。刀、脇差、弓、槍、すべてこちらでお預かりいたす」


 勘十郎の顔つきが変わった。


「我ら全員の武具を?」


「左様。なお、木下殿のみ供を一名連れて、御屋形様のお待ちになる寺へお進みくだされ。他の方々には、我らと共にここでお待ちいただく」


 待機という言葉こそ使っているが、周囲を武田兵に囲まれ、武器まで取り上げられる。


 ――ほとんど人質であった。


「殿」


「よい」


 弥右衛門は勘十郎を制し、腰の大小を武田兵へ渡した。


「こちらから会いたいと申し入れたのだ。従おう」


 供回りも次々と武具を差し出していく。弥右衛門はその中から、一人の男を指した。朝比奈備中守泰朝から預かった腹心である。


「そなたが来い」


「……私が、でございますか」


「ああ」


 勘十郎でも遁尾衆でもない。この場で自らを守るという一点だけなら、最も頼りにならぬ男を供に選んだ。

 

 その意味を理解した勘十郎が、僅かに目を細める。

 これから武田との間で交わされる言葉を、初めから終わりまで今川の者へ聞かせる。そのために、この男をわざわざ甲斐まで連れてきたのだ。


「勘十郎。皆を頼む」


「……御意。殿も、どうかご無事で」


「分かっている」


 弥右衛門はそれだけ答え、朝比奈の腹心とともに石段へ向かった。





◼︎永禄五年十月 甲斐国 古寺


 苔むした石段を登り、本堂へ入る。


 中には数名の武者。

 そして中央に、一人の男が座していた。


 ――武田大膳大夫信玄。

 甲斐と信濃に覇を唱え、前年には川中島で上杉勢と死闘を演じた男である。


「木下弥右衛門吉成にございます。本日は――」


「座れ」


 挨拶すら最後まで許されなかった。


 弥右衛門が腰を下ろす。朝比奈の腹心は、その後方に控えた。


 武田大膳大夫は何も言わない。


 怒鳴らない。

 睨みつけもしない。

 ただ弥右衛門を見ている。


 その沈黙が、ひどく重かった。


 織田信長の怒りが燃え上がる火だとすれば、この男の怒りは山に似ていた。ただそこに在るだけで動かず、こちらが一歩踏み誤れば、そのまま押し潰される。


 弥右衛門は耐えきれずに口を開いた。


「まず、先の三河における荷駄馬の件について――」


「千五百頭」


 武田大膳大夫が遮った。


「我が武田が塩を運ばせるために商人へ貸した馬だ。それをそなたは、兵を乗せて戦場へ走らせた」


「……左様にございます」


「何故だ」


「勝つために必要でございました」


 余計な言い訳はしなかった。

 武田大膳大夫が僅かに目を細める。


「ならば、また同じことがあればするのであろう」


 弥右衛門は一瞬だけ沈黙した。


「……否定はできませぬ」


 本堂の空気が張り詰めた。


「随分と自分勝手な男よな」


 武田大膳大夫の声は低い。


「己が勝ちたいと思えば、他家との約も曲げる。自分を日の本の中心とでも思っておるのか」


「……申し訳ございませぬ」


「信用ならぬ男だ」


 弥右衛門は頭を下げたまま、何も返さなかった。


「まさか、それを詫びるためだけにここまで参ったのではあるまいな」


「……」


「詫びに来ただけなら、ここで首を刎ねるぞ」


 弥右衛門が顔を上げた。

 武田大膳大夫の表情は変わらない。


「銭を積もうが、馬を倍にして返そうが、それだけで済むと思うな。武田との約を破った男から詫びを受け取り、これで水に流すほど儂は甘くない」


 脅しではない。

 弥右衛門には、そう思えた。


「大膳大夫殿。本日は詫びだけを申し上げるために参ったのではございませぬ」


「ならば何だ」


「次の上杉との戦に、勝っていただくために参りました」


 そこで初めて、武田大膳大夫の視線が変わった。


「申してみよ」


 弥右衛門は持ち込んだ小さな包みを開いた。

 中には三河産の白い塩が入っている。


「三河の塩にございます」


「見れば分かる」


「では、大膳大夫殿にはこれが何に見えまする?」


