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オヤジ太閤記〜天下人の父に転生した男、株式会社を作って、表裏比興の者として生き抜く。〜  作者: 芭音
永禄五年(1562)

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#38 本證寺

お久しぶりです。繁忙期を超えて投稿を再開します。

後書きに簡単なあらすじを記載しています。期間が空いてしまった方はご覧ください。

◼︎永禄五年二月 三河国 猿飛の隠れ里


「猿飛、か。悪くない響きだ」


 三雲新左衛門尉――いや、今日より猿飛新左衛門尉と名乗ることになった男は、薄暗い堂の中で己の掌を眺め、不敵に笑った。


 その傍らでは、木下家の目付奉行を務める勘十郎が腕を組んでいる。


 里が形になってから数日。近江より流れてきた五十余名の抜け忍たちは、すでに組を作り、山野を駆け、互いの癖を確かめながら、新たな主の下で生きる準備を始めていた。


「新左衛門尉。名を喜ぶのはそれまでにせよ」


 勘十郎が低く言った。


「殿より姓まで賜ったのだ。相応の働きなくば示しがつかん。木下家は、働かぬ者へ銭をばら撒くほど甘い家ではないぞ」


「心得ておりますよ、勘十郎殿」


 新左衛門尉は肩をすくめると、口元だけで笑った。


「ゆえに、生まれ変わった遁尾衆と我ら猿飛が、木下家へ差し出す最初の手土産として相応しい策を一つ」


「ほう」


 勘十郎の眉がわずかに動いた。新左衛門尉は懐から折り畳んだ絵図を取り出し、板間へ広げた。


 描かれているのは三河の中央部。

 岡崎と西尾の間に、新左衛門尉の指が落ちる。


「――本證寺」


「一向宗か」


「左様」


 新左衛門尉は頷いた。


「この三河を押さえ、いずれ今川と再び大戦となる日に備えるなら、城や兵ばかり見ていては足りませぬ。三河には、武士とはまるで異なる繋がりを持つ者どもがおります」


「門徒か」


「はい」


 新左衛門尉は本證寺の名を指先で軽く叩いた。


「近江にいた頃、我ら甲賀衆も門徒の繋がりには幾度となく助けられました。百姓、商人、馬借、職人。国境を越えて往来する者も多い。彼らが日々見聞きする話を拾い集めれば、忍びが一月かけて探る敵情を、数日のうちに知ることすらできましょう」


「しかし、宗門を使うということは、宗門に使われることでもある」


 勘十郎の目が細くなる。


「一向宗は大名の家臣ではない。不入の権を盾に、守護も領主も容易には手を出せぬ。まして一度敵へ回れば厄介だ」


「だからこそ、今のうちにございます」


 新左衛門尉は間髪を入れずに答えた。


「松平は今川との争いで手一杯。本證寺と正面から事を構える余裕はございますまい。ならば松平が宗門との関係を固めるより先に、こちらから手を差し出す」


「木下家へ臣従させる、と?」


「まさか」


 新左衛門尉は笑った。


「坊主に刀を差せと言っても従いますまい。ですが――利で結ぶことはできます」


 勘十郎はしばらく絵図を見つめた。


 やがて、その口元に僅かな笑みが浮かんだ。


「……面白い。殿がお好きな話だ。すぐに伝えに行こう」


 話を聞いた弥右衛門の決断は、さらに早かった。


「新左衛門尉。その策、採る」


「はっ」


「ただし、坊主を忍びに仕立てようなどとは考えるな。宗門には宗門の理がある。それを壊さず、こちらへ向ける」


 弥右衛門は絵図の本證寺をじっと見た。


「繋ぎを作れ。俺が直接話す」


 こうして新たに編成された遁尾衆は二手に分かれた。


 新左衛門尉の率いる者たちは、本證寺へと水面下で接触を図る。残る手勢は、吉田城周辺をはじめとする東三河へ散り、今川方の兵数、兵糧、道、河川、城々の備えを探り始めた。




 

