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オヤジ太閤記〜天下人の父に転生した男、株式会社を作って、表裏比興の者として生き抜く。〜  作者: 芭音
永禄六年(1563年)

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#57 徳川三河守家康

◼︎永禄六年一月 三河国 西尾城


「九鬼孫次郎嘉隆にござる。織田の殿様より、しばらく木下殿のところで働けと言われて参った」


 年明け早々に、西尾城へ到着した男は、挨拶からして随分と気安かった。


 三十にも届かぬ若武者で、日に焼けた顔に大きな体。座敷へ通されても妙に畏まる様子がなく、胡坐をかきかけて隣の者に袖を引かれ、慌てて座り直した。


「……失礼。こういうのは、どうにも苦手でしてな。海の上なら何日でもおれるのですが」


「ならば、いつもの形にしましょう」


 弥右衛門はそう言うと、上座を降りた。


「殿?」


「木下では普段、軍議は車座でやっております。今日は客人ゆえ格好をつけましたが、話しにくくなるなら意味がない」


 志摩の絵図の脇へ腰を下ろすと、小一郎と又左衛門も慣れた様子で場所を移した。


 孫次郎だけが目を丸くする。


「……いつもこうなのですか」


「父上が皆の話を聞きたがりますので」


「私が知らぬことが多いからだ。こと海については、孫次郎殿に教えていただく側だ」


 孫次郎は一瞬呆気に取られた後、豪快に笑った。


「それはありがたい。ならば遠慮なく申せますな」


 皆で絵図を囲むと、孫次郎の顔つきが変わった。


「志摩は、形式上は伊勢の北畠家に従っておりますが、実態は一人の主が治める国ではござらん。浦ごとに国人がおり、志摩十三人衆などと呼ばれております」


「九鬼家も、その一つですな」


「そうです。我らもその中で力を持ち始めたのですが、少々大きくなりすぎましてな。志摩をまとめる前に、他の者どもから追い出されました」


 口調は軽いが、言葉の奥には苦いものがあった。

 孫次郎は絵図へ五つの印を置いた。


「志摩へ入るなら、まず見ねばならぬのが鳥羽、田城、的矢、波切、越賀。この五つの城です。ただし、城だけ落としても志摩は取れませぬ」


「なぜだ?」


 又左衛門が尋ねる。


「海では浦と船を押さえねばならんからです。鳥羽を取っても周りの浦が船を出さねば、兵糧を運ぶにも苦労する。逆に周囲の浦をこちらへ付ければ、城は孤立する」


 孫次郎の指が海岸沿いを動いた。


「十三人衆も一枚岩ではない。普段から争っている者も多い。先に話をつけ、船を出さぬだけでも十分役に立つ者がおります」


「なるほど。浦々や船を味方につけた結果として、城が取れるということですな」


「そういうことです」


 さらに孫次郎は、伊良湖から渡る潮と風、船を着けやすい浦を簡潔に説明していった。


「兵を千人集めても、船へ乗せれば千人の兵ではありませぬ。船酔いすれば槍も持てず、風が悪ければ敵に会うことすらできない。船を並べただけでは水軍とは申せませぬ」


「……耳が痛いですな」


 弥右衛門は苦笑した。


「船と漕ぎ手さえ揃えれば、何とかなると思っておりました」


「初めは皆そう思いまする」


 孫次郎が笑う。


「某も山城へ連れて行かれれば、船を着ける場所を探すでしょうな」


 車座に笑いが起きた。


 だが弥右衛門は、犬山で信長から聞いた言葉を思い出していた。


 ――船も浦も、あの海も知っておる。


 まさに、その通りだった。


「孫次郎殿」


「はい」


「来たる日に備え、志摩を攻める軍を正式に組みまする」


 空気が変わった。


「総大将は小一郎」


「私が、ですか」


「ああ。今すぐ渡るわけではない。兵と船を整え、国人へ手を入れるところから任せる」


 小一郎は僅かに驚いた後、深く頭を下げた。


「承知いたしました」


「又左衛門は陸の兵を預かれ。海を渡った後の戦は任せる。孫次郎殿には船と海、それに志摩の国人との話を頼みたい」


「承知した」


 孫次郎が力強く頷く。


「志摩へ戻れるのであれば、否はござらん」


「ただし、九鬼家の仇討ちだけの軍ではありませぬぞ」


 一瞬の沈黙の後、孫次郎は口元を吊り上げた。


「分かっておりまする。昔の恨みだけで海へ戻るほど若くはない」


 こうして、来たる日に備えた志摩攻略軍が組まれた。


 木下小一郎が全体を預かり、前田又左衛門が陸兵を率い、九鬼孫次郎嘉隆が船と海を担う。


 だが、その中に弥右衛門の名はない。


「父上は?」


「私は残る」


「三河に?」


「ああ。皆で海を渡ってしまっては、岡崎が何をするか分からぬ」


 犬山で信長へ言い切った。


 ――三河は木下が取る。


 ならば、自分は三河にいなければならない。


「志摩は任せる。私はこっちで蔵人佐殿と向き合う」


 その時、廊下の向こうから慌ただしい足音が響いた。


 京からの急使だった。

 書状へ目を走らせた弥右衛門は、途中で眉を寄せる。


「……ついに取ったか」




 