「禅問答はせぬ」


 ただ一言。

 それだけで、弥右衛門の背筋が自然と伸びた。


「……甲斐の民が食うためだけの塩ではございませぬ」


 弥右衛門は掌へ僅かに塩を取った。


「大膳大夫殿が、北へ兵を出すための塩にございます」


 武田大膳大夫は黙って聞いている。


「我が木下は三河湾沿岸の塩田をさらに広げ、これまでと同じく安価な塩を、甲斐と信濃へ絶えず送り続けまする。ただし、これからは塩を運ぶだけではございませぬ。甲斐で塩を売った商人を、帰り道まで空荷にはいたしませぬ」


「何を積ませる」


「甲斐と信濃の品にございます。紙、漆、麻。軽くて値の張る物なら何でもよい。それを三河へ運び、尾張や伊勢へ流す」


「命じるのか」


「いいえ。儲かるようにするだけにございます」


 武田大膳大夫の目が僅かに細くなる。


「甲斐の紙を尾張へ持ち込めば値が上がると分かれば、商人はこちらが頼まずとも集まりまする。品が動けば市が立つ。市が立てば宿が儲かる。馬借が儲かる。作る者も増える。そこから武田へ入る銭も増えましょう」


 弥右衛門は頭を下げた。


「上杉をいかに破るかは、大膳大夫殿のお仕事。某は、大膳大夫殿が北だけを見て戦えるだけの銭と物が、甲斐と信濃へ回るようにいたしまする。戦には兵だけでは足りませぬ。銭、馬、兵糧、人足――それらが集まりやすい国にいたしまする」


「……なるほど」


 武田大膳大夫は腕を組んだ。


「そなたは、そこまでして儂を北へ向かわせたいか」


「大膳大夫殿が北へ専念されれば、我らにも都合が良いことは否定いたしませぬ」


「それでよい」


 下手に白を切らなかったことを、武田大膳大夫は僅かに評価したようだった。


 弥右衛門はそのまま本題へ入った。


「ゆえに五年間、西と南へ兵を向けぬことをお約束いただきたい」


「五年か」


「三河、尾張、美濃。そして駿河、遠江にございます」


 後ろに控える朝比奈の腹心が、僅かに顔を上げた。


 武田大膳大夫はしばらく弥右衛門を見つめていたが、やがて低く口を開いた。


「西は分かる」


「……」


「三河にはそなたがおる。尾張には、なにやらそなたと深く繋がる織田がおる。その織田は美濃を欲している。そこへ儂が手を伸ばさぬという話なら、そなたの提案と釣り合わぬこともない」


「では――」


「だが、南は別だ」


 弥右衛門は黙った。


「駿河と遠江には今川がおる。そなたは今川の家臣でもなければ、一門でもない。何故、そなたとの約で儂が今川まで守らねばならぬ」


「大膳大夫殿が北だけを見て戦えるようにするためにございます」


「それはこちらが決める」


 即座だった。


「今は今川と盟を結んでおる。されど、五年先まで世が今の形のままと、誰が申せる」


 朝比奈の腹心が、僅かに息を呑んだ。

 弥右衛門は表情を変えない。


「……では、駿河と遠江へ兵を出さぬとは、お約束いただけぬと」


「木下」


 武田大膳大夫の声が一段低くなった。


「余計なところまで踏み込むな」


「……失礼いたしました」


「南へ行くとも言わぬ。行かぬとも言わぬ。必要になれば、その時に儂が決める」


 静かな言葉だった。

 だが、背後にいる朝比奈の腹心には、それで十分だった。血で結ばれた盟約さえ、五年先まで保証するとは言わなかった。弥右衛門が朝比奈備中守へ伝えたかったのは、まさにその一点であった。


「承知いたしました」


 弥右衛門は、それ以上食い下がらなかった。


「では西への不侵について、改めて五年をお願いいたしまする」


「一年だ」


 武田大膳大夫が即座に言い切った。


「それでは短すぎまする」


「そなたが最初に五年と言ったからといって、五年から値切ると思うたか?」


 図星だった。

 弥右衛門は表情を変えずに続けた。


「先ほど申し上げた商いの流れが育つには、二年ほど必要にございます。甲斐と信濃の商品が尾張や伊勢で売れると商人が知り、実際に銭が戻ってくるまでには、どうしても刻が掛かりまする」