◼︎永禄五年二月 三河国 本證寺


 本證寺の対面所には、息苦しいほどの静けさが満ちていた。


 上座に座るのは、昨年この寺の住持となったばかりの空誓である。驚くほど若く、まだ顔には少年の面影さえ残っていたが、その左右に並ぶ老僧たちの誰一人として若い住持を軽んじる様子はない。

 空誓は蓮如の血を引く一家衆である。その血と本山との繋がりこそが、この若者を三河でも屈指の大寺の頂へ押し上げていた。


 下座には木下家当主、木下弥右衛門吉成。

 その隣に、次男の小一郎が控えていた。


 猿飛新左衛門尉が幾重にも人を介して筋を通し、ようやく設けられた密かな会談だった。


 空誓が口を開いた。


「木下殿、と申されたな」


 声こそ若いが、物怖じする様子はない。


「西尾を治め、一色の湊を大いに栄えさせている御仁と聞いております。されど我が本證寺と木下家には、これまで深い縁はない。その御当主が、わざわざ何用で参られた」


「縁を作りに参った」


 弥右衛門は簡潔に答えた。

 空誓の脇に控えていた老僧が、鼻を鳴らした。


「縁、とな」


 老僧は弥右衛門を値踏みするように眺める。


「ならば先に申し上げておこう。我が本證寺は古くより認められた不入の権を持つ。木下家がいかほど勢いを増そうとも、寺内へ兵を入れることも、寺領へ勝手に手を伸ばすことも許されぬ」


