#44 各地への手紙(甲斐・駿河)
二話ほど幕間になります。
三河崩れに対する各地の反応が描かれます。
◼︎永禄五年七月 甲斐国 躑躅ヶ崎館
「……今川の三河崩れの裏に武田が関わっておると?」
重々しい武田大膳大夫信玄の問いかけが、躑躅ヶ崎館の奥深くに低く響いた。報告に立った重臣・飯富兵部少輔虎昌の額からは、油のような冷や汗が滲み出ている。
「はい。一連の不審な動きについて裏が取れました。……御屋形様、昨年より三河の地から格段に安価で良質な塩が甲斐へ届き始めたことは、記憶に新しいと存じます。我らはこれまで駿河の今川だけに頼り切っていた塩の補給に、新たな安定的ルートができたと大いに喜び、買い付ける量を急激に増やしてまいりました。しかし……それが今年に入り、駿河・三河双方からの塩の流入が完全に途絶えたのでございます。今思えば、これこそが今川と三河の深刻な開戦の予兆であり、塩の流通が止まったのも合点がまいります。ですが、我ら武田も今年は上野への大攻勢を控えている最中……塩の途絶えは軍の生死に関わると焦り、各方面へ無理を承知で調達を命じました。しかし、今川家からは『お家の大事につき、外へ塩を回す余裕はない』と断られたのでございます。」
武田大膳大夫は苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。日頃の政務や合戦のために北信濃や上野へ目が向き、塩の細かな流通や商人との補給のやり取りを家臣任せにしていた自らの甘さに、深い忌々しさを覚えていた。
「我らは義元亡き後も、今川と同盟を結んでおるのだぞ。その頼みを反故にされては困るのだがな……。それにしても、桶狭間以来、今川の衰退ぶりは目に余るものよ。」
「はっ、誠に。……そこで困り果てた我らが、三河の塩を一手に仕切る『天王』という座に直接掛け合いましたところ、向こうの提示する条件さえ飲むならば喜んで膨大な塩を売ろう、と申してきたのでございます。」
「条件……?」
「はい。『塩の在庫は山ほどあるが、尾張、三河、遠江の全土から注文が殺到しており、商いが好調すぎて運搬するための荷馬が圧倒的に足りない。甲斐の武田といえば言わずと知れた名馬の産地。もし半年ほど馬を貸してくれるのであれば、塩の価格を通常の半値に叩いて売ってやろう』と言われ……焦っていた担当者がこれを千載一遇とばかりに快諾してしまったのでございます。」
商人視点で考えれば、輸送手段さえ確保できれば売り先を一気に爆発させられる。武田へ半値で売ろうとも、流通量全体で莫大な利潤を叩き出せる計算だ。調達に向かった担当者がその甘い蜜に飛びつくのも、理解できぬ話ではない。
「なるほどな……商人の浅知恵としては理に叶っておる。だが、なぜそれが我が武田を巻き込んだ『三河崩れ』へと繋がるのだ? 塩の供給が松平や木下の補給となり、木下の資金源になったということは分かるが……。」
「……その、武田から借り受けた荷駄馬千五百頭を、木下の軍勢が合戦における移動手段として、そのまま転用したのでございます。そして、その常軌を逸した機動力が決定打となり……今川軍は瓦解いたしました。」
刹那、腹の底からドロリとした激怒の炎が湧き上がった。武田大膳大夫は目の前の脇机をドォン!と地響きが立つほどの勢いで叩きつけ、館を揺るがすほどの怒号を張り上げた。
「我が武田の誇る騎馬が!! 無断で三河のどこの馬の骨とも知れぬ新興大名に使われたというのかッ!!」
「ま、誠に申し訳ございませぬッ!!」
飯富兵部少輔は平伏し、畳にすりつけた額を押しつけるようにして身を縮こまらせた。
「三河の商人どもと木下の繋がりが深いことは百も承知でございました! しかし、たかが商人と舐めてその情報を蔑ろにし、目先の塩を得んがために、結果として同盟国である今川を内側から食い破る片棒を担いでしまいました……ッ!」
武田大膳大夫は深く息を吐き、苛立ちを押し殺すように拳を握りしめた。……今川の敗北など、どうでもよい。頼りにならぬ今川五郎氏真など、遠からず見切りをつけて駿河を切り取るつもりでいたのだ。
真に腹を立てているのは――甲斐の国が喉から手が出るほど欲する命綱を三河の新興大名に握られ、知らぬ間に武田家が、その男の掌の上で滑稽に踊らされていたという事実そのものだった。
「……もうよい。不覚を取った家臣を今さら責めても戦の結果は変わらぬ。木下とやらには、いずれ我が武田の武の恐ろしさを叩き込み、手酷い鉄槌を下す。今は余計なことに気を取られず、予定通り上野攻めの準備を急がせよ。退がれ!」
「はっっ……。しかし……。」
退がれと命じたにもかかわらず、その場で額をつけたまま動こうとしない飯富兵部少輔を見て、信玄は不審そうに目を細めた。
「なんだ。まだ言いたき事があるか?」
「はい……誠に申し上げにくいのですが、その木下弥右衛門から、御屋形様宛てに書状が届いております。『近々、直々に面会したい』と……。」
◼︎永禄五年七月 駿河国 今川館
今川家の本拠である今川館。その賑やかな城下の一角に静かに佇む朝比奈家の屋敷にて、朝比奈備中守泰朝は蟄居を命じられ、ひたすら静かに刻が過ぎ去るのを待つ日々を送っていた。
