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オヤジ太閤記〜天下人の父に転生した男、株式会社を作って、表裏比興の者として生き抜く。〜  作者: 芭音
永禄五年(1562)

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#43 三河崩れ 其の四

三河崩れの最終話です。

◼︎永禄五年五月 三河国 一色湊


「小一郎、ようやってくれた!」

 

 牛久保城の背後に突如として現れ、朝比奈備中守の肝を冷やさせた木下軍の電撃行軍。常識の範疇を遥かに超えたその驚異的な大移動を裏で見事に実現せしめたのは、他でもない――弥右衛門の次男、木下小一郎であった。


 その種明かしは、牛久保から遥か西、小豆坂の戦場に遡る。


 ――小豆坂。

 一向宗門徒の「南無阿弥陀仏」という狂乱の咆哮が地を揺るがし、朝比奈軍の殿(しんがり)・井伊肥後守が松平軍に呑み込まれたその瞬間、弥右衛門は間髪を容れず号令を下していた。

 前線で暴れ回っていた前田又左衛門・河尻与四郎に、即座の全軍撤退を命じたのだ。

 

「殿! なぜでございますか! 朝比奈の首は目と鼻の先! いま打って出れば間違いなく討ち取れますぞ!」


 返り血を浴び、不満を露わにして駆け戻ってきた又左衛門。そんな彼を待っていたのは、荒い息を吐きながら足踏みをする膨大な馬の群れであった。

 一人につき二頭ほど――その数、実に千五百頭。

 

「殿、この馬の群れは一体……? 乗り換えの馬などわざわざ用意されずとも、我が槍一本あれば朝比奈の首など容易く挙げてみせましたのに!」


 弥右衛門は薄く冷徹な笑みを浮かべると、パンと勢いよく膝を打って立ち上がり、流れるような動作で馬背へと跨がった。

 

「又左衛門よ、朝比奈の首など松平の者どもに譲ってやれ。我が木下が狙うは、今川五郎――敵の総大将その人の首級だ。そして何より、この三河の戦における真の『決定打』を打ち込むのは、松平ではなく我が木下家でねばならん。」

 

「決定打……」


「そうだ。この戦いは、単に今川を追い散らして勝つだけでは足りぬ。将来の三河の覇権を巡り、いずれ対峙する松平に対しても決定的な格の差を見せつけ、勝利せねばならんのだ。……これより最速で牛久保へ向かうぞ!」

 

 弥右衛門の言葉に、それまで静かに状況を見守っていた河尻与七郎が、思わず眉をひそめて口を開いた。

 

「殿、お言葉ですが、ここから牛久保への最速の道といえば東海道……。すなわち、逃げる朝比奈の後をそのまま追うことになります! なればこそ、この地で馬を揃えて足踏みしていた時間こそが、貴重な刻をドブに捨てる愚策ではございませんか!」

 

「違うな、与七郎。この三河の地において、誰が最も頻繁に往来し、どうすれば一刻でも早く駆け抜けられるかを日夜突き詰めているか、考えてみよ。我らのような武士か? ……否、商(・)人(・)だ」

 

 与七郎と又左衛門は、弾かれたように顔を見合わせた。


「察しが良いな。一色湊にて『座株楽座天王』を立ち上げてより、商人たちが切り拓いた商路は主に二つある。一つは三河湾の一色湊から岡崎を抜け、信州へと至る『塩の道』。もう一つは、一色湊を起点に三河湾の海運を支配しつつある『海の路』だ。我らがいるこの小豆坂から少し撤退したこの地は、まさにその『塩の道』の幹線上に位置する。つまり、我らが通るべき最速の道は、商人たちが日々使い慣らしたこの商路だ。そして――」

 

 弥右衛門は西南の空、一色湊の方向を指さした。

 

「小一郎が臨時の勘定寄合を開き、奴ら商人どもの全面協力を買い取ったのだ!」

 

「買い取った……!?」


 戦国の常識であれば、権力をもって百姓や商人を徴発し、馬や船を無理矢理奪い取るのが普通である。しかし、木下家と座株楽座天王の関係は主従ではなく、あくまで「株主」の一人として名を連ねているに過ぎない。だからこそ、理の通らぬ無理強いや力による徴発は、積み上げてきた絶大な信用を自ら殺すことになる。いくら一刻を争う戦場であろうとも、正当な対価と使用料を注ぎ込み、彼らの利益を完璧に保証せねば、将来得られるはずの膨大な富を手放すことになってしまうのだ。

