#46 渥美半島
本文を大幅に更新しました。(26/08/23)
投稿直後に拝読いただいた方は再度お読みいただけますと幸いです。
◼︎永禄五年七月 三河国 田原城
三河湾から吹き込む潮風が、田原城の広間を抜けていく。
「――こちらが、今の我ら木下領にございます。」
木下勘十郎が、畳いっぱいに大きな絵図を広げた。弥右衛門は腕を組み、その上をゆっくりと見渡し、思わず苦笑が漏れた。
「……見事に分かれたものだな。」
北側の西尾・東条・上ノ郷と、南側の渥美半島。その右側の間には、松平が領する豊川平野が大きく食い込んでいる。絵図の上だけを見れば、木下領は上下二本に引き裂かれたような有様であった。
「まるで漢数字の『二』だな」
「はい。そして、その二本の間を松平が押さえております」
「ふっ……蔵人佐め。まったく、上手くやったものだ」
弥右衛門はどこか愉快そうに鼻を鳴らした。先の吉田城での交渉において、松平蔵人佐元康が思い描いた形が、まさにこれなのだろう。木下家を三河の南へ押し込み、陸伝いに勢力を広げる道を塞ぐ。これ以上、三河国内を陸伝いに広がる余地は残されていなかった。
弥右衛門は絵図を見ながら、目を細める。
先の戦から数週間。弥右衛門は西尾へ戻らず、この田原城に腰を据えていた。西尾の本領と要衝の守りは、次男の木下小一郎を城代に据え、前田又左衛門、河尻与四郎、猿飛新左衛門尉らに任せてある。城の改修も街道の整備も順調と聞いている。
ならば今、弥右衛門が為すべきは、新たに得た渥美半島を一刻も早く木下領へ馴染ませ、豊かな土地へ変えることだった。
そのため、勘十郎には半島全域の測量を命じた。山野を歩き、土地の高低、水の流れ、村々や道の位置を調べ、可能な限り正確な絵図へ落とし込ませる。
一方、開発奉行である茶屋四郎次郎には、浦々を巡らせた。漁師、百姓、塩焼きの職人、船持ち。あらゆる者から話を聞き、何が採れ、何が売れ、どこへ運ばれているのかを調べさせた。
弥右衛門自身もまた、毎日のように村々や浦々へ顔を出した。農家の軒先で茶を飲み、漁師と酒を酌み交わし、時には地侍の愚痴まで聞く。支配者が今川から木下へ変わったばかりである。まずは自分が何者なのかを知ってもらわねば、どれほど良い政を行ったところで民はついてこない。
その数週間の成果が、今初めて一枚の絵図の上に集まったのである。
〈イメージ〉■:木下 □:松平
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「しかし勘十郎。短い間によくここまで仕上げたな」
「恐れ入りまする」
絵図は、この時代としては驚くほど精密だった。弥右衛門の記憶に残る現代の地図と比べれば、海岸線の歪みや半島の角度に多少の違和感はある。それでも徒歩と人の目だけで、ここまで描き上げたこと自体が驚異的だった。
「して、実際に歩いてみてどうだった?」
「はい。それなのですが……一つ、気になることがございました」
勘十郎の表情が変わる。
「いや……気になる、というよりは、好機と申すべきかもしれませぬ。」
「ほう?」
「伊良湖まで参った時のことでございます。」
勘十郎が、絵図の西端を指した。細長く伸びた渥美半島の、その先端。
「海の向こうに、島が見えました。」
「島?」
「神島にございます。その向こうは、もう志摩。晴れた日であれば、海の彼方に志摩の山々まで望めることがあると、土地の者は申しておりました。」
「……なるほど。」
弥右衛門は顎に手を当てた。
「それだけではございませぬ。渥美の民にとって、伊勢や志摩は決して遠国ではないようにございます。駿河や遠江へ陸伝いに向かうより、船で海を渡る方が身近だと申す者すらおりました。漁師や船持ちは、昔から伊勢・志摩と盛んに行き来しております。」
「地図の上では別国でも、暮らしの上では同じ海の者たち、ということか。」
「まさしく。」
弥右衛門は、もう一度絵図を見下ろした。木下領の陸側を見れば松平領に塞がれ、残るのは海ばかりである。
だが……海があるではないか。
弥右衛門の口元に、ゆっくり笑みが浮かんだ。
(蔵人佐よ。並の大名なら、これで手詰まりだったかもしれんがな。)
