#40 三河崩れ 其の一
◼︎永禄五年四月 三河国 豊川
天を衝くような数多の旗指物が、うねる大蛇のごとく街道を埋め尽くしていた。今川家が国力を傾けて送り込んできた二万の大軍勢。その第一陣を率いる飯尾豊前守連龍の三千が、勢いよく豊川の浅瀬を蹴り立てて西岸へと渡り切る。
「松平の小倅め、そこでお命頂戴いたすぞ!」
飯尾豊前守は刀を抜き放ち、前方に布陣する松平の二千へ向けて怒号を浴びせた。
迎え撃つのは、最前線に陣を敷く松平蔵人佐元康の軍勢であった。平野部に陣取る松平軍は、渡河直後の混乱を突く形で、見事な連動を見せて飯尾の先鋒を押し返した。初戦の衝突において、松平の頑強な三河武士たちは数の不利を覆し、今川の第一陣を激しく突き崩す。
しかし、その優勢も長くは続かなかった。
背後の吉田城から、地鳴りのような足音と共に、朝比奈備中守泰朝の本隊六千が泥流のごとく平野へ流れ込んできたのだ。左右からは新野左馬助親矩の三千も展開し、松平軍を包囲せんとする。
「引き上げよ! 陣を引け!」
前線の松平軍から、退却の触れ太鼓が響いた。朝比奈の参戦を見るや否や、松平蔵人佐は即座に全軍の撤退を指示。数で劣る松平軍は、今川の怒濤の追撃をかわしながら、北西に位置する東三河の要衝・牛久保城へと辿り着き、後詰として国府から救援に来た酒井小五郎が率いる松平第二軍と合流した。
「殿、ご無事で何よりにございます」
「小五郎、予定通りだ。これよりお前が『松平蔵人佐元康』の具足を纏い、旗印を掲げて国府の木下殿と合流せよ。私は酒井小五郎として、この牛久保を枕に今川を引き受ける」
「……お覚悟、しかと承りました。お命、くれぐれもお大事に」
極秘裏の「入れ替え」が行われた後に、酒井小五郎は元康の象徴である金色の兜と具足を身につけて、松平蔵人佐が率いていた第一軍を連れて国府へと引いていった。
城外を監視する今川の斥候の目には、ただ「松平蔵人佐が本軍を率いて岡崎方面(国府)へ退却し、名代の酒井小五郎が牛久保城に残った」と映るように仕組まれた、壮大な欺瞞であった。
今川側からすれば、総大将が国府へ逃れたとなれば、牛久保城の守りは薄いと踏むはずだ。しかし、実際に籠城を指揮するのは、必死の覚悟を秘めた総大将その人であった。
どっと地響きを立てて、牛久保城の重厚な大手門が閉ざされる。外囲を包囲した飯尾や新野の兵たちは、勝ち鬨を上げて城を囲んだ。
城内に残る兵は僅かだが、彼らは皆、主君が共に城を枕にしていることを知っている。その士気は死兵の如く高かった。蔵人佐の狙いは、自身がここへ残り、今川の二万をこの城へ完全に釘付けにすることにあった。
◼︎永禄五年四月 三河国 牛久保城 包囲軍
数日後、今川五郎氏真率いる八千の本軍が到着し、牛久保城の周囲は完全に今川の兵で埋め尽くされた。朝比奈泰朝の六千を合わせて一万四千が城を幾重にも取り囲む。
「城内の酒井小五郎に告ぐ! 貴様らの主、松平蔵人佐はすでに岡崎へと逃げ延びた! 孤立無援の城で無駄な血を流すより、直ちに門を開けて降伏せよ!」
朝比奈泰朝の使者が城門に向けて声を張り上げた。
