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オヤジ太閤記  作者: 芭音
永禄五年(1562)

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#39 実相寺の会談

◾️永禄五年三月 三河国 実相寺


 境内を包む空気には、微かに春の兆しが混じり始めていたが、吹き抜ける風はなおも冷たい。

 西尾城から北へ数里。山裾に佇む実相寺は、木下弥右衛門の手によって近年大々的に再建された寺院である。周辺の斜面には、実相寺の宗円と円澄の指示で整然と植え替えられた茶の木が青々とした葉を伸ばしている。ここは木下領における茶生産の一大拠点となっていた。


 その境内に、物々しい供回りを連れた一隊が到着した。

馬から降り立ったのは、松平蔵人佐元康。その後ろから、侍女に手を引かれておっとりとした足取りで歩を進めるのは、弥右衛門の次女であり、今は元康の側室(人質)として岡崎城へ入っている旭であった。


「まあ、今年も見事な茶畑でございますこと。殿、連れてきてくださり、嬉しゅうございます」


 旭がのんびりとした声を上げ、周囲を見渡す。その表情には、人質としての悲壮感は微塵もない。


 「うん。旭が『実相寺の茶を、今年もどうしても父上と共に味わいたい』と言うからね。急な買い出しとなったが、こうして息抜きをするのも悪くない。」


 松平蔵人佐は穏やかに微笑み、旭の肩を優しく叩いた。実に睦まじい仲を思わせる睦まじい光景である。


 だが、その様子を寺の庵の縁側から見下ろす弥右衛門の目は、一切笑っていなかった。

(……白々しい真似を)

 弥右衛門は内心で小さく舌を打った。表向きは「側室の要望に応じた、睦まじい夫婦の茶の買い出し」。しかし、わざわざこの緊迫した時期に、松平の当主が自ら動いたのだ。裏に強烈な理由がないはずがない。これは、周囲の「目」を欺くための完璧な迷彩であった。


 「これはこれは、松平殿。ようこそ実相寺へおいでくだされた。旭も、健やかそうで何よりだ」

 

 弥右衛門は柔和な笑みを顔に貼り付け、庭へと下りて元康を迎えた。

 

「義父殿、急な訪問、申し訳ない。旭の願いを叶えたくてね。」

 

「何の、娘の親孝行ほど嬉しいものはございませぬ。ささ、奥へ」


 旭が嬉しそうに一礼する。弥右衛門は父親らしい慈愛の微笑みを浮かべたが、その脳内は、冷徹なまでの観察眼で相対する男の動向を捉えていた。

 松平蔵人佐がわざわざ旭を伴い、この時期に急遽、木下領の実相寺へ赴いた理由。それが単なる茶の買い出しであるはずがない。今川による三河奪還の軍勢が、いよいよ遠江の国境付近で蠢動を始めたという報は、遁尾衆からももたらされていた。


「旭、お前は茶室のほうで、寺の住持から美味い点て方を習ってくると良い。松平殿とは、これからの商いの件で少しばかり硬い話をせねばならん」


「はい。では、格別の一服を用意してお待ちいたしますね」


 旭が席を立ち、部屋の襖が静かに閉まる。その瞬間、座敷の空気が一変した。

 父親としての顔は消え、冷徹な組織の長としての弥右衛門がそこにいた。松平蔵人佐もまた、先ほどまでの穏やかな表情を綺麗に削ぎ落とし、鋭い大名の眼光で弥右衛門を見据えた。


「――今川が、動く」


 松平蔵人佐が、低く短い声で切り出した。


「吉田城の朝比奈備中守が兵をまとめ、駿府の今川五郎氏真率いる本隊と合流の構えを見せているようだ。その総勢、およそ二万。私たちを一息に踏み潰し、三河を完全に今川の手に取り戻すための大遠征だろうね。」


「二万、か。今川五郎も、一歩も退かぬ覚悟で出てきたな」


 弥右衛門は、その数字を聞いても眉一つ動かさなかった。すでに想定の範囲内である。二万という大軍を維持するための兵站、そして動員にかかる時間を考えれば、今川が乾坤一擲の勝負を仕掛けてくる時期は今しかなかった。