 

「だが生憎とな……我が家の倉の金はすでに底をついておる。ゆえに小一郎が奴らに売ったのは、金ではなく――『座株楽座天王の座株五株分』だ。」

 

 すなわち、木下が描き出す未来の巨大経済圏を実現する「座株楽座天王」の将来価値を担保として売り払ったのだ。一銭の現金を出すこともなく、豪商たちに「木下が勝たねば自らの手にある株が紙くずになる」と正しく理解させ、自発的に全面協力せざるを得ない状況へと仕向けたのである。これこそが、商人たちが木下の未来に寄せていた絶対的な信託の証であった。

 

「一銭も払わずに、向こうから喜んで協力するように仕向けたと……」

 

 又左衛門が半ば呆然と呟いた。すると弥右衛門は、悪戯が成功した子供のように口元を歪め、不敵に笑った。


「そして偶然にもな……奴らは信州の武田からの依頼を受け、大量の塩を運ぶべく馬を借り受けていたのだ。それが、この千五百頭の馬たちよ。いやあ……誠に運が良いことだな?」

 

 “武田”という戦国屈指の大名の名を口にした瞬間、弥右衛門の瞳に宿ったのは、恐ろしいほどの深遠な暗彩であった。それが単なる「偶然」などではないことを悟り、又左衛門と与七郎の背筋に冷や汗が吹き出た。弥右衛門は武田の動きを事前に察知し、小一郎を使って裏からその馬を内密に借り受けたのだ。

 

「さあ者ども、一人二頭の馬を交互に乗り換え、最速で一色湊へ向かう! 武田に気付かれる故、馬を乗り潰してはならんぞ。湊では小一郎が手配した大商船群が、今か今かと我らを待っておるわ!」


 ――そして時は戻り。太陽が西の地平に沈み切る前、木下軍は怒濤の勢いで一色湊へと辿り着いた。

 そんな弥右衛門たちを待っていたのは、合戦の凄惨な喧噪とは無縁の、だがピンと糸が張り詰めたような熱気に満ちた波止場であった。港には木下小一郎と、座株楽座天王の座主・津島屋宗左衛門が佇んでいた。


「弥右衛門殿、株主たちの承認の判はすべて揃いましたぞ」


 宗左衛門が恭しく頭を下げたのち、一通の誓約書状を馬上の弥右衛門へと差し出した。


「株主の皆様は不満に思っておられぬかな?」


「全くございませぬ。それどころか、木下殿が手放された五株分を巡り、豪商どもが胸倉を掴み合わんばかりの喧嘩をしながら奪い合っておりました。これほどまでに我が座の価値が認められていたとは、座主として身が引き締まる思いにございます。」


 宗左衛門自身、自らが仕切る座株楽座天王の価値を普段から十二分に実感してはいた。しかし、並み居る豪商たちが我先にとその権利を貪り喰おうとする姿を目の当たりにし、その価値の桁違いの高さを改めて再確認したのだろう。


「それは良いことだ。それで、出航の準備はできておるかな?」


 弥右衛門が問いかけると、小一郎が一歩前へと踏み出し、凛とした声で答えた。


「はい。楽座の所有する商船四拾隻、すべて木下家の兵員輸送用として借り受け申した! 彼らは普段から塩や物資の運送で一色と上ノ郷を日常的に行き来しております故、海の航路は熟知しております。日が暮れて暗闇となろうとも、問題なく出航できまする!」


「小一郎、ようやってくれた! では、我らはこの戦の決定打を打ちに行って参る。小一郎には留守を任せるぞ。西尾城・東条城をしっかりと治め、戦の渦中であっても経済を絶対に停滞させてはならん。任せたぞ。」


「はい父上! お任せください。木下の輝かしい勝報を、ここでお待ちしております!」


 宗左衛門がバッと手を挙げると同時に、出航の合図となる太鼓が響き渡った。波止場に船が次々と着岸し、甲冑を纏った木下の兵たちが吸い込まれるように船腹へと乗り込んでいく。夜が深まるとともに、西風をいっぱいに孕んだ巨大な帆が上がり、四拾隻の大船団は一斉に三河湾の蒼波を蹴って滑り出した。

