#42 三河崩れ 其の三
◼︎永禄五年五月 三河国 牛久保城
煤煙と死臭が漂う牛久保城の本丸。
城の周囲は、今川五郎氏真が率いる本軍七千と、命を惜しまぬ飯尾豊前守の残党によって幾重にも取り囲まれている。連日連夜にわたる力攻めと火矢の雨。城内の二千の兵はすでに疲弊の極みに達し、食糧も水も底を突きかけていた。
誰の目から見ても、牛久保城の落城は時間の問題であり、城を守る大将が、松平の当主その人であると知る者すら、半ば絶望に目を陰らせていた。
「殿、南の搦め手口も今川の雑兵どもに取り付かれました! 持ちこたえるのも、もはや時間の問題にございます!」
血煙と汗に塗れた若い将が、息も絶え絶えに報告を口にする。その報告を、金色の兜を傍らに置いた男――松平蔵人佐元康は、落ちついて床几に腰掛けたまま受け止めた。
その顔には、長引く籠城による疲労の色こそ濃く刻まれていたが、その瞳の奥には静かで太い光が宿っていた。
「慌てるな。門が破れれば、槍を揃えて叩き出せ。いざとなれば種子島も使って構わん。あともう少し耐えれば形勢は傾く。」
普段の飄々とした声ではない低く重みのある声に、狼狽していた近習たちの背筋が伸びる。
松平蔵人佐は立ち上がり、静かに城内で最も高い櫓の影に腰を下ろし、ひび割れた具足の隙間から溢れる汗を拭いもせず、鋭い眼光で北の空を凝視していた。
そして、その空に上がる一本の細い黒煙を見た瞬間、元康の唇がわずかに歪んだ。それは、木下には一言も明かしていない、松平単独の「決定打」の合図であった。
遡ること昨年の十一月。朝比奈備中守泰朝の猛攻を受け、松平配下の菅沼新左衛門定盈が守る野田城は落城した。菅沼は岡崎へ敗走し、城は今川の手に落ちた――と、世間も今川も、そして木下すらも信じ込んでいる。
だが、それこそが松平蔵人佐の仕掛けた大いなる罠であった。城を明け渡す際、服部党の忍びや間者を城下や近くの農村に大量に潜伏させた。そして菅沼には「時が来るまで牙を研ぎ、合図と共に極少数の精鋭で城へ突入せよ」と命じていたのだ。内部の服部党が内応して門を開ければ、手薄になった野田城など瞬く間に崩壊する。
野田城を取り戻せば、牛久保を包囲する今川軍の背後を脅かす駒になる。救援に駆けつけた菅沼の軍勢と、城内から打って出る我が死兵。挟み撃ちにされた今川五郎の本軍は、崩壊を免れないだろう。
今川を三河から完全に駆逐したという最大の軍功。そして、自らが命を賭して牛久保を守り抜いたという圧倒的な実績。これさえあれば、戦後に木下と三河の支配権を巡って対立しようとも、松平の正統性は揺るぎないものとなる。
木下家がどれほど富を築き、経済を握ろうとも、血を流して三河を守ったのは松平である。
(戦後の三河の主導権は、私が握る。義父殿には決して渡さないよ)
「者ども! 馬引け! 具足を改めよ!」
胴声を張った叫びが、静まり返っていた城内に響き渡った。
「長き籠城もこれまで! 野田城より菅沼の援軍が今川の背に襲いかかる! 我らも城門を開放ち、敵の本陣を食い破るぞ!」
「「「応!!!!」」」
死を覚悟していた城内の三河武士たちの目に、一瞬にして狂気じみた歓喜の火が宿った。勝利の確信が、絶望の城を熱狂の渦へと変えていく。松平蔵人佐は、金色の兜を深くかぶり直し、刀の柄に手をかけた。天下への第一歩が、いま踏み出されようとしていた。
◼︎永禄五年五月 三河国 小豆坂 朝比奈本軍
「野田城が、菅沼と服部党の手勢によって落城……!」
伝令の報せを受けた朝比奈備中守泰朝は、一瞬、絶句した。野田城は東三河の奥深くに位置する。そこが敵の手に落ちたということは、陸の孤島にしていた牛久保への救援が可能になることを意味していた。
(松平の小倅め……! 菅沼に敗走を装わせ、初めからこの土壇場で野田城を取り返す気であったか……!)