 

◼︎永禄六年一月 三河国 岡崎城


「本日より、松平の姓を改める」


 広間に松平蔵人佐の声が響いた。


 酒井小五郎忠次、石川与七郎数正、本多平八郎忠勝、榊原小平太をはじめ、岡崎へ集められた家臣たちが一斉に頭を垂れている。


「徳川と名乗るよ」


 京から戻った主君を前に、与七郎は静かにその言葉を聞いていた。この話自体は、以前から聞かされていた。松平のままでは朝廷へ繋げられる系譜に難がある。そのため家の由緒を整え、新たな姓を名乗る。


 そうして得たものが、従五位下三河守だった。


 それだけでも、胸が熱くなる。

 だが、そこで言葉を切り、少しだけ表情を改めた。


「それと、もう一つ」


 広間を見渡す。


「元康の名も捨てる」


 与七郎が顔を上げた。

 小五郎たちも僅かにざわめく。


「これからは、家康と名乗ろうと思う」


「家康……」


 誰かが小さく繰り返した。


「以前から決めていたことだよ。ただ、名だけ先に変えても仕方がないと思ってね」


 その声はいつもと変わらない。

 だが与七郎には、その意味がすぐに分かった。


 元康の「元」。

 それは今川義元から与えられた一字だった。

 今川のもとで元服し、今川のために戦う者として授けられた名。義元が死んでも、その字は主君の名の中に残り続けていた。


「義元公には、受けた恩もある。駿府で育ててもらったことまで、なかったことにするつもりはないよ」


 与七郎は黙って聞いていた。

 今川での年月をすべて憎んでいるわけではない。

 それもまた、この人らしいと思った。


「でも、私はもう今川の元康ではない。これから守るのは、三河だ」


 少し間を置き、松平蔵人佐元康――いや、徳川三河守家康は居並ぶ者たちを見渡した。


「松平の家だけを残しても仕方がないからね。岡崎も、吉田も、山の村も、海辺の浦も残さなければならない。そういう三河にしたい」


 その言葉を聞いた瞬間、駿府にいた頃を思い出した。


 三河は近いようで遠かった。

 岡崎から届く僅かな報せを待ち、いつ帰れるかも分からず、今川の館で暮らしていた少年。今川のために元服し、今川の一字を受けた少年が、ようやくその字を自ら捨てる。


 そして朝廷から、三河守の名を得た。


「徳川三河守家康」


 小五郎が口にした。

 その声が少し震えていた。


「……まことに、目出度きことにございます」


 本多平八郎が満面の笑みを浮かべる。


「三河守様とは! これで、どこへ出ても我らが殿こそ三河の主と申せますな!」


「平八郎。それはまだ早いよ」


 徳川三河守が苦笑した。


「西尾には義父上がおられるからね」


 広間に笑いが起きる。

 榊原小平太まで、珍しく年相応の顔で笑っていた。

 与七郎も笑った。笑いながら、目頭が少し熱くなった。


「殿」


「何だい、与七郎」


 与七郎は一度頭を下げた。


「改めまして……徳川三河守家康様。おめでとうございまする」


「ああ。ありがとう」


 三河守は素直に答えた。


「でも、官途を得たからといって、明日から三河が一つになるわけではない。今川が消えるわけでもないし、義父上が城を渡してくれるわけでもない」


「当然にございます」


「なら、やることも変わらないね。田を戻す。道を直す。兵を養う。東三河を固める。遠江は急がない」


 飯尾豊前守が死に、天野と松井を三河へ迎え入れたばかりである。遠江へ手を伸ばすこともできた。だが、そうしなかった。


「三河守と名乗る以上、三河を疎かにして他国を欲しがるわけにはいかないからね」


 もっとも、それが遠江を諦めたという意味ではないことを、与七郎は知っていた。

 三河を固めずに遠江へ出るのは早い。

 ただそれだけのことだ。


「御意」


「ここまで三河を残してきたのも、私一人ではない。そなたらが戦い、村の者が田を起こし、商人が物を運んだ。それがあったから、私も三河守を名乗れる」


 三河守はほんの僅かに笑った。


「だから、まずこの家を立て直そう」


 与七郎には、その「家」が何を指しているのか分かった。


 岡崎城ではない。

 徳川家でもない。

 ――三河そのものだった。




 やがて、改名と叙任は、岡崎城下にも伝わった。

 その日のうちに酒を出す家が現れ、寺では鐘が鳴った。


「三河守様だと!」


「我らの殿がか!」