だが、城内からの返答は冷酷極まるものであった。矢倉の上から放たれた複数の矢が使者の足元に刺さり、同時に、泥まみれの今川兵の首級が城壁から投げ捨てられた。徹底抗戦の意思表示であった。
「……ふん、小賢しい三河武士どもめ。長引けば干上がるだけのものを」
本陣で報告を聞いた朝比奈備中守泰朝は、忌々しげに顎髭をさすった。朝比奈としては、この要衝を力攻めで落とし、兵を損なう愚は避けたかった。一万四千の軍勢で城を包囲し、兵糧と水を断つ兵糧攻めが最も確実である。
「兵糧攻めといたしましょう。この一万四千で牛久保を完全に干殺しにする。その間、飯尾殿と新野殿の軍勢に周辺の小城を落とさせ、松平の退路を断つのが上策かと」
その言葉に、飯尾豊前守が身を乗り出す。
「なれど朝比奈殿。国府に布陣している松平の残党と木下の三千、あれを野放しにするので?」
現在、牛久保城から西へ数里、岡崎への道を塞ぐ要衝である「国府」の地には、松平本軍二千と、木下弥右衛門が率いる一千、合わせて三千の連合軍が布陣していた。
その懸念に、朝比奈は冷ややかに鼻を鳴らした。
「国府の三千には手を出すな。あの場所を失えば、牛久保の救援は完全にできなくなる。奴らも死ぬ気で応戦するだろう。まずは牛久保を飢えさせる。国府は後回しだ。邪魔はしてくるだろうが、勝手な突出は厳に慎まれよ。」
飯尾と新野は自身よりも小勢の敵の総大将を目の前に何もできぬ指示に、不承不承といった様子で頭を下げた。だが、その瞳の奥には、冷めやらぬ功名心が燻っていた。
こうして、今川の本軍一万四千が牛久保城を包囲する膠着状態が始まり、飯尾と新野のそれぞれ三千、合わせて六千の軍勢が、周囲の砦の掃討へと動き出した。
◼︎永禄五年五月 三河国 国府・木下本陣
包囲の開始から1ヶ月。
五月に入り、季節は新緑の候を迎えていたが、戦況は膠着を続けていた。
岡崎への入り口である国府の地には、酒井小五郎の二千と、木下弥右衛門率いる一千の、合わせて三千の連合軍が陣を構えていた。
木下陣地の天幕。弥右衛門は、小一郎が運んできた一色の干魚を齧りながら、届けられた報告書に目を落としていた。
「父上、牛久保城は未だに一兵の寝返りも出さず、頑強に持ちこたえております。今川も攻めあぐねている様子」
小一郎が感嘆の声を漏らす。
「松平殿も、よく耐えるものよ。自分が城にいることを隠し通し、今川に『ただの支城戦』と思わせながら、その実、敵の本軍一万四千を完全に釘付けにしている。流石……」
――流石、戦国の世を勝ち抜く男よ。
心の中で唱えたその言葉に弥右衛門は薄く笑った。だが、その目は国府から東に広がる森の地形を冷たく凝視していた。
「問題は、周辺を荒らし回っている飯尾と新野だな」
「はい。前田殿と河尻殿、松平の本田殿が、奴らの先遣隊に対して執拗な夜襲と小規模な奇襲を繰り返しております。遁尾衆が敵の夜営地を正確に突き止め、寝首を掻くような真似を続けておりますので、今川の陣中には相当な苛立ちが溜まっているかと」
――頃合い……だな。
◼︎永禄五年五月 三河国 赤塚山
