↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
オヤジ太閤記〜天下人の父に転生した男、株式会社を作って、表裏比興の者として生き抜く。〜  作者: 芭音
永禄五年(1562)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
43/60

#41 三河崩れ 其のニ

◼︎永禄五年五月 三河国 牛久保城包囲軍 本陣


 飯尾豊前守の処断を宥めた今川五郎氏真が、床に広げられた三河の絵図へ歩み寄り、細い指で国府の地を強く叩いた。


「備中守。これ以上の不手際は、我が今川家の名に傷がつく。裏切り者(まつだいら)と成り上がり者(きのした)に、二度までも煮え湯を飲まされてなるものか」


 今川五郎の言葉には、かつて駿府の館で見せていた公家然とした甘さは消え失せ、冷徹な支配者としての響きが宿っていた。

 朝比奈備中守泰朝は、若き主君の変貌に胸の内で安堵しつつも、即座に表情を険しくした。

 

「はっ。飯尾と新野が勝手に動いたとはいえ、四千の兵を失ったのは痛手にございます。されど、敵の狙いも透けて見えました。奴らは我らの焦りを誘い、国府から西へ引きずり込んで叩く腹積もり。なれば、その逆を突くまでにございます」


 朝比奈備中守の目には、すでに怒りはなかった。あるのは、敵を確実に圧殺するための、恐ろしいほどの算盤の弾き方であった。


「我らの一番の狙いは、あくまで牛久保城の落城。落とせば東三河は完全に我が手に入ります。なればこそ、完璧なる『壁』を築く必要がございます」


 居並ぶ諸将を見渡し、淀みなく軍令を発した。


「私が自ら六千を率いて国府へ着陣する。岡崎へ通じる東海道を完全に封鎖し、東海道を前進し、木下と松平の軍勢を東三河から追い出しまする。さらに――」


 朝比奈備中守の指が、南西の位置にある上ノ郷城へと移る。

 

「御屋形様の本軍から一千の兵を割き、この上ノ郷城の周囲を厳重に抑え込ませます。さすれば、西尾城からの救援の道も完全に閉ざされ、牛久保は陸の孤島となりましょう」


「なるほど、その隙に牛久保を仕留めるか」


 今川五郎が満足そうに頷く。


「その通りにございます。牛久保城の攻め手には、汚名返上を誓う飯尾の残党を最前線に置き、本軍七千がその後ろを固めて苛烈に攻め立てます。国府の敵が焦って牛久保を助けに動こうとすれば、我が六千が東海道でこれを迎撃し、一人残らず叩き潰す。……これよりは、一分の隙もない力戦にございます」


 この策は、まさに大軍の利を最大限に活かした「力づくの封じ込め」であった。敗戦という痛手を経て、今川軍は一塊の巨大な鉄壁へと姿を変えたのである。


 朝比奈の動きは、恐ろしいほどに慎重で、かつ冷酷であった。六千の軍勢を率いて国府を通過、東海道を進軍するにあたり、朝比奈は前回の新野らの失敗を完全に反省していた。街道の両脇に広がる鬱蒼とした森へ、何重にも斥候を放ち、少しでも怪しい茂みがあれば徹底的に調べ上げる。


「備中守殿、前方に木下の小部隊が蠢動しております。小規模な夜襲の構えかと」

 

「構うな。陣形を崩すな」

 

朝比奈は馬上で冷酷に言い放った。

 

「物陰や森には必ず偵察を入れ、安全を確かめてから進め。小技に付き合う必要はない。我らの目的は、敵をここに引き付け、牛久保を確実に落とすことにある」


「物見を怠るな。二度は同じ手は通じぬぞ」


 朝比奈の厳命により、今川軍は時間をかけて、着実に前進を続けた。

 松平の兵が挑発の如く現れても、朝比奈は深追いを一切禁じ、盾を持たせた歩兵を厚く配置して被害を最小限に抑え込んだ。


 本宿、そして藤川――。

 東海道の要衝が、着実に今川の軍靴によって踏み荒らされ、松平と木下の連合軍と牛久保城との距離は、物理的にも、心理的にも、絶望的なまでに引き離されていった。



◼︎永禄五年五月 三河国 小豆坂


この状況に、最も激しく動揺したのが、松平軍の将兵であった。


「夜襲も効かぬ、奇襲の隙もない!……これでは、牛久保が持たん」


 交代を続ける酒井小五郎忠次は、額に流れる汗を拭うことも忘れ、床に拳を叩きつけた。彼のまわりには、本多平八郎忠勝をはじめとする三河武士たちが、血走った目で控えている。


「今川軍が、連日、牛久保城へ向けて波状攻撃を仕掛けているとの報にございます。飯尾の連中、命を惜しまず狂ったように壁を登ってくるとか……。城内の兵は僅か二千。これ以上、朝比奈に道を塞がれては、殿のお命が危うい!」


 平八郎が黒槍の柄をギチリと鳴らし、弥右衛門の顔を睨みつけた。

 

「木下殿! なぜこれほど静観しておられる! 貴殿の鉄砲隊も、朝比奈の堅実な進軍の前には手も足も出ぬではないか! 小細工が通じぬのなら、今すぐ全軍で東海道を突き破り、牛久保へ馳せ参じるべきだ!」


 三河武士たちの焦燥は極限に達していた。主君が二万の軍勢に文字通り圧殺されかけているのだ。援軍も送れぬこの状況は、彼らにとって死よりも恐ろしい絶望であった。


 対する木下家の陣営は、妙な静寂に包まれていた。

 前田又左衛門利家や河尻与七郎は、状況の厳しさに表情を硬くしていたが、当主である木下弥右衛門は、相変わらず冷静に算盤を弾くような目で地図を見つめている。背後に控える木下勘十郎、そして闇に潜む猿飛新左衛門尉の顔にも、焦りの色は一切なかった。