 

 陸の東海道を行く朝比奈軍が、山道のぬかるみと松平軍の追撃、さらには一向宗門徒のゲリラ戦に足をすくわれている間、木下軍は海の上をすべるように滑空。あっという間に東三河の要衝――茶屋四郎次郎が城代として強固に守る上ノ郷城の裏手へと回り込んだのである。

 背後からの予期せぬ奇襲を受けた上ノ郷城を包囲していた今川軍は、城内からの討って出た兵との挟撃に遭い、夜明けを迎える前に呆気なく崩壊・瓦解した。

 

「次は牛久保だ! 朝比奈より早く着くぞ!」

 

 上ノ郷から三河湾沿いの街道へ出ると、再び馬に飛び乗り、風を切り裂いて爆走する。

 

 後刻、小豆坂から敗走してきた朝比奈泰朝が牛久保で目撃したのは――この陸と海の物流網を巧みに使った常識外れの移動力によって、背後から遥か先へと追い抜かれ、先回りされたという圧倒的絶望の光景であった。

 後に「三河の大返し」と歴史に永く語り継がれることになる、従来の兵法や戦術の枠組みを完全に超越した、物流を用いた奇策であった。


 


◼︎永禄五年五月 三河国 国府


「な……なぜ……なぜ木下の軍勢がここに……」


 国府の路上で馬を止め、呆然と戦場を仰ぐ朝比奈備中守泰朝の顔は、死人のように蒼白であった。目の前で、かつて誇り高かった今川本軍七千が、跡形もなく崩壊していく。


 北からは、野田城を取り戻した菅沼新左衛門の三河武士たちが、猛虎の如き勢いで今川の背を突く。正面の牛久保城からは、金色の具足を血で染めた松平蔵人佐元康が自ら討って出て、死兵と化した二千の兵で城門前から今川の陣を押し潰していく。

 そして南からは、海を渡って先回りした木下弥右衛門の八百と、上ノ郷から合流した茶屋四郎次郎の手勢が、寸分の隙もなく今川の側腹を抉り穿っていた。


 三方からの完全なる挟撃。

 それだけではない。朝比奈が命からがら逃げてきた東海道の背後からは、なおも追撃の手を緩めぬ本多平八郎の「朝比奈、逃げるな!」という雷鳴のような咆哮が迫っていた。さらに街道のあちこちの竹林からは、竹槍を手にした百姓たちが「南無阿弥陀仏」を唱えながら立ち上がり、退路を塞いでいく。


 どこを見渡しても敵。どこへ逃げようともまとわりつく、底知れぬ死の恐怖。朝比奈備中守の精神は極限まで苛まれていた。この「三河」という土地そのものが、今川という存在を噛み砕き、吐き捨てようとする巨大な意志を持った怪物に見えたのだ。


「退け! 退けぇッ! 吉田へ退け! お屋形様は遠江へお逃しせよ!逃れるのだぁッ!」


 もはや勝敗という次元すら超えていた。それは武士の誇りを捨て去った、惨澹たる掃討戦であった。

 今川軍は組織立った抵抗の術を失い、完全に瓦解した。将は手下を見捨て、兵は武具を投げ打ち、ただ東の遠江を目指して泥に塗れながら逃げ惑う。

 今川家が築き上げてきた三河支配の栄華は、この牛久保の地において完全に潰えたのである。

 ――三河崩れ、世間ではそう呼ばれる戦であった。


 

 

◼︎永禄五年五月 三河国 牛久保城 櫓の上


 激闘の硝煙と戦煙が、吹き抜ける乾いた風に乗って静かに流れていく。つい先刻まで牛久保城の周囲を黒々と埋め尽くし、威圧感を放っていた今川の七千の大軍は、蜘蛛の子を散らすように東へと逃げ去っていた。戦場には無数の捨て去られた旗指物、乗り捨てられた馬、そして息絶えた兵たちの屍だけが打ち捨てられ、無残な敗北の静寂が支配していた。

 

 牛久保城の最も高い本丸櫓の上。

 松平蔵人佐元康は、ひび割れた兜を脱ぎ捨て、ぽつりと一人佇んでいた。汗と泥で汚れ、乱れた前髪の間から覗くその鋭い視線は、遥か東の空――敗走する今川勢が逃げ込む吉田城の方向へとまっすぐに落ちている。