飯尾豊前守と新野左馬助の二人は、極限の焦燥感の中にいた。牛久保周辺の小城や砦をいくつか落としたものの、どれも松平が事前に兵を引いた空城ばかりで、首級一つ上がらない。そればかりか、夜になればどこからともなく現れる奇襲隊によって、兵が一人、また一人と削られていく。
「これでは、朝比奈に手柄をすべて持っていかれるぞ!」
飯尾の陣営で、飯尾豊前守が卓を叩いて荒ぶっていた。
「牛久保を包囲しているだけで手柄になる朝比奈とは違うのだ。我らは遠江の国人。ここで格別の軍功を立てねば、今川家における我らの立場はどうなる! 駿河の連中に蔑まれるだけだ!」
隣に座る新野も、深く頷いた。
「その通りだ。国府にいる松平の本軍と木下を叩けば、三河の息の根は止まる。朝比奈殿は『国府への進撃は禁ずる。自重せよ』と抜かすが、目の前に極上の獲物が転がっているのだ。ここで戦わねば、何のための二万か!」
「……やるか、左馬助殿」
「やりましょう、豊前守殿。一気に国府を強襲し、松平の蔵人佐と木下の2人の大将首を、五郎様に捧げるのだ!」
二人の将は、朝比奈備中守の厳命を完全に無視し、手柄欲しさに三千ずつの全軍、計六千を動かして国府への夜襲を決行した。
◼︎永禄五年五月 三河国 国府
その夜、飯尾と新野の連合軍六千は、朝比奈の軍令を明確に破り、国府の連合軍本陣への夜襲を敢行した。闇に乗じて国府の陣へと突入した今川兵の前に広がったのは、恐慌をきたして右往左往する松平・木下の兵たちの姿であった。
「かかったぞ! 敵は油断しておる! 押し潰せ!」
新野が声を大にして叫び、馬を駆った。
木下軍の陣幕が次々と引き裂かれ、松平の馬印が乱暴に倒される。前線で指揮を執っていた金色の兜の男が、具足を血に染めながら馬に乗って西へと逃れていく姿が、月明かりの下で見えた。
「松平蔵人佐が逃げるぞ! 追え! あの首を取れば、この戦の勝ち名乗りは我らのものだ!」
飯尾もまた、我を忘れて叫んだ。
二人の大名が、数千の兵と共に算を乱して敗走していく。手柄に飢えていた今川の将兵にとって、これ以上の極上の餌はなかった。朝比奈の「国府には手を出すな」という軍令など、彼らの脳裏から完全に吹き飛んでいた。
「全軍追撃! 岡崎の城門に至るまで、一人残らず討ち取れ!」
六千の今川軍は、国府を飛び出し、西へと向かう東海道を猛烈な勢いで突き進んだ。そこは、街道の両脇を鬱蒼とした深い森が囲む、極めて狭隘な切り通しの地形であった。
◼︎ 永禄五年五月 三河国 東海道・本宿
夜が明け染め、薄暗い朝靄が街道を包み込む頃。
飯尾と新野の軍勢は、細長い山道へと差し掛かっていた。追撃の列は縦に長く伸びきり、大軍の強みである横への展開が全く封じられた地形である。
「……待て。静かすぎる」
新野が、ふと馬の足綱を引き、周囲の森を見上げた。
先ほどまで前方に見えていたはずの、松平の落ち武者たちの姿が、霧の向こうへと完全に消え失せていた。
そして、街道の正面、暗闇の奥から、冷徹な一言が響いた。
「点火」
――バチバチ、と火縄が闇を焦がす音が、無数に聞こえた。
「な……!」
ドドンッ!!!