「ならば二年にしてやろう」


 武田大膳大夫はあっさり答えた。


「ただし、木下領から入る塩を今より二割下げよ」


 弥右衛門の眉が僅かに動いた。


「……二割」


「商人どもが嫌がるのであれば、木下家が差額を払え」


「大膳大夫殿。それは些か――」


 金属の擦れる音が、本堂に響いた。

 武田大膳大夫が刀を抜いた。


「立場を弁えよ、木下」


 声は静かなままだった。


「そなたは今、武田との約を破った詫びを済ませ、対等に商談をしておるのではない」


「……」


「本来であれば、そなたの首を刎ね、その後で商人どもと塩の話をしてもよいのだ」


 刃先が僅かに持ち上がる。


「それを、そなたの話に利があるから聞いてやっておる」


 弥右衛門は黙って武田大膳大夫を見る。

 白刃の先が、ゆっくりと弥右衛門の喉元へ伸び、止まった。


「一年」


「……」


「塩を二割下げれば、二年」


 切っ先が、ほんの僅かに上がった。


「それとも、ここで終わるか」


 ――静寂。

 後ろにいる朝比奈の腹心も、息をすることすら忘れているようだった。


 弥右衛門は、ほんの僅かに視線を落とした。


 冗談ではない。

 この男なら、本当に斬る。


 五年を吹っ掛け、二年が必要だと理を立てた。その二年を、武田大膳大夫は売ると言っている。代価は三河塩の二割。


 安くはない。

 だが、二年という時間には、それ以上の価値がある。


 弥右衛門は深く頭を下げた。


「……二年で、お願いいたしまする」


 数呼吸の後、刀が鞘へ戻った。


「よかろう」


 背中を冷たい汗が伝う。交渉は成立した。

 だが、勝ったとは到底思えなかった。


 五年を求めて二年。しかも千五百頭の荷駄馬への賠償を求められなかった代わりに、この先二年間、塩をさらに二割安く供給することになった。


 武田大膳大夫は怒りに任せて弥右衛門を斬らなかった。その代わり、木下がこれから生み出す利益を、自らの戦の力へ変える約束を取り付けた。


「木下」


「は」


「そなたが西で何をしたいのかは知らぬ。だが、その二年で儂が上杉と決着をつける力を得られるのであれば、そなたの企みに乗ってやろう」


「しかと、約を果たしまする」


 弥右衛門は深く頭を下げた。




 

 


◼︎永禄五年十月 甲斐国 古寺・石段


 本堂を出ると、夕暮れの山気が頬に冷たかった。弥右衛門と朝比奈の腹心は、二人で石段を下っていく。

 しばらく無言だった男が、やがて口を開いた。


「木下殿は備中守様に、武田が駿河へ兵を向ければ木下から甲斐へ入る塩を止めると申されました」


「ああ」


「ですが本日、大膳大夫殿には二年間、塩をさらに安く供給すると約されました」


 弥右衛門は足を止めた。


「もしその二年の間に武田が駿河へ兵を出せば、二つの約束は両立いたしませぬ。どちらを優先なさるのです」


「無論、今川だ」


 答えは早かった。


「今し方結んだ約を、破られると?」


「ああ」


「何故にございます」


 弥右衛門は再び歩き始めた。


「駿河と遠江を武田に取られてみよ。武田は海へ出る」


 男の顔に理解の色が浮かぶ。


「そうなれば、甲斐は今ほど三河の塩を欲しがらぬ。我らが武田と渡り合うための札が、一枚消える」


「ゆえに今川を守ると」


 弥右衛門は振り返らなかった。


「今川が駿河にいるから、我らの塩は武田への札になる」


 男はしばらく黙っていた。

 先ほど喉元へ向けられた刀を思い出しながら、弥右衛門は苦笑した。


「そうならぬよう、大膳大夫殿には二年間、しっかり北を向いていただきたいものだな」


 やがて石段の下に、丸腰のまま武田兵に囲まれていた勘十郎たちの姿が見えてきた。


「駿府へ戻られたら、備中守殿へすべてそのままお伝えくだされ」


「承知いたしました」


「武田が南を捨てなかったことも、武田が駿河へ兵を向ければ木下は塩を止めると私が申したこともだ」


「一言違わずお伝えし、密約を記した書状をお持ちいたしまする」


 これで朝比奈備中守泰朝が提示した条件は満たした。

 木下と今川の密約が正式に成立する道は、開かれた。




 