だが、朝比奈は百戦錬磨の将であった。瞬時に冷徹な計算を頭の中で弾き出す。
野田城の菅沼勢が救援に駆けつけたところで、高々数百。牛久保を包囲する今川本軍の七千に比べれば微々たる数だ。目の前にいる小豆坂の松平・木下連合軍三千は、前田又左衛門や本多平八郎の狂気的な武勇によって持ちこたえているものの、数の利はこちらにある。このまま小豆坂の敵を押し潰して全滅させ、その後に翻して野田城の残党を処理すれば、何の問題もないはずだ。
(焦るな。盤面はまだこちらが優位……)
朝比奈がそう己に言い聞かせ、攻勢の太鼓を叩かせようとした、まさにその時であった。
――地鳴りが響いた。
それは、馬の蹄の音でもなければ、鍛え上げられた兵の足音でもなかった。地の底から地表を揺らすような、無数の人間が土を踏みしめる不気味な重低音。そして、小豆坂の西側の丘陵地帯から、たなびく煙のように押し寄せてくる巨大な黒い波が見えた。
「な……なんだ、あれは……!?」
今川の物見が、狂ったような悲鳴を上げた。地平線を覆い尽くす、黒山のような人垣。農具や竹槍、古びた刀を手にした有象無象の群衆が、見渡す限り街道と田畑を埋め尽くしていた。その数、およそ一万。
風に乗って、彼らが唱える唱導の声が戦場全体を覆い尽くした。
『南無阿弥陀仏――! 南無阿弥陀仏――!』
白地に黒々と染め抜かれた幾百の旗指物が、西風にはためく。
『進めば極楽浄土、退けば無間地獄』
「一向宗……! なぜ、一向宗がここに居るのだ!?」
朝比奈備中守の顔から、完全に血の気が引いた。
本證寺を中心とし、上宮寺、勝鬘寺、本宗寺――三河の地に深く根を張る門徒たちが、突如として松平・木下連合軍の背後に結集したのだ。
小豆坂の盤面は、一瞬にして瓦解した。
松平・木下連合三千に、一向宗門徒一万弱が加わり、その数一万三千。六千の朝比奈軍は、逆に倍以上の大軍によって包囲される形となったのだ。
門徒たちは、整然とした陣形こそ取っていない。しかし、彼らの目には死を恐れぬ狂信の火が宿っていた。「進めば極楽浄土、退けば無間地獄」を唱える彼らは、いくら討ち取ろうとも波のように押し寄せてくる。しかも、三河という土地において、一向宗が敵に回るということの本当の恐怖を、朝比奈は知っていた。
目の前にいる一万だけではない。自分たちの足元にある農村の百姓も、牛久保の周囲にいる雑兵も、果ては自軍の中にいる三河出身の兵すらも、いつ背後から刃を刺してくるか分からぬのだ。
(一向宗が、なぜ松平や木下に味方する!? 門徒どもは寺領の不入権を巡って大名とは折り合いが悪いはず……! なぜ…………。)
朝比奈の頭の中で、すべての計算が狂い咲いた。
だが、その理由など探っている暇などない。事態は緊急を要する。
「……引き上げだ!!」
朝比奈は間髪容れずに叫んだ。
「陣を払え! 撤退だ! 法螺貝を吹け!」
朝比奈の決断は早かった。一向宗が敵に回ったとなれば、これまでに積み上げてきた戦略のすべてが根底から覆る。一向宗の怖さは、目の前にいる一万の門徒だけではない。三河の全土、農村にも、街道筋にも、さらには牛久保の城下に至るまで、無数の信徒が潜んでいるのだ。彼らが一斉に立ち上がれば、二万の今川軍など一晩で孤立し、血の海に沈む。
「井伊肥後守を残せ! 殿を務めさせよ! 牛久保の本軍に急ぎ戻らねばならん!」
あの難敵を抑えるには有象無象では難しい。苦渋の決断ではあるが、実力を認めていた遠江の国人・井伊肥後守直親を死地に残した。未だ前線で戦う彼に詫びながら朝比奈は馬に飛び乗り撤退を開始した。
◼︎永禄五年五月 三河国 東海道
殿を引き受けた井伊肥後守の部隊は、小豆坂の出口を死守すべく陣を構えたが、松平軍の怒濤の突撃の前に一瞬にして飲み込まれた。