鼓膜を破らんばかりの爆音とともに、闇を裂く閃光が一斉に放たれた。
木下家が誇る鉄砲部隊が一斉に火を噴いたのだ。狭い大街道に密集していた新野軍の先鋒は、何が起こったかも理解できぬまま、鉛の弾丸に身体を貫かれ、一瞬にして血の海へと沈んだ。
「ひ、鉄砲だ! 伏兵だ!」
狂乱が今川軍に広がっていく。さらに、街道の両脇の森から、無数の松明が投げ込まれ、周囲の茂みに仕込まれていた油に引火して大火の壁を作り出した。
「うろたえるな! 側面を固めよ!」
新野親矩が必死に叫んだが、その直後、左右の森から怒濤の咆哮が上がった。
「木下家臣、前田又左衛門! 推して参る!」
「河尻与七郎、見参!」
赤柄の槍を掲げたが、獣のような勢いで新野の側面に突き刺さる。河尻の率いる常備兵たちも、整然とした穂先を揃えて突撃し、統制を失った今川軍を文字通り蹂躙し始めた。
「おのれ、謀ったな……!」
新野は自ら太刀を抜いて応戦しようとしたが、その前に前田又左衛門が立ち塞がった。
「今川の将、我が槍の錆となれ!」
又左衛門の剛槍が虚空を裂き、新野の胸板を深く貫いた。新野は血を吐き、無念の叫びとともに馬から転がり落ちて絶命した。
「左馬助殿が討たれただと!?」
絶叫に似た飯尾の言葉は、霧の中に霧散した。前線は既に壊滅し、街道には肉の焼ける臭いと死臭が満ちている。
「数が上だぞ! 押し返せ!」
飯尾が喚く。だが、その声は霧の奥から現れた漆黒の影に塗りつぶされた。
本多平八郎忠勝。彼が黒槍を掲げた瞬間、背後の千の精兵が一斉に咆哮し、街道を地獄へと変えた。
「くそッ……!三河の田舎者どもが!!」
飯尾は自軍の兵を踏みつぶさん勢いで馬を反転させる。将の逃走を見た今川兵の心は、音を立てて砕け散った。崩れゆく兵士たちの叫びが、夜明けの東海道に虚しく響き渡る。
◼︎ 永禄五年五月 三河国 牛久保城包囲軍 今川本陣
牛久保城を包囲する今川の本陣は、通夜のような重苦しい静寂に包まれていた。
「……何と言った? もう一度申せ」
朝比奈備中守の声は、怒りのあまりに低く震えていた。
その前で、具足を失い、泥まみれになって平伏しているのは、命からがら逃げ帰った飯尾豊前守であった。
「は、新野左馬助殿は討死……我が軍も伏兵に遭い、四千を超える兵を失い、壊滅いたしました……すべては、松平と木下の奸計にございます!」
「黙れッ!」
朝比奈は思わず腰の刀の柄に手をかけた。その顔は怒りで般若のごとく歪んでいる。
「あれほど国府には手を出すなと命じたはずだ! 貴様らの身勝手な突出のせいで、我が軍の多くの兵が亡きものにされたのだぞ! 飯尾豊前守連龍、貴様の手落ち、万死に値する! 即座にここで腹を切れ!」
朝比奈の鋭い眼光に、飯尾はガチガチと歯を鳴らして震えた。誰もが飯尾の首が飛ぶのを疑わなかったその時――。
「……待て、備中守」
低く、だが霧を切り裂くような通りが良い声が、本陣の奥から響いた。
総大将・今川五郎氏真。蹴鞠の球を追うだけの軽薄な若君と見られていた男が、重い足取りで飯尾の前に立った。その瞳には、かつて今川義元が戦場で見せた、獲物を射抜くような冷徹な光が宿っていた。
「しかしこの者に処罰を下さねば、軍の規律が……」
「規律は大事だ、備中守。だがな、今ここで飯尾を斬ればどうなる? 飯尾の手下に残った遠江の兵どもは、皆恐怖し、今川に反旗を翻すか、逃亡するであろう。ただでさえ四千を失ったのだ。これ以上の身内の削り合いは、敵の思う壺ぞ」
今川五郎は飯尾を見下ろし、静かに言った。
「飯尾よ。貴殿の命は、預けておく。次に松平の首を取るまで、死ぬことは許さぬ。……我が今川の剣として、骨まで使い潰されてみせよ」
「は、ははっ! ありがたき幸せにございます!」
飯尾豊前守は涙を流して床に額を擦り付けた。
朝比奈備中守は、驚きをもって氏真の顔を見つめた。日頃、蹴鞠と和歌にしか興味がないと思われていた若き当主の口から、これほど理にかなった、軍の崩壊を防ぐための大局的な判断が出るとは思っていなかったのだ。
(あなた様も……やはり義元公の血を引く大名か)
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