そなたは俺を三河の南へ閉じ込めたつもりなのだろう。確かに陸は塞がれた。だが、海までは塞がれていない。渥美の向こうには志摩がある。その先には伊勢がある。
木下家の未来を、三河の陸だけで考える必要などない。
すでに三河湾では、座株楽座天王を通じて湊や産業を育て、四郎次郎にはその商いの道を整えさせている。そこへ、外海へ突き出した渥美半島まで加わったのだ。
――面白い。
やはり、渥美半島を受け入れた直感は外れておらん。三河湾から伊良湖へ。伊良湖から志摩へ。海を道と考えれば、木下領は行き止まりどころか、むしろ外へ開いている。
「四郎次郎。そなたも伊良湖まで行ったのであろう?」
「もちろんにございます。」
待ってましたとばかりに、茶屋四郎次郎が身を乗り出した。
「勘十郎殿の申す通りでございますぞ。あの辺りの者たちは、我らが思っていた以上に海に慣れております。伊勢や志摩との行き来も珍しいことではございませぬ」
「他には?」
「まず、半島の内側――三河湾沿いでございますな」
四郎次郎の指が、絵図の渥美半島北側の海岸線をなぞる。
「西尾と同じく、塩づくりが盛んにございます。無論、西尾ほど大掛かりな塩田ではございませぬ。されど浜を見たところ、まだまだ広げられる場所がございます。塩は腐りませぬし、売る先にも困りませぬ。我らにはすでに西尾で培った商いの道もございます。手を入れれば、かなりの銭になりますぞ。」
言いながら、四郎次郎の目が露骨に輝き始める。
「その顔を見る限り、相当に儲かりそうだな。して、外側は?」
今度は半島南側。遠州灘に面する海岸線を指す。
「沖へ漁に出る者が多くおります。私も一度、土地の漁師の船に乗せてもらいましたが……いやはや、見事な腕前でございました。波の立つ海でも、まるで自分の庭のように船を操ります。」
「何が獲れる?」
「アジにサバ、それに季節によってはカツオも上がるとのこと。ほかにも貝、海藻、小魚と、海の恵みには困りませぬ。」
四郎次郎はそこで少し眉を寄せた。
「ただ、気になったこともございます。畑や田に向かぬ土地であっても、年貢を納めるため無理に耕している村がいくつかございました。」
「……馬鹿らしいな。」
「私も同感にございます。」
「米を作るより魚を獲る方が得意な者に、無理やり百姓をさせても豊かにはならん。漁を生業にしたい者には、漁に専念させた方がよいな。」
まさにと言わんばかりの顔で四郎次郎は頷いた。
「ならば、干物や塩漬けを米の代わりに納めることを認めてはいかがでしょう。魚そのものでは日持ちいたしませぬが、干物や塩漬けにすれば兵糧にもなります。」
「よし。それは進めよう。年貢を干物で納めるのは構わん。それとは別に、初めのうちは木下家が魚を買い上げ、必要なら米も融通する。だが、それを恒久の仕組みにはするな。いずれは漁師から魚を買い取り、代わりに米や味噌、網、釣針、縄などを売る商人がおのずと現れるはずだ。魚を加工して西尾や尾張へ運ぶ者も出てこよう。そうなれば、我らがいつまでも米と魚を交換してやる必要はない。」
四郎次郎は、しばし黙って弥右衛門の言葉を噛み砕いていた。やがて合点がいったように何度も頷く。
「なるほど。殿が米と魚を一々取り替えてやるのではなく、商人に銭の匂いを嗅がせるのでございますな。魚が余る浦では買い集めて他所へ運ぶ。米が足りぬ浦には米を持ち込む。商いが回り始めれば、こちらがいちいち差配せずとも人と物が勝手に動きまする。」
弥右衛門は心の中で苦笑した。
――本当に、話が早い男だ。
「そのほかには何か気づいたことはあるか?」
「はっ……。此度の検分で、私が最も重要と感じたことがございます。」
「何だ?」
「道にございます。」
「道?」
「正しく申せば――道がないことにございます。西尾では殿の命により大路を造っておりますが、この渥美では事情が違います。村から村へ向かう道は細く、雨が降ればぬかるみ、人や荷を大量に動かせるような道ではございませぬ。」
「ならば整備するか?」
四郎次郎は大きく首を振った。
「少なくとも、今すぐ大金を投じるべきではないかと。この地では、道より船の方が便利なのでございます。浦から浦へ。村から田原へ。米も魚も薪も、人の行き来すら船に頼っております。陸の道を一から造るより、今ある船の流れを整えた方が、遥かに早く安く済みます。」