主君や家臣に対する恨みなど、何一つない。実質的な軍権を握り臨んだ二度の大戦において、要衝たる上ノ郷城と牛久保城、そして東三河全域を失ったのだ。客観的に見れば、切腹を命じられず命を繋ぎ止められているだけでも儲けものであった。いや……武士として生き恥を晒し続けているという意味では、かえって不幸な処遇なのかもしれない。
先の戦。何度繰り返し頭の中で戦略を組み直し、将棋の盤面を打とうとも、あれは端から勝てる戦ではなかったのだ。特に三河の一向宗が敵に回った以上、力押しでの決着など望めない。やはり自分は最初から最後まで、木下弥右衛門という男の掌の上で滑稽に踊らされていたに過ぎなかったのだ。
戦後、一向宗が松平・木下に味方したという事実は、瞬く間に世間に知れ渡っていた。講談や噂話の中で、私は引き立て役となる「愚かな敗軍の将」として語り継がれるのだろう。……思い返せば、深い溜め息しか出ぬわ。だが、それを受け入れることこそが、生き残った者の義務であった。
「あなた様……また溜め息をついておられますよ」
衣擦れの音とともにそっと傍らに寄ってきたのは、苦楽を共にしてきた妻であった。
「すまんな。だが……やはりあの日の小豆坂と牛久保の記憶が、焼き付いたように脳裏にこびりついて離れんのだ」
「致し方ございませぬ。ですが……それでも前を向いていただかなければ。朝比奈家を背負って立っていかれるのは、他でもないあなた様なのですから」
妻の手が優しくそっと頭を撫で下ろし、押し潰されそうだった胸の痛みが少しだけ和らいでいくのを感じた。
「……ありがとう。して、如何したのだ。何か用があったのであろう」
「はい。あなた様宛てに、お手紙が二通届いております」
静かに二通の書状が目の前に置かれた。
一つは無地の白い紙に包まれ、無礼にも差出人の名すら記されていない怪しげなもの。
もう一つには、凛とした筆致で「今川五郎氏真」の名が記されていた。
選択の余地などハナからない。背筋を正し、うやうやしくお屋形様の書状を手に取って封を切った。
――――――――――――――――――――
朝比奈備中守殿
先の合戦における敗北、まことに厳しいものであった。
城中も領内も大きく動揺し、いまや我ひとりの力では、とても収めきれぬ有様となっておる。
其方には、これまで通り常に我が傍らにいて助けてもらいたいと思っておった。
されど、この度ばかりは誰かに敗戦の責を負わせねば、諸将や民の動揺も収まらぬ状況であったのだ。其方を不本意ながら蟄居させることとなったのは、すべて我が力のなさゆえである。
どうか許してくれ。
さて、先の無念なる敗北の原因を深く省みるに、我が家の透破の働きに重大な問題があったと思うておる。
かつて太原雪斎公がおられた頃と比べれば、我が家の陰の働きは明らかに衰えておる。ましてや、これまで裏の工作を統べていた松平蔵人佐が御家を裏切ったのだ。透破の網が乱れ、敵の動きを見誤るのも無理のないことであろう。
そこで、内々に其方へ頼みたい儀がある。
蟄居の身とはいえ、ただ虚しく日を過ごしておることは許さぬ。今川家の透破を根底から立て直し、再び光を灯すこと――これを其方に任せたい。
表立って命じることは叶わぬゆえ、この事は秘密裏に進めてもらいたい。人を集め、失われた情報網を取り戻し、今後の天下の動乱のための備えを整えてくれ。
これは今川の行く末を左右する大事である。其方を最大の頼りとして乞うことゆえ、どうか持てる力を尽くしてくれ。
何かあれば、信頼できる従者を通じて内々に報せよ。
恐々謹言
永禄五年七月十日
今川五郎氏真
――――――――――――――――――――
「お屋形様……!」
ぽたり、ぽたりと、泰朝の目から溢れ出た大量の涙が書状の余白を濡らしていった。
亡き義元公に比べれば現お屋形様には武将としての厳しさが欠けており、時には家臣として不安に思うこともあった。だが、人はそれぞれであり、治世のあり方もまたそれぞれなのだ。お屋形様は、他者への深い優しさと慈悲で人を治め、人心を惹きつける希有な才を持っておられる。優しすぎることは決して欠点ではない。そのお人柄を最大限に活かした統治ができるよう、自らの命を賭してお支えしたいと、泰朝の心に熱い忠義の火が燃え上がった。
(ぐずぐずしてはおられぬ。すぐさま人を集め、裏の網を紡ぎ直さねば……!)
主君からの絶大な信頼に応えるべく、すぐさま行動を起こそうと立ち上がりかけた――その時だった。
目の端に、先ほど脇に置いたもう一通の「差出人の書かれていない書状」が映り込んだ。
(どこの無礼者だ……このような時に)
忌々しげに手に取り、乱暴に封を破って中改めをした朝比奈泰朝の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
末尾に記されていたのは――「木下弥右衛門」の名。
そして文面にはただ一行、不気味なほど簡潔にこう書き記されていた。
『近々、直々に面会したい。』
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