 「対する我が松平は、与七郎(石川数正)に一千を預けて領内の守ってもらうと、残り本軍は二千、小五郎(酒井忠次)の第二軍が二千の合計四千が限界。……まともにぶつかれば、一溜まりもないね。」

 

「して、どのような絵図を描いておられる?」


 弥右衛門の問いに、蔵人佐は懐から三河の絵図を取り出し、床に広げた。


「敵の総大将は今川五郎氏真。だけど、実質的に軍配を預かるのは老練なる朝比奈備中守と見て間違いない。奴らは必ず堅実に、牛久保城を包囲しにくる。

 ……なら、この牛久保城に、私自身が少数の手勢と共に籠城することにした。」

 

「総大将自らが、二万の前に籠る、ということですか?」


 小一郎が思わず声を挟む。

 

「牛久保城を落とされれば、今川の軍勢は一気に西三河の平野部へと流れ込んでくる。防衛の要は、この城をいかにして守り抜くかにかかっているんだ。」


 蔵人佐の指が、地図の上の牛久保城を叩いた。


「総大将が城を枕に耐えるとなれば、城兵の士気は最高潮に達し、今川の二万であっても、一朝一夕に落とすことはできない。私が敵の本軍を牛久保に釘付けにしている間、小五郎(酒井忠次)率いる別働隊が、平八郎(本田忠勝)らを従えて外囲から執拗な奇襲を仕掛ける」


 指が、絵図の上を滑り、ある一点で止まった。

 

「敵をじわじわと引き付け、疲弊させ、最終的にはこの『小豆坂』まで引っ張り出す。小豆坂の狭隘な地形で敵の足を止め、我が松平の強兵と木下殿の鉄砲隊を一斉に投じ、大軍の統制を崩したところを叩く。……これが、私の必勝の策だ。」


 蔵人佐は顔を上げ、弥右衛門を真っ直ぐに見つめた。実に見事な、そして血の気の多い防衛計画であった。総大将を囮にするという捨て身の戦術は、朝比奈備中守のような堅実な将の裏をかくには十分な説得力がある。


――だが、弥右衛門の脳内の算盤は、別の計算を叩き出していた。

(……足りんな)


 弥右衛門は冷徹に分析していた。二万の今川軍を相手に、わずか五千の連合軍でゲリラ戦を仕掛け、小豆坂で鉄砲で撃退する。言葉で言うのは容易いが、戦力の絶対数が違いすぎる。朝比奈備中守ほどの男が、小技の奇襲程度で二万の軍勢の統制を完全に失うはずがない。もし小豆坂で戦線が膠着すれば、数の暴力に押し潰されるのはこちらの方だ。


 つまり、この作戦だけでは「勝てない」。

 ならば、なぜ、これほど自信に満ちた目でこの作戦を語るのか。


 ――何かを、隠しているな。

 弥右衛門は確信した。松平は、この作戦の裏に、今川の息の根を完全に止める別の「決定打」を隠し持っている。そしてそれを、同盟者であるはずの木下には一言も明かしていない。

 理由は明白だ。この戦を「松平単独の手柄」とするためだ。木下家の莫大な経済力と鉄砲は利用するが、今川を三河から追い落としたという最大の軍事的実績は、松平が独占したい。戦後の三河支配の主導権を握るための戦略なのだろう。

 

「今回も素晴らしい作戦でございますな。流石、松平殿です。」


 弥右衛門は、相手の策略をすべて見抜いた上で、満足そうに深く頷いて見せた。

 

「我が木下家も、前田又左衛門、河尻与七郎、そして小一郎を合わせ、一千の兵を即座に動員いたしましょう。上ノ郷城には茶屋四郎次郎に五百を預けて守らせます。義理の息子の危機とあらば、この弥右衛門、身を粉にして働きましょうぞ」

 