「つまり、水運を先に整えろと。」
四郎次郎は大きく頷いた。そして、西尾と田原、そして浦々の大きな村をつなぐように、筆の尻で絵図の上をなぞった。
「そこで、本領の西尾と田原を結ぶ『通い船』を設けたく存じます。風や潮で多少前後することはございましょうが、数日に一度は船が出る仕組みにしておけば、商人も民も荷を集められます。」
弥右衛門はすぐに頷いた。
「よい着眼だ。その策で進めよ。西尾と田原が別々に動いていては、いつまで経っても一つの領地にはならん。まず船で結ぶ。道は、人と物が増えてからでいい。」
「まさしく、その通りにございます。物の行き来が増えれば、今は埋もれておる商いも、また芽を出すやもしれませぬ。」
「……埋もれておる、か」
弥右衛門は、“埋もれておる”という言葉にふと眉を上げた。
「そういえば二人とも。この辺りで昔、焼き物を盛んに焼いていたという話を聞かなかったか?」
「焼き物……にございますか?」
「ああ」
弥右衛門は数日前のことを思い出した。田原城下の小さな団子屋。そこで店を営む老夫婦と茶を飲んでいた時、何気なく聞いた話だった。
遥か昔、この渥美では多くの焼き物を作っていたという。壺や甕だけではない。大きな寺へ納める瓦まで焼いていたのだと、老人は自慢げに語っていた。だが、その老人自身はもちろん、その祖父ですら窯が燃える姿を見たことはないという。
「……あ」
勘十郎が目を見開いた。
「思い当たることがございます。伊良湖の近くで、似た話を聞きました。あまりに昔のことでございましたゆえ、報告には含めなかったのですが……」
「申してみよ」
「土地の老人が、『大昔、この辺りの山には数え切れぬほど窯があった』と」
「やはりか」
「それだけではございませぬ」
勘十郎は記憶を探るように眉間へ皺を寄せた。
「奈良の……東大寺、と申したでしょうか、大仏の寺にございます。昔、焼けた大仏殿を建て直す折、その屋根に使う瓦を、この伊良湖辺りで焼いて船で送ったのだと申しておりました」
弥右衛門の表情が変わった。
「……ほう。東大寺か。その名が出るなら、ただの村の昔話と切り捨てるには惜しい。別の二人が同じ話をするのであれば、他にも知る者がいるはずだ。古い窯跡を探せ。山も谷も見ろ。土地の老人から昔話を集めろ。」
勘十郎がよく分からぬと首を傾げる。
「殿は、その焼き物を再興させるおつもりで?」
「出来るならな。かつてこの土地で盛んに焼かれていたのであれば、土も薪も窯を置く場所も、何かしら条件が揃っていたということだ」
「しかし、何百年も途絶えておりますぞ」
「一から新しい産業を作るより、昔ここにあったものを掘り起こす方が早いかもしれん」
弥右衛門は絵図の伊良湖周辺へ手を置いた。
「まず古窯を探す。使っていた土を調べる。残っている壺や瓦があれば集める。その上で常滑や瀬戸から腕の立つ陶工を呼び、同じ土で試しに焼かせる」
「なるほど……。もし上手くいけば……」
四郎次郎の目が、また銭の色に染まり始めた。
「売れるな」
「売れまする。東大寺に瓦を納めたなどという話が本当なら、それだけで売り文句になりますぞ」
「そなたは本当に逞しいな」
弥右衛門は呆れ半分で笑った。
西尾には茶がある。そこへ渥美の焼き物が加われば、木下領を象徴する新たな特産となる。
「だが、すぐ銭にはならん。何年も失敗を重ね、売れぬ器を山ほど焼くことになるやもしれぬ。だからこそ、ここは木下家が育てる。」
「我ら商人には、少々辛い商いでございますな」
「そうだな。塩や港のように、すぐ銭になるものは商人に任せる。焼き物や茶のように時間の掛かるものは木下家が育てる。……数年もすれば、そなたら商人が揉み手をして近寄ってくるわ。」
三人の笑い声が広間に響いた。
やがて笑いが収まると、四郎次郎は傍らの紙を引き寄せ、筆先を墨へ浸した。
「殿。おおよその方針は見えましたな」
「ああ。今のうちに形にしておこう」
そこからは早かった。
まず、新たに木下領となった民の不安を和らげるため、今年一年の年貢を二割減じ、新たな夫役も必要最低限に留める。
三河湾側では、塩田に適した木下家の土地を座株楽座天王へ貸し出し、塩の増産を進める。ただし土地そのものを渡すのではなく、地代はきっちり取ることとした。
