#48 駿河の敗将
◼︎永禄五年九月 駿河国 駿府
遠江から駿河へ入ると、街道を行く人々の様子が変わった。
つい三月前まで、今川家は駿河・遠江・三河の三国に威勢を張る大大名であった。街道を往来する荷駄も商人も多く、今川の紋を掲げた武者が行き交えば、道行く者は当然のように脇へ退いた。
だが今は、その威光の端々に陰りが見える。
――桶狭間の戦い
――牛久保・上ノ郷城の敗戦
――そして、三河崩れ。
それらの敗報は、遠く京や甲斐にまで広がっている。まして本国たる駿河で知らぬ者はいない。
街道沿いの茶屋では、三河から戻ったという足軽が酒を呷っていた。市の外れでは、具足を担いだ浪人が「槍働きなら何でもする」と商家の番頭へ頭を下げている。
それでも市には荷車が溢れ、銭の音が絶えない。
今川は、まだ強い。
――だからこそ、弥右衛門には恐ろしかった。
「……相変わらず、立派な町でございますな」
弥右衛門の斜め後ろを歩く木下勘十郎が、駿府の町並みを眺めながら感嘆の声を漏らした。二人とも、今川の透破だったころ以来の駿府である。
「三河でどれほど負けようと、駿府まで一朝一夕に衰れるものではない。積み上げたものが違う」
弥右衛門も素直に頷いた。
京の文化を取り入れた町並み。往来を埋める商人。寺社に公家、職人、医師、僧侶。尾張や三河の城下町とは、なお格が違う。
この国力を持つ今川家が再び三河へ目を向ければ、木下家とて無傷では済まない。そして反対に、この国力を北から一気に呑み込める者がいるとすれば――。
弥右衛門は、遠く北に霞む山々へちらりと目を向けた。
「殿。朝比奈備中守の屋敷は、間もなくにございます」
「分かった。皆、くれぐれも余計なことは口にするなよ」
同行してきた遁尾衆の者たちが、一斉に頭を下げた。
今回、弥右衛門は木下家の当主として正式な供回りを連れてきてはいない。朝比奈備中守泰朝は今川家中で蟄居中の身であり、堂々と行列を組んで訪ねれば、それだけで余計な疑念を呼ぶ。
ゆえに弥右衛門たちは商人の供回りに近い簡素な装いで駿府へ入り、朝比奈家の裏門からひっそりと屋敷へ通された。
案内された座敷に入った瞬間、空気が変わった。
上座に座る朝比奈備中守泰朝。
三月前、小豆坂から牛久保まで互いに兵をぶつけ合い、片や三河から敗走し、片やその敗走を決定づけた者同士である。
備中守の視線には、露骨な敵意こそなかった。
だが、警戒は隠していない。
「……まさか本当に来られるとは思いませなんだ。木下弥右衛門殿」
「書状に、近々参ると書いたではござらぬか」
「普通は、あれほど短い書状を寄越した相手が、本当に数日後に自ら現れるとは思わぬものです」
備中守は淡々と答えた。
弥右衛門は苦笑し、その正面に腰を下ろす。
「それは失礼した。次からはもう少し丁寧に書くとしよう」
「次があれば、でございますな」
ぴしゃりと返され、勘十郎がわずかに肩を強張らせた。
当然の反応である。目の前の男にとって、弥右衛門は敗戦の原因そのものと言ってよい。そしてその結果、朝比奈泰朝は軍権を失い、こうして蟄居の身となった。
この場で刀を抜かれたところで、文句を言える立場ではない。だが弥右衛門は、そのことに触れるつもりはなかった。
「備中守殿。挨拶もそこそこに、用件へ入らせていただきたい。今日は昔話をしに来たわけではござらぬのでな」
「こちらも、その方がありがたい」
備中守の声が一段低くなった。
「一体何用で、この敗軍の将を訪ねられた」
弥右衛門は膝の上へ両手を置き、正面から泰朝を見据えた。
「遠江の国人衆に、松平へ離反しようとする動きがございます」
その一言で、座敷の空気が凍りついた。
朝比奈備中守の眉が、ぴくりと動く。
驚きはした。
だが――知らなかった者の顔ではない。
「……どこで、その話を?」
「申し上げられませぬ」
「ならば、信じろと?」
「信じていただかなくても結構。ただし、備中守殿もすでに何か掴んでおられるのでは?」
備中守は答えなかった。それが答えだった。
今川家の内部では、すでに遠江の国人たちの不穏な動きが問題になり始めている。
三河崩れによって今川家の威信は大きく傷ついた。三河を失ったことで遠江は最前線となり、国人たちは次に戦場となるのが自分たちの土地ではないかと怯えている。
しかも、その西隣には三河統一をほぼ成し遂げた松平蔵人佐元康がいる。昨日まで今川家の人質であった若者が、わずか数年で一国の主へと駆け上がった。その勢いに未来を感じる者が出ても、不思議ではなかった。