「無論だ」


 弥右衛門は即座に答えた。


「そなたらの寺を奪いに来たわけではない」


「ならば何を求める」


「その前に、一つ聞こう」


 弥右衛門は空誓を見る。


「最近、本證寺の市で扱う塩と魚の値が上がってはいないか?」


 一瞬、老僧たちの表情が止まった。

 弥右衛門は続ける。


「逆に、銭の入りは思うほど増えておらぬ。参詣の人まで消えたとは言わん。だが、寺へ荷を運ぶ商人は減った。違うか?」


「……」


 答える者はいなかった。小一郎は横目で父を見る。

 弥右衛門は懐から帳面を取り出し、床へ置いた。


「一色へ入る船の数。西尾へ運び込まれる塩、魚、米、木材。街道を通る荷駄。それらを半年分、茶屋四郎次郎に調べさせた」


 老僧の一人が帳面を手に取り、頁をめくる。

 その表情が次第に険しくなった。


「……これは」


「西尾へ向かう荷が増えている」


 弥右衛門の声音は淡々としていた。


「商人は信心では道を選ばん。銭で道を選ぶ。関銭が安い。道が良い。荷を盗られぬ。売る相手が多い。ならば、そちらへ流れる」


 空誓が静かに返した。


「随分と商いには詳しいようだな、木下殿」


「ああ」


「だが、一つお忘れではないか」


 空誓は初めて僅かに身を乗り出した。


「門徒が本證寺へ参るのは、市があるからではない」


 老僧たちが空誓を見る。


「阿弥陀仏を頼み、法を聞くために来るのだ。西尾にいかほど銭を集めようとも、信仰まで銭で奪えると思われては困る」


 小一郎がわずかに息を呑んだ。

 だが弥右衛門は、むしろ楽しそうに笑った。


「その通りだ」


「……何?」


「俺は信仰を奪いに来たのではない」


 弥右衛門は帳面を指で叩いた。


「信仰の隣に、商いを置きに来た」


 空誓の目が細くなる。


「今はまだよい。門徒は来る。寺も立つ。寺領もある。だが、商人の道は少しずつ変わり始めている」


 弥右衛門は対面所の外を指した。


「今は十の荷のうち一つが西尾へ流れるだけかもしれん。だが一年後は二つになる。三年後はどうだ。五年後は?」


「……」


「守るだけでは、置いてゆかれるぞ」


 老僧の一人が苛立たしげに口を挟んだ。


「脅すつもりか!」


「違う」


 弥右衛門は首を振った。そして、僅かに笑う。


「脅すなら兵を連れてくる。俺は儲け話を持ってきた」


 空誓の眉がわずかに動いた。


「……聞こう」


 弥右衛門はそこで初めて膝を進めた。


「西尾から本證寺までの道を繋ぐ」


「道?」


「木下領内のように新しく大路を一本作るなどという話ではない。今ある道を直す。橋を架け直し、渡しを整え、荷車と馬が通れるようにする」


 弥右衛門は指を一本立てた。


「木下領から本證寺へ入る荷には、こちら側で関銭を取らん。本證寺も少なくとも最初の一年、市へ入る商人から取る銭を減らせ」


 老僧が目を剥く。


「馬鹿な。一年も取らぬというのか」


「一年目に商人を集めるための餌だ。取りたいのであれば、二年目から取ればよい。人が集まれば市が立つ。市が立てば宿ができる。馬借も職人も寄ってくる」


「……」


「西尾で荷を下ろした商人が、本證寺へも来る。本證寺へ参った門徒が、西尾へも行く」


 弥右衛門は空誓をまっすぐ見据えた。


「岡崎に敵対しろとは言わん。ただ、こちらと道を繋げばよい」


 しばし、沈黙が続いた。やがて空誓が口を開いた。


「それだけではあるまい」


 弥右衛門の口元が上がった。


「やはり分かるか」


「当主自ら寺まで出向き、ただ商人を送り込むためだけにこれほどの話をするとは思えぬ」


「ならば話が早い」


 弥右衛門は声音を落とした。


「俺は木下家へ臣従せよとは言わん。門徒を木下家の家臣にせよとも言わん。だが、今川と戦となった折には、こちらへ力を貸してほしい」


 堂内の空気が変わった。

 老僧たちの顔に警戒が戻る。


「……門徒を兵にせよと言うか!」


「必要ならば、な」


 弥右衛門は目を逸らさなかった。


「だが木下家のために死ねとは言わん」


「同じことであろう!」


「違う」


 弥右衛門の声が低くなる。


「今川が三河へ戻ってきた時、本證寺が今のままでいられる保証がどこにある」


「……」


「松平が勝っても同じだ。いや、松平が三河をまとめれば、なお危うい」


 今度は空誓がわずかに表情を変えた。


「何故だ」


「三河を一つに束ねようとする者が、己の下知の届かぬ寺領を、いつまでもそのままにしておくと思うか?」


 誰も言葉を発しなかった。

 空誓が静かに問い返す。


「ならば、木下殿ならば違うと?」


「ああ、俺はそなたらの寺を治める気がない」


「なぜだ」


「面倒だからだ」


 一瞬、小一郎が目を瞬いた。

 空誓も呆気に取られる。


「坊主が仏をどう拝もうが、門徒が誰の説法を聞こうが、俺の知ったことではない」


 弥右衛門は笑った。


「ただし、商いは共にやる。道も繋ぐ。敵が来れば助け合う。俺が欲しいのは、それだけだ」


 空誓は長いこと弥右衛門を見つめていた。

 若い顔から、先ほどまでの刺々しさが少しずつ消えていく。


「木下殿、貴殿は……妙な男だな」


「よく言われる」


 空誓はしばし目を伏せた。木下と道を繋げば、荷が入り、市が栄え、寺領の収入も増える。それは門徒の暮らしを潤し、本山への上納にも繋がる。


 そして、住持となったばかりの自分が、この寺をどこへ導くのか。木下家と道を繋ぐことに、今のところ失うものは少ない。


 むしろ得るものの方が遥かに多い。

 だが、それだけではない。


 この男と結んでおけば、来たる争いの中で本證寺自身が生き残れる。


 空誓は顔を上げた。


「一つ、条件がある」


「言ってみろ」


「我らの不入を侵さぬこと。寺領へ勝手に兵を入れぬこと。門徒へ改宗を迫らぬこと」


「誓おう」


「口約束では困る」


「誓紙を書こう」


 老僧たちがざわめいた。

 弥右衛門は続けた。


「その代わり、本證寺も約せ。木下と本證寺が結んだ道を、他家の都合で勝手に閉ざさぬこと。そして今川との戦になった折には、出来る限りの力を貸すこと」


 空誓は考えた。

 そして、ゆっくりと頷いた。


「……相分かった」


 対面所が静まり返る。


「木下殿の申し出、受け入れよう」


 老僧の一人が空誓を見る。

 だが若い住持は迷わなかった。


「本證寺は木下家へ臣従せぬ。松平に背いたと表立って唱えることもせぬ。されど、商いにおいて木下家と道を繋ぎ、今川との戦となった折には、兵糧、運び手、情報――そして必要とあらば、三河の門徒にも我が本證寺から声を掛けよう」