「殿も、随分と商人らしくなられましたな」
「そなたらから学んだのだ。悪く思うな」
「座の者どもには、私が殿を唆したと思われそうにございますが……」
「その時は否定しておけ」
「誰も信じてくれませぬな」
四郎次郎が苦笑しながら、二つ目の項目を書き込んだ。
三つ目は漁業。
米作りに向かぬ土地では漁を奨励し、干物や塩漬けでの年貢納入も認める。当初こそ木下家が魚の買い上げや米の融通を行うが、いずれは商人自身にその流れを担わせる。
四つ目は、古窯の調査と焼き物の再興。
領内から志のある者を募り、本人と家族には扶持を与える。まず三年間、軍役や普請を免除する。さらに窯や薪、人手は木下家が負担し、常滑や瀬戸から陶工を招いて試作を重ねる。
四郎次郎の筆が、紙の上を淀みなく走っていった。
「さて……残るは伊良湖と志摩、それに通い船でございますな」
弥右衛門は絵図の西端へ目を落とした。
五つ目――伊良湖への湊町建設。
伊良湖には、新たな町を造る。ただし岬の先端に無理やり町を築くつもりはない。漁師や船頭に聞き、風を避けやすく、船を繋ぎやすい場所を選ぶ。まず船着場。次に市と蔵。そして湊を治める船番所。城や櫓などは、その後でいい。
「船が来れば荷が集まる。荷が集まれば商人が来る。商人が来れば飯屋も職人も住み着く。町というものは、そうやって出来るものだ。」
「東の田原、西の伊良湖、という形になりますな」
「そういうことだ」
六つ目は、海の向こうの志摩との関係だった。
これだけは他の政策とは意味合いが違う。表立って大々的に動く必要はない。今まで海を渡っていた漁師や船持ちを通じて、どの浦に船を着けられるのか、誰が力を持っているのか、どの国人と誰が繋がっているのかを調べさせる。
商いのためでもある。だが、それだけではない。
――いずれ織田が伊勢へ兵を向ける日が来るかもしれない。その時、木下家が対岸の志摩に人脈を持っていることは、大きな意味を持つ。
もちろん、そんな思惑まで紙に残す必要はない。
最後の七つ目は、西尾と田原を結ぶ通い船。
数日に一度を目安に船を出し、風や潮で遅れることがあっても、待っていれば次の船が来る仕組みを作る。伊良湖の湊が整えばそこまで伸ばし、志摩との商いが太くなれば、いずれ海峡を越える航路へ繋げる。
四郎次郎が、最後の一文字を書き終えた。紙の上には七つの方針が並んでいた。
一、新領民の年貢減免と諸役軽減。
二、三河湾沿岸の塩田拡張。
三、漁業と海産物加工の奨励。
四、古窯の調査と焼き物の再興。
五、伊良湖への湊町建設。
六、志摩との交易と人脈の構築。
七、西尾・田原間の通い船の就航。
「……よし。これでいこう」
弥右衛門は満足げに頷いた。もっとも、これをそのまま領民に見せるつもりはない。高札にもっと簡単に書かせる。
今年は年貢を軽くすること。
漁を望む者を助けること。
昔の窯について知る者は田原城へ申し出ること。
そして、伊良湖に新しい湊と市を開くこと。
木下がこの土地で何をしようとしているのか。それさえ伝わればよい。領主が変われば、民は不安になる。年貢は増えるのか。新たな役を課されるのか。土地を奪われるのか。軍役に取られるのか。何をされるか分からぬことこそ、何より怖い。
「さて――渥美の話は、これでよかろう」
その一言で、広間の空気が変わった。
「勘十郎。例の書状は?」
「すでに駿河、甲斐、摂津、尾張へ。いずれも先方へ届いておりまする。我らを疑っておる者もございましょう。されど、殿が直々に会いたいとの申し入れを、拒んだ御方は一人としておりませぬ」
「……そうか」
弥右衛門は一度だけ頷くと、膝を叩いて立ち上がった。
「ならば行こう」
ただし、その前に木下家の留守を固めなければならない。
「小一郎、又左衛門、与四郎――主だった者を田原へ集めよ。長旅へ出る前に、重臣会議を開く」
「ははっ。ただちに早馬を」
勘十郎が広間を出ていく。
その背を見送った弥右衛門は、縁の向こうへ目を向けた。三河湾から吹き込む潮風が、羽織を大きく揺らしている。
三河湾の向こうには、まだ見ぬ国々がある。
陸を塞がれたのなら、海へ出ればいい。
まずは内を整えれば、次は外だ。
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