 


◼︎永禄五年十月 信濃国 飯田街道


 数日後。


 朝比奈の腹心を駿河へ送り返した弥右衛門一行は、次なる目的地である摂津へ向け、飯田街道を西へ進んでいた。前を行く荷駄には、甲斐から運ばれてきた紙や漆、麻などが積まれている。その中に、座株楽座天王の印を付けた商人の姿を見つけ、弥右衛門は僅かに口元を緩めた。


 武田大膳大夫には、三河から塩を運び、その帰りに甲斐や信濃の品を積ませると説明した。


 だが、その流れはすでに始まっている。


 塩を売った帰りを空荷にするほど、商人は愚かではない。売れそうな品を見つければ買い、それが儲かれば別の商人も真似をする。


 弥右衛門が命じたわけではない。

 すでに始まっていた流れを見つけ、それをもっと大きくすると武田へ約しただけである。


(木下が始めるとは申しておらぬからな)


 もっとも、その代価は安くなかった。


 二年間、三河・尾張・美濃へ武田が兵を向けぬ時間を買った。そのために木下は、甲斐へ送る塩をさらに安くしなければならない。


 だが、二年あれば西尾を富ませられる。渥美を整え、伊良湖の湊を育て、その先の志摩へも手を伸ばせる。


 そして――松平との決着もつけねばならない。

 

 そのために、松平には遠江で今川と争ってもらう。

 兵を出せば、銭も兵糧も減る。

 戦が長引けば、今川もまた疲れる。

 ただし――今川には、負けすぎてもらっては困る。

 弱った今川は、北から見れば格好の獲物になる。


 そして、その北にいる武田へ塩と銭を流し、力を蓄えさせようとしているのは――他ならぬ木下自身だった。


 武田が南進すれば、約を破ることになる。

 弥右衛門は無意識に首筋へ触れた。武田大膳大夫が向けた刀の切っ先が、まだそこに残っているような気がする。


(……我ながら、随分と危うい橋を渡り始めたものだ)


 松平には、遠江で疲れてもらう。


 今川には、松平と争いながらも、武田に食われぬ程度には踏み留まってもらう。


 武田には、木下の塩と銭を使って北を向いていてもらう。


 誰か一人が勝ちすぎても困る。

 誰か一人が負けすぎても困る。


 三者を争わせ、その均衡が崩れぬうちに――木下だけが力を蓄える。


 そして、その綱渡りを実際に担うのは、遠江へ潜ませた遁尾衆だった。


 それを束ねるのは――。

 

 弥右衛門はふと振り返った。


 勘十郎が、ようやく武田領を抜けられる安堵からか、随分と気の抜けた顔で馬を進めている。


 弥右衛門の口元に笑みが浮かんだ。

 

「勘十郎!」


「はっ?」


「よかったな。仕事が増えたぞ」


 勘十郎の顔が引き攣った。


「……はい?」


「しかも、滅法やり甲斐のある仕事だ」


「殿……!? いきなり何事にございますか! まず詳しくご説明くだされ!」


 秋の飯田街道に、荷駄馬の鈴と勘十郎の悲鳴じみた声が響く。弥右衛門は何も答えず、ただ愉快そうに馬を進めた。その背後で、甲斐の山々がゆっくりと遠ざかっていく。


 木下弥右衛門一行は、こうして甲斐の虎の縄張りを後にした。




 

ご拝読いただきありがとうございます。

次回はついに、あの人物と弥右衛門が対面します。もともと好きではなかったのですが、プロットを自分で作るうちにお気に入りになりました。

ぜひ、お楽しみにお待ちください。


続きが気になる方、本作を気に入ってくれた方はブックマークをしてお待ちください。

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