「ありがとう。木下の鉄砲と兵があれば、負ける気はしない。」


 蔵人佐は嬉しそうに破顔した。その歓喜の表情すらも、どこまでが本心か分かったものではない。


 別室から「お茶が入りました」と旭の明るい声が聞こえる。二人は瞬時に表情を元に戻し、何事もなかったかのように穏やかな「身内の茶会」へと戻っていった。


◼︎ 永禄五年三月 西尾城 曲輪屋敷


「――というわけだ。松平は、何かを隠している」


 実相寺から戻った弥右衛門は、即座に木下勘十郎と、猿飛新左衛門尉を呼び出していた。

 小一郎が、昼間の実相寺会談の内容を二人に手短に共有する。話を聞いた新左衛門尉は、不敵な笑みを深くした。


「我が猿飛の耳には、岡崎の城中で、服部党が何やら不穏な動きを見せているとの報が入っております。奴ら、前線ではなく、東三河の別の場所に影を潜ませている様子」


「奴らの狙いは、戦後の三河の主導権だ」


 弥右衛門は腕を組み、冷徹に言った。


「我らを小豆坂に張り付け、今川の本軍と命がけの泥沼の戦いをさせるものだ。その裏で、奴は今川の息の根を止める決定的な一撃を、自らの手札だけで放とうとしている。三河を救ったのは松平であるという実績を作り、戦後の三河支配において、我が木下家を協力者の地位に押し込める算段だ」


「小賢しい真似を……!」

 

勘十郎が忌々しげに拳を握りしめた。旭を奪われた怒りが、彼の忠誠心をさらに尖らせている。

 

「殿、いかがいたしますか。松平の裏をかき、その隠し事の内容を暴き出させますか?」


「いや、その必要はない」


 弥右衛門は手を振った。

 

「相手の策略を潰すための一番の手段は、妨害することではない。決定打を隠し持っているというなら、我ら木下側も、奴が腰を抜かすほどの決定打を戦場に隠し持つまでのこと」


 弥右衛門の視線が、深く頷く勘十郎と新左衛門尉へと向けられた。


「よし。お前たちに命じる。松平には一切悟られぬよう、以下の仕込みを行え。……具体的にはな――」


 弥右衛門が二人に授けた指示は、極めて合理的かつ冷酷な「盤面のひっくり返し方」であった。詳細を聞いた勘十郎の瞳に、ぞっとするような歓喜の火が灯る。

 

「……恐れ入りました。これなれば、松平がどのような手札を隠していようとも、最後に盤面を制するのは我が木下家となります」

 

「誰にも漏らすなよ。松平の服部党が吐息 一つ、監視していると思え。我らの罠は、戦場が最高潮に達したその瞬間に起爆する」

 

「「ははっ!」」

 

二人の影が、一瞬にして城内の闇へと消え去った。



◼︎永禄五年四月 三河国 国府


そして、運命の四月が訪れた。


 今川家の軍勢が、怒濤の勢いで遠江の国境を越え、朝比奈備中守と合流し、東三河へと侵攻を開始した。

その陣容は、まさに三河を圧殺せんとする巨体の如き威容であった。

 

第一陣:飯尾豊前守連龍 三千。

第二陣:新野左馬助親矩 三千。

第三陣:朝比奈備中守泰朝 六千。

第四陣:総大将・今川五郎氏真 八千の本軍。


 その総勢、実数の二万。街道を埋め尽くす具足の波と、天を突く数多の旗指物が、三河の土を揺るがしていく。


 対する連合軍の陣容は、あまりに心許ないものであった。

松平蔵人佐元康が最前線に僅か二千の兵と共に布陣。

岡崎への道を塞ぐ要衝である国府の地には、酒井小五郎忠次率いる松平第二軍二千。そして、弥右衛門、前田又左衛門、河尻与七郎、小一郎が率いる木下軍一千の、合計三千が着陣していた。


 数の比率は、四対一。

 常識で考えれば、五千の軍勢が二万の大軍を正面から受け止めれば、一瞬にして圧殺されるのは火を見るより明らかであった。


 豊川のせせらぎが、迫り来る無数の足音によって激しく震え始める。今川第一陣の飯尾連龍の軍勢が、豊川を越え始めた。


「……来たな」


 戦の始まりを告げる法螺貝の音が、三河の荒野に重々しく響き渡った。

 武力と、執念と、そして互いが隠し持った「二つの決定打」が激突する、三河奪還に向けた火蓋が、今、切って落とされた。



ご拝読いただきありがとうございます。


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