「平八郎殿、落ち着かれよ」

 

弥右衛門は静かに声を掛けた。

 

「朝比奈備中守は堅実かつ有能な将だ。こちらが焦って突撃すれば、それこそ奴の思う壺。数の利を活かされ、一網打尽にされるぞ」


「ならば、殿を見殺しにせよと言うのか!貴殿らが動かぬと言うなら、我が松平の二千だけで朝比奈の首を取りに行く!」


 怒号で天幕を揺らした平八郎を酒井小五郎と止めることはしなかった。彼の瞳にも、主君を失うことへの狂気的な恐怖が宿っていた。

 

「木下殿。平八郎の言う通りだ。これ以上の猶予はない。朝比奈がこれ以上進めば、岡崎城すらも危うくなる。……打って出るしか、道はない。」


 弥右衛門は、酒井小五郎の悲壮な決意を含んだ目を見つめ、小さく息を吐いた。

 

(やはり、武士というのは合理だけでは動かんな。主君の危機となれば、勝算の薄い賭けにでも身を投じる。だが、ここで松平軍が勝手に突出して壊滅すれば、木下側の計画にも狂いが生じる……)


「……相分かった。これ以上の後退は、貴殿らの士気に関わるな」


 弥右衛門は立ち上がり、前田又左衛門と河尻与七郎に目をやった。

 

「小五郎殿、平八郎殿。打って出ることは許さん。だが、この小豆坂の地で迎え撃つというのであれば、我が木下の一千も共に戦おう。見破られようと、鉄砲や伏兵を準備して損はない。」


――小豆坂。

その血塗られた古戦場の名が、ふたたび三河の空に響き渡ろうとしていた。




◼︎永禄五年五月 三河国 小豆坂


 かつて織田と今川が幾度も激突し、数多の武士の血を吸った小豆坂の丘陵地。

 そこへ、朝比奈備中守率いる今川軍六千が、整然とした陣形を崩さぬまま着陣した。迎えるのは、松平・木下連合軍三千。


 数の比率は、二対一。

 しかし、地形は起伏に富み、大軍が力任せに押し潰すには、少々骨の折れる場所であった。

 今川軍の戦術は、徹底して「受け」であった。朝比奈は兵を厚く配し、松平軍の必死の突撃を泥沼のように受け止め、左右から包囲してすり潰す構えを見せた。


「――者ども、続け! 殿の道を切り開くのだ!」


 本多平八郎が、愛槍を揺らしながら、先陣を切って今川の分厚い壁へと突っ込んだ。

 

「おおおおお!」


 平八郎の放つ一突きが、今川の歩兵の盾を木端微塵に砕き、背後の武者をまとめて突き通す。その凄まじい武勇は、まさに鬼神の如くであった。主君の危機という絶望が、彼の力を限界以上に引き出していた。


 同時に、木下軍の側翼からは、前田又左衛門が赤柄の槍を振り回して突撃を開始した。

 

「我が槍を、駿河の犬どもに教えてやるわ!」


 槍の又左の剛槍が、今川軍の左翼を激しく抉り取る。河尻与七郎の率いる常備兵たちも、一糸乱れぬ連動で利家の背後を固め、今川の包囲網が完成する前に、その端々を切り崩していった。


 平八郎と又左衛門。二人の稀代の豪傑による命がけの猛攻は、朝比奈備中守の想定を遥かに超える破壊力を持ち、細かく報告が上がる伏兵の報告が短期決着の一手を阻んでいた。


「おのれ、三河の死に損ないどもめ、これほどの力を残していたか!」


 今川の陣形が、二人の武勇によって激しく歪む。前線では血飛沫が舞い、肉を断つ音が絶え間なく響いた。決死の覚悟を持った三千の連合軍は、朝比奈の六千を相手に、奇跡的とも言える「五分の戦い」を演じてみせたのである。


――だが、朝比奈泰朝の顔から、余裕が消えることはなかった。


「ふん……見事な奮戦だ。なれど、それまでよ」


 朝比奈は前線の混乱を冷静に見つめ、周囲の旗本たちに命じた。

 

「後退する部隊はそのまま引かせよ。代わりに第二陣を投入し、敵の体力を削れ。何度でも言うが、焦るな。勝負は、牛久保が落ちた瞬間に決する」


 朝比奈の言う通りであった。

 いくら平八郎や利家が個人の武勇で敵を圧倒しようとも、全体の数の差は覆らない。連合軍の兵たちは、戦えば戦うほどに疲弊し、一人、また一人と数を減らしていく。

小豆坂の戦線が膠着すればするほど、時間の猶予を失っていくのは松平側であった。


「……くそ、朝比奈の奴、全く崩れん!」


 酒井小五郎は、前線で返り血を浴びながら、絶望の表情を浮かべた。


(殿……申し訳ございませぬ……我が力、及ばず……!)


 小五郎の心に、暗い絶望の影が完全に覆い被さろうとしていた。平八郎の槍も、連戦の疲労でその速度を落としつつある。


 誰もが、松平の命運はここまでか、と思ったその瞬間。


 今川軍の後方、朝比奈の本陣に向けて、一騎の馬が猛烈な勢いで駆け込んできた。乗っているのは、今川の本軍から派遣された伝令の武者であった。その顔は青ざめ、具足は泥と汗でまみれている。


「――報告! 朝比奈備中守様に、緊急の急報にございます!」


ご拝読いただきありがとうございます。


続きが気になる方、本作を気に入ってくれた方はブックマークをしてお待ちください。

励みになりますので、評価もぜひお願いします

★★★★★

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。