「しかも徳川様になられたそうだ」


「徳川三河守家康様、か」


 新しい名を、人々は何度も口にした。

 朝廷の官位がどれほどのものか、詳しく知る者ばかりではない。徳川という姓の由緒を説明できる者など、さらに少ない。


 だが、「三河守」の三文字だけは誰にでも分かった。


 今川の人質だった岡崎の若殿が戻り、今川を追い出し、三河で戦い続けた。


 その殿がとうとう、三河の名を持つ官途を得た。


 それだけで十分だった。


 城下から少し離れた村でも、百姓たちが同じ話をしていた。


「竹千代様が三河守様になられたそうだぞ」


「そりゃ目出度い」


「もう竹千代様ではなかろう」


「では何と呼べばええ」


「徳川三河守家康様だ」


「長いな」


 畦道に笑い声が広がった。

 その光景を見た与七郎は、自分でも気付かぬうちに笑っていた。駿府にいた頃には、想像することすらできなかった。あの少年の名を、三河の百姓たちが誇らしげに口にしている。


 それが何より嬉しかった。




 


◼︎永禄六年二月 三河国 西尾城


「旭が?」


 弥右衛門は書状を持ったまま顔を上げた。


「御懐妊とのことにございます」


 仲から届いた報せだった。


 しばらく何も言葉が出なかったが、やがて頬が勝手に緩んだ。


「……そうか。そうか」


 娘に子ができた。自分にとっての初孫だ。

 それだけなら、ただ喜べばよい。


 だが父親の顔を思い浮かべた途端、胸の中に少々複雑なものが混じった。


「徳川三河守家康の子、か」


 勘十郎が横で咳払いをする。


「殿のお孫様でもございます」


「分かっておる」


 弥右衛門は苦笑した。

 一色湊で、家康が旭を求めた日のことは今でも忘れていない。あの日、殺してやりたいとすら思った男の子を、今度は娘が身籠もった。


 何とも奇妙な話である。


「何を贈ればよい?」


「某へ聞かれましても」


「仲へ尋ねるか」


「それがよろしいかと」


 弥右衛門は書状をもう一度眺めた。


「惜しむな。旭が困らぬようにしてやれ」


「承知いたしました」


「……三河守殿にも何か贈っておくか」


 勘十郎が目を丸くする。


「それはまた、随分と殊勝になられましたな」


「孫の父親にやるだけだ」


 勘十郎が笑った。




 


◼︎永禄六年二月 三河国 矢作村


 冬の終わりが近づいていた。


 石川与七郎数正は北三河の村々を巡り、田の様子と春から始める道普請について聞いていた。


 その帰り際、一人の百姓が恐る恐る声を掛けてきた。


「石川様。一つ、お許しいただきたいことがございます」


「何だ」


「春までの間、西尾へ働きに行ってもよろしゅうございますか」


 与七郎は足を止めた。

 男は矢作村の弥助と名乗った。


「西尾では、城の普請へ出れば働いた日ごとに銭が出るそうで。田を起こす頃には戻ります。娘が嫁へ行く前に、屋根も直してやりとうございまして」


「西尾へ、か」


「はい」


 木下領だった。

 とはいえ、戦をしているわけではない。


「向こうへ住みつくつもりではないのだな」


「とんでもございませぬ。田も家も、こちらにございます」


「ならば構わぬ」


 弥助が驚いた顔をした。


「よろしいので?」


「民が己の手で稼ぐというのだ。止める理由はあるまい」


「ありがとうございまする!」


 弥助は何度も頭を下げた。

 与七郎はその姿を見送った。


 西尾では普請が続いている。岡崎の者がそこで働き、銭を持ち帰る。悪いことではなかった。それで一軒の屋根が直り、娘を嫁へ送り出せるのであれば、むしろ喜ばしい。


 与七郎はそれ以上、そのことについて考えなかった。


 西尾も岡崎も、同じ三河にある。主は違っても、百姓が冬の間だけ働きに出ることまで止める必要はない。




 帰り道、与七郎は南へ向かう三人の百姓とすれ違った。肩には着替えと握り飯を包んだ荷がある。


「西尾か」


「へえ。春まで稼いできます」


 与七郎は頷き、そのまま馬を進めた。

 三人の百姓は、南へ歩いていった。



 

ご拝読いただきありがとうございます。

カクヨムにて先行公開中です。是非次の話もご覧ください。



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