「……確かに」
長い沈黙の末、備中守は小さく息を吐き、口を開いた。
「妙な動きをする者はおります。三河筋の商人を屋敷へ招いた者、国境の地侍と頻繁に文を交わす者……。松平へ直接使者を送ったとの噂まである。もっとも、確かな証はござらぬ」
「やはり」
「それで、その話をわざわざ私へ知らせて、木下殿は何を得たいのでございますか。まさか今川家の行く末を心配して、親切心で駿府まで参ったわけではありますまい」
弥右衛門は即答した。
「無論。私は今川のために動くつもりもなければ、松平のために動くつもりもござらぬ。木下家のために参った」
「ならば話は早い。望みを申されよ」
「今川と木下の間で、密約を結びたい」
備中守の表情から、わずかに余裕が消えた。
「先に申しておくが、蟄居の身で今川家を代表することはできませぬぞ」
「承知しております。まずは備中守殿に、この話を今川五郎殿の耳へ入れる価値があるかを見定めていただきたい」
弥右衛門は懐から一枚の紙を取り出した。
「難しい話ではござらぬ。内容は三つ。一つ、木下は遠江へ軍事侵攻を行わぬ。二つ、今川は三河へ軍事侵攻を行わぬ。そして三つ、今後木下と松平が三河で争ったとしても、今川は介入せぬ」
木下は遠江を求めない。
その代わり、今川にも三河へ手を出させない。
事実上の勢力圏確認であった。
「貴殿は、その話を持ってくるのが少々遅かった」
「ほう」
備中守は初めて、ほんの僅かに口元を歪めた。
「松平からも、ほぼ同じ提案を受けております」
勘十郎の目が僅かに見開かれ、弥右衛門の笑みが一瞬だけ消えた。
「……蔵人佐殿が?」
「左様」
「いつ頃にございます」
「さて。そこまで貴殿に申す義理はござらぬ。だが、今川は三河へ攻めぬ。松平も遠江へ攻めぬ。木下と松平が争っても今川は介入せぬ。……ならば、我らは松平と結んでも同じではござらぬか?」
もっともな問いである。むしろ三河の大部分を押さえる松平と結んだ方が、今川にとって価値は大きい。
だが弥右衛門は、あっさりと頷いた。
「仰る通り。遠江だけを守るのであれば、松平と結ばれてもよろしいでしょう。蔵人佐殿は聡い御仁だ。遠江へ攻めぬという約を守る限り、今川にとって悪い隣人ではない」
「ならば――」
「ただし、それは西だけを見た話にございます」
弥右衛門は、ゆっくりと北へ顔を向けた。
「木下と松平には、一つ大きな違いがございます。松平にはできず、我ら木下にはできることがある」
「……何でござる」
「武田を、塩で縛れまする」
備中守の眉が僅かに動いた。
「武田……?塩?」
「我ら木下は三河湾で塩を作り、それを安価に、絶えず甲斐へ運ぶ道を持っております。無論、今は今川からも塩が入っておりましょう。されど――もし武田が今川へ弓を引けば、その塩はどうなりまする?」
備中守は僅かに目を細めた。
「……当然、止める」
「左様。されど木下から入る塩が残れば、武田は困らぬ」
そこで弥右衛門は、僅かに笑った。
「だが、今川と木下が手を結べば、武田が駿河へ兵を向けたその日から、今川からの塩も、木下からの塩も止まる。されど松平と組まれたところで、木下の塩は止まりませぬ」
甲斐は海を持たない。今川と木下、その二つの塩の道が同時に細るとなれば、武田とて無視はできない。
「無論、塩だけではござらぬ。三河湾の湊、津島商人との繋がり、座株楽座天王の商圏もある。されど何より――」
弥右衛門は備中守を真っ直ぐに見据えた。
「今川へ弓を引けば、甲斐へ入る塩が一斉に細る。その形を作れることこそ、松平にはできず、木下にはできることにございます」
備中守は答えない。
「遠江だけを守るのであれば、松平でもよい。されど――駿河まで守るのであれば、木下と組むべきにございます」
しばしの沈黙の後、備中守が低い声を返した。
「まるで武田が、我が駿河へ攻め込むことを前提としているかのような物言いではござらぬか」
「私は、今川を滅ぼし得る相手が誰かと問われれば、三河の木下でも松平でもなく――甲斐の武田殿だと答えまする」
「……木下殿。それ以上はお控えなされよ」
「何故にございます」
「武田殿は御屋形様の御姉婿。その嫡男には、先代義元公の姫君が嫁いでおる。甲斐・駿河・相模の盟約は、ただの起請文ではない。血で結ばれておるのだ」
備中守は即座に否定した。
「存じております」
「ならばなぜ、武田が駿河へ攻め込むなどと申す。甲斐が駿河へ兵を出せば、自ら盟約を破ることになるではありませぬか」