「逃がすなッ! 朝比奈をここで討ち取るのだ!」
本多平八郎が鬼神のごとき相貌で敵陣を突き破る。それに呼応するように、酒井小五郎が冷徹な用兵で包囲網を締め上げていく。井伊肥後守は半刻の死闘の末に討ち取られ、その最期は乱戦のなかに消えていった。
そこからの東海道は、今川軍にとって悪夢の逃走劇となった。街道を崩壊しながら退く朝比奈の背後へ、平八郎の修羅の如き追撃が迫る。それだけではない。鬱蒼とした竹林や農村の陰から、竹槍を手にした百姓や門徒たちが次々と飛び出し、「南無阿弥陀仏」の合唱とともに今川兵の足を引っ張り、行軍の足を容赦なく砕いていく。
「うわあああ! 助けてくれ!」
「仏罰だ! 今川の犬どもに仏罰が下ったぞ!」
整然としていたはずの軍列は跡形もなく崩れ去り、逃げ惑う兵たちはただの獲物と化した。朝比奈備中守は兜を投げ捨て、血と泥にまみれながら馬を走らせた。背後から響く「朝比奈、逃げるな!」という平八郎の雷鳴のような咆哮が、耳に入ったが構う暇はない。
(今すぐ牛久保の包囲を解き、遠江へ退かなければ……我が今川家は、この三河の土にすべてを埋め尽くされる……!)
死に物狂いの一夜。幾百もの味方の屍を東海道に晒しながら、朝比奈は山岳部を抜け、太陽が頭の上に位置する頃、ようやく牛久保城の望める平野部の入り口――国府へと這いつくばるように辿り着いたのだった。
◼︎永禄五年五月 三河国 国府
不眠不休で山岳部を抜け、牛久保城を肉眼に捉えられる国府辿り着いた時、待っていたのは、さらなる絶望の光景であった。
「な……なんだと……」
朝比奈は馬上で絶句し、膝を震わせた。
牛久保城を包囲していたはずの七千の今川本軍が、今や激しい乱戦の渦中にあった。
北側の野田城の方角からは、菅沼新左衛門率いる六百ほどの松平兵が今川の背後へ突き刺さっていた。城内からは、重厚な大手門が打って開かれ、金色の具足を纏った松平蔵人佐元康自らが二千の死兵を率いて打って出ていた。
「中々落ちぬと思えば……城内に松平蔵人佐がいたか……!」
朝比奈は歯噛みした。存在を隠れていた松平の総大将が、救援の到来とともにその牙を剥いたのだ。
七千の氏真軍に対し、前後から挟み撃ちにする松平勢は三千弱。数の上では未だ今川勢が勝っているはずであった。しかし、包囲のために陣形を薄く引き伸ばしていた今川軍は、挟撃を受けて大混乱に陥っていた。
だが――朝比奈の目を最も見開かせたのは、そのどちらでもなかった。
城の南側。今川軍のガラ空きの側腹を、寸分の狂いもない隊列で抉り裂く一隊があった。翻る沢瀉紋の旗印。怒濤の突撃を見せる前田又左衛門の赤柄の槍。そして、戦場の空気を一変させる鉄砲の連続的な轟音。
「……木下軍……!?」
朝比奈は己の目を疑った。
その数は、およそ一千二百。
「なぜだ……! なぜ木下の兵がここにいる!?」
小豆坂で自軍の六千と対峙していたはずの木下本隊。その前線に張り付いていたはずの軍勢が、なぜ朝比奈の敗走よりも早くこの牛久保の戦場に先回りし、今川の横腹を叩いているのか。
小豆坂から牛久保に至るまでの距離は、険しい山道が幾重にも遮っている。いかに敗走で隊列が乱れていたとはいえ、大軍の移動がこれほどの速度で行われるなど、軍略の常識ではあり得ない。本田平八郎ら追撃してくる部隊は後方にいるというのに、木下の兵だけが、説明の付かぬ速さで目の前の戦場に現れていた。
「ばかな……! 木下弥右衛門、貴様は一体……一体どんな妖術を使ってこの距離を駆け抜けたのだ……!」
朝比奈の絶叫は、硝煙の匂いと怒号が渦巻く牛久保の空へ、ただ虚しく吸い込まれていった。
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