 ドカドカと重い鎧のきしむ足音が階段を揺らし、全身に敵の返り血を浴びた本多平八郎が力強い足取りで上ってきた。

 

「殿! 敵の本陣を完全に打ち崩しましたぞ! 総大将の今川五郎氏真は朝比奈らに連れられ、命からがら東へ逃亡いたしました! 我が軍の大勝利にございます!」

 

 平八郎の低く太い声には、強大な今川を粉砕し大勝利を収めた武士特有の荒々しい昂揚と興奮が満ち満ちていた。しかし、松平蔵人佐は振り返ることすらせず、ただ静かに城下に広がる泥道を眺めているだけだった。その視線の先には、勝ち鬨に浮かれることもなく、実に整然とした隊列を組み直し、無駄のない洗練された動きで戦後処理と検分を進める木下家の「沢瀉紋」の陣立てがあった。

 

「今川には勝ったね……でも、木下殿には勝てなかったな。負けてもいないけど。」

 

「は……? 木下殿に、でございますか? あやつらは我らの味方にございます……勝った負けたなどというお話ではないのでは?」

 

 平八郎が全く解せぬといった表情で首を傾げ、兜をかぶり直す。そんな忠義の猛将に対し、松平蔵人佐はふっと悲しげで自嘲気味な笑みを漏らした。

 

「我が松平の策は、野田城の偽落城だった。菅沼に苦汁を飲ませて敵を油断させ、私自身は牛久保の死地に身を置くことで、今川五郎の喉元に鋭い刃を突きつけた。……完璧な手筈であったはずなんだ。」

 

 蔵人佐の胸中には、今なおじわりと背筋を伝う冷や汗のような感触が残っていた。己の命すら盤上の駒として賭けた大勝負。しかし、木下弥右衛門の打った一手もまた、自らの想定を超えた仕掛けであった。

 

「木下殿は中立を気取っていた一向宗を味方に巻き込み、盤面そのものをひっくり返した。そして『三河の大返し』で今川五郎の反対側の喉元に刃を突きたてた。どちらか一方の策だけでも、今川を破ることはできた。だが……二つの決定打が奇妙に噛み合ったからこそ、この完璧すぎる大勝利が生まれたんだよ。」

 

 お互いが「自分が今川を破り、主導権を握る」という野心を腹の底に秘めて放った極め手が、皮肉にも完璧な形で合体し、今川という巨体を粉砕した。どちらが上という明確な結果にはならなかったのだ。

 

「……殿、一向宗の門徒どもは、すでに目的を果たしたとばかりに各々の寺や村へ引き揚げ始めております。今回は味方として、まことに頼もしい限りにございましたが。」

 

 平八郎のその言葉を聞いた瞬間、蔵人佐の瞳の奥にあった温もりが消え、氷のように一気に冷え込んだ。

 

「一向宗というものは、何もしなければただの信仰だ。三河を統一した後に、主君としてゆっくり向き合い、手懐けるべき不発弾の入った鉄砲のようなものだった。それを……木下の義父殿は、自らの勝利を確実にするために、あっさりと引き金を引いて引っ張り出してしまった。」

 

 松平蔵人佐は力強く自分の拳を握りしめた。短く切り揃えられた爪が皮肉にも自らの皮膚を苛み、じわりと小さな痛みを伝える。

 

「門徒どもは一度『自分たちの力で大名を追い払った』という味を占めたんだ。不入権を守るためなら大名すら動かせるということを理解した。一度燃え上がった狂信の火は、そう簡単に消えはしないよ。……一向宗という不発弾を抱えたまま、我らは国を治めないとね。これからの三河は、今川がいなくなった後も、深く、苛烈に荒れるよ。」




◾️永禄五年六月 三河国 吉田城


 牛久保での決戦後、松平・木下連合軍の追撃は苛烈を極めた。統率を失った今川兵は遠江へと一目散に逃走。三河に残された今川の拠点、吉田城と田原城は完全に孤立した。陸の孤島となった両城は、一月と持たずに降伏・開城。ここに、三河は松平と木下が治める地となったのである。