「そうでしょうな」
「では――」
「ならば、私の話を信じる必要はござらぬ」
備中守の眉が寄った。
「……何?」
「ちょうど私は、これより甲斐へ向かいます」
備中守が言葉を失った。
「武田殿と直接会う予定でしてな。先の三河崩れで、武田から借りた荷駄馬を勝手に戦へ使ってしまったゆえ、随分とお怒りだそうです」
「木下殿……貴殿は命が惜しくないのか」
「惜しいに決まっておりましょう。死にたくないからこそ、敵になるかもしれぬ相手とは先に会うのでござる」
平然と答える弥右衛門に、備中守は呆れたように息を吐いた。
「そこで備中守殿。一つ提案がございます」
「……まだあるのか」
「某を疑われるのであれば、ご自身の目と耳でお確かめくだされ」
弥右衛門は備中守へ身を乗り出した。
「最も信頼する腹心を一人、私に預けていただきたい。木下家の従者に紛れ込ませ、甲斐まで同行させます」
「我が者を?」
「私と大膳大夫殿が何を話すか。甲斐でどのような噂が流れているか。武田家中が南をどう見ているか。己の目で見て、耳で聞かせればよい」
備中守は黙り込んだ。
もし弥右衛門が今川を騙そうとしているなら、自ら監視役を武田との会談へ連れていくなどという真似をするだろうか。
普通なら、しない。
だからこそ、逆に不気味だった。
「もし我が者が甲斐にて、武田に南進の兆しありと確かめたならば?」
「その時は、先ほどの三ヶ条を正式な密約として結んでいただきたい」
「木下は遠江へ攻めぬ。今川は三河へ攻めぬ。そして木下と松平の争いに、今川は介入せぬ」
「相違ござらぬ」
泰朝はしばらく弥右衛門の顔を見つめていたが、やがて深く息を吐いた。
「……良かろう。我が腹心を一人、預けまする。ただし、まだ正式な約ではない。武田に南進の兆しがあることを確かめた時、改めて密約を結ぶ。お屋形様には、機を見て内々にお諮りいたす」
「十分にございます」
弥右衛門は深く頭を下げた。
こうして、ほんの三月前まで殺し合っていた今川と木下の間に、一本の細い糸が結ばれた。
◼︎永禄五年九月 駿河国 東海道
朝比奈家の屋敷を離れて半刻ほど。
駿府の町並みも遠ざかり、人通りが疎らになった頃、勘十郎は馬を弥右衛門の横へ寄せた。朝比奈から預かった腹心は、少し離れた後方で遁尾衆に紛れて歩いている。
「……殿。一つ、聞いてもよろしいでしょうか」
「なんだ」
「殿は……朝比奈備中守を騙しておられるのでございますか?」
弥右衛門が眉を上げる。
「何故そう思う」
「遠江の国人衆に、松平へ接触するよう仕向けているのは我らではございませぬか」
猿飛新左衛門尉を中心とする遁尾衆は遠江各地で動いている。
今川に不満を持つ国人たちへ、木下への寝返りを勧めたわけではない。ただ、いざという時のために松平へ繋ぎを作っておいて損はない――そう囁いただけだ。
そして実際に、何人かが三河へ使者を送った。
「だが、朝比奈殿へ申したことに嘘はないぞ」
「……ございませぬが」
「遠江国人が松平へ接触しているのも事実。今川が放っておけば離反が広がるのも事実だ」
「その事実を作ったのが殿ではございませぬか」
「人聞きが悪いな」
弥右衛門は悪びれもせず笑った。
「ですが殿。本当に遠江を松平へ渡してしまってよろしいので?」
「ああ。遠江など今は要らぬ。松平殿にくれてやればよい」
あまりにあっさりした返答に、勘十郎が目を瞬かせた。
「欲しいのは土地ではない」
弥右衛門は前方の山々を見上げた。
「松平家の時間だ」
三河をようやく手にした松平は、これから領国を整えようとしている。そこへ遠江国人が次々と助けを求めてくれば、無視することは難しい。
受け入れれば、兵が要る。銭が要る。兵糧が要る。
今川との争いも終わらない。
「松平殿には、遠江で忙しくしていてもらう。その間に我らは西尾と渥美を富ませる。三河の覇権を争うのは、それからで十分だ」
勘十郎はしばらく黙り込み、やがて深い溜め息を吐いた。
「……やはり朝比奈殿を騙しておられるではございませぬか」
「だから、私は一言も嘘を申しておらぬ」
「そこが一番たちが悪いのでございます」
「はははっ!」
弥右衛門の笑い声が響いた。
振り返った先には、険しい山々が連なっている。
そして、その山の向こうには甲斐がある。
商人に貸した千五百頭もの荷駄馬を、弥右衛門に無断で戦へ使われた男――武田大膳大夫信玄が待っている。
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