 ――永禄五年六月。

 初夏の青葉が眩しく眩耀する吉田城の大広間にて、松平蔵人佐元康と木下弥右衛門吉成は、静まり返った空気のなかで真っ直ぐに差し向かいで座していた。

 今川亡き後の三河の地をいかに分かつか――運命の戦後処理交渉である。

 双方の背後には、酒井小五郎忠次や本多平八郎忠勝、そして木下の前田又左衛門や河尻与四郎、茶屋四郎次郎が、互いを激しく牽制するように身構えて控えていた。


「今川を三河の地から駆逐する――その最大の目的は果たされた。約束通り、これより領地の分立と、今後の誓約を結びたい。」


 松平蔵人佐が、どこか穏やかながらも重みのある声で切り出した。差し出された大きな三河国の絵図面の上に、朱筆で一筋の線が鮮やかに引かれていく。続いて、松平家の家老・酒井小五郎忠次が進み出て、朗々と取り決めを宣言した。


 取り決めは二つ。


「一つ。吉田城を中心とした東三河の地は、松平家が治める。そして、田原城を中心とした渥美半島の一帯は、木下家の領地とする。」


 蔵人佐のその提案を聞き、弥右衛門は表情ひとつ変えず静かに首を縦に振った。

 その取り決めには、松平側の綿密な計算と思惑がはっきりと透けて見えていた。吉田城を松平家が抑えるということは、実り豊かな豊川平野を領有し、同時に遠江との国境線をすべて松平が単独で封鎖できることを意味する。怒濤の勢いで富を蓄える木下に追いつき、これ以上の東進と領土拡大を阻止したい松平にとって、まさに一石二鳥の妙手であった。

 だが、弥右衛門にとっても決して悪い話ではなかった。渥美半島は現在の木下の本領から陸では繋がらぬ陸の孤島であり、多くの米の取れる豊かな土地ではない。しかし、そこは三河湾と太平洋という二つの海に挟まれた半島である。

 

(ただの土百姓や武士なら魅力を感じぬ土地だが……この海路は宝の山だ。直感だが、非常に面白く、効果のある仕掛けができる。後ほど渥美半島を活かす策を、茶屋四郎次郎とともに練り上げねばな。)


 同じ考えを巡らせているであろう茶屋四郎次郎のニヤケ顔を見ながら、酒井忠次の言葉の続きを待った。

 

「二つ。先の『岡崎同盟』の継続である。今川を追い払うまでの時限的な盟約であったが、これを改め、今後も外敵の侵入から三河の地を守るため、互いに不可侵を貫き、協力し合うことを再確認したい。」


「木下は異存ございません。我が家もまた、三河の安寧と商人たちが行き交う平穏を切に望むもの。松平家との堅固な同盟が続く限り、我が方の商船も武力も、この三河を守る鉄壁の盾となりましょう。」


「義父上、ありがとう。これからも三河のため、よろしく頼むよ。」


 蔵人佐はすっと立ち上がり、弥右衛門に向かって真っ直ぐに右手を差し出した。弥右衛門もまた静かに立ち上がり、出されたその手を力強く握り返した。


「「……」」


 固く結ばれた両者の手。しかし、その掌からは温もりや熱気など微塵も感じられなかった。二人の視線が空間で鋭く交錯する。そこには、共に死線を潜り抜けた戦友としての信頼や絆などハナから存在していなかった。互いの瞳に宿っていたのは、相手の真意を削りだそうとする、氷のように冷え切った色であった。

 

(一件落着……などと、この男が本気で思っているわけがなかろう)

 

 今川という共通の巨大な敵が戦場から消え去った今、この三河という狭い盤面において、互いが持つ意味はひとつしか残されていない。

 次の打倒すべき「仮想敵」は、目の前にいるこの男だ。そしておそらく、相手もまったく同じ思考を巡らせているはずであった。

 

 三河から今川の影が去り、表向きの平和と静寂が訪れたかのように見える永禄五年の夏。

 だがそれは、真の三河の覇権を巡る、これまで以上に苛烈で、陰湿で、血塗られた「裏の戦い」の幕開けに過ぎなかった。



 

ご拝読いただきありがとうございます。

遂に今川を三河から追い出すところまで描き切りました。ここからが松平元康との裏の戦いが始まります。


そして物語は、武田や石山・長島本願寺、足利を巻き込んで大きな規模で進んでいきます。新たな仲間も増え、信長と秀吉の運命も大きく変わっていきます。

今後ともよろしくお願いいたします。


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