 弥右衛門の目が細くなる。


「よい返事だ」


「ただし、門徒は貴殿の兵ではない」


「分かっている」


 弥右衛門は笑った。


「だから、そなたに頼んでいる」


 その言葉に、空誓も僅かに笑みを返した。

 弥右衛門は背後の小一郎へ目配せした。

 小一郎が前へ出し、用意していた木箱を置く。


 蓋を開けると、束ねた銭がぎっしりと詰め込まれ、その上に金子が数枚置かれていた。


 老僧たちが息を呑む。


「これは……」


「お布施だ。これから世話になるのでな。先に渡しておく」


 弥右衛門は事もなげに言った。

 空誓が怪訝な顔をする。


「まだ何も始まっておらぬぞ」


「だから渡す。使い道は任せる。ただし――木下から出た銭だと、わざわざ石山へ触れ回る必要もあるまい」


 空誓の眉が動いた。


「本山へ偽りを申せと?」


「まさか。聞かれれば答えればよい。ただ、聞かれてもおらぬことまで、こちらから大声で知らせる必要はなかろう」


「……食えぬ男だ」


「よく言われる」


 弥右衛門は笑って立ち上がると、小一郎と共に一礼した。


「では、これよりよしなにな。空誓殿」


「こちらこそ、木下殿」


 二人が廊下へ出る。

 しばらく歩いたところで、小一郎が声を潜めた。


「父上、恐れ入りました。初めはあれほど我らを警戒していた空誓殿が、最後には自ら道を繋ぐと申した」


「若いからな」


「は?」


 小一郎が父を見る。


「若くしてあれほどの寺を任された。しかも他所から来て日も浅い」


 弥右衛門は前を向いたまま歩き続ける。


「失敗は許されん。あの男が本当に欲しいのは、銭そのものではない。

 ――実績だ。己が本證寺へ来たことで、市が栄えた。寺が富んだ。門徒が増えた。本山にも認められた。そういう目に見える土産が欲しい」


「なるほど……」


「人を動かしたければな、小一郎」


 弥右衛門は足を止めなかった。


「人を動かしたければな、小一郎。その者が戻った先で胸を張れる土産を持たせてやればよい」


 小一郎は感心したように頷いた。

 だが、少し歩いてから、ふと表情を曇らせる。


「父上、もし松平様が、いつの日か本證寺の不入を認めぬと申されましたら……どうなりましょう」


 弥右衛門の足が一瞬だけ止まった。

 振り返り、本證寺の甍を見る。

 風に乗って、どこからか鐘の音が聞こえてきた。


「……三河が割れるだろうな」


 それだけ言うと、弥右衛門は再び歩き始めた。


 小一郎はしばらく本證寺を振り返っていたが、やがて父の背を追った。




ご拝読いただきありがとうございます。


三河奪還編が始まりました。

続きが気になる方、本作を気に入ってくれた方はブックマークをしてお待ちください。

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〈あらすじ〉

永禄四年、座株楽座で西尾領を劇的に発展させる木下弥右衛門の前に、松平元康(のちの徳川家康)が立ちはだかる。家康は織田の富を盗み三河を再興するため、経済格差を埋める「部品」として弥右衛門の才を欲し、娘・旭を側室という名の人質に要求する。論理で圧倒しながらも暴力的な理不尽に屈した弥右衛門は、いつか家康の「家」を奪い尽くすと激しい復讐を誓い、歪な「岡崎同盟」が成立する。


その代償として犬山城は陥落し美濃の藤吉郎は救われるが、木下家には亀裂が走る。だが、旭は家族を守るため笑顔で嫁ぐ覚悟を示し、その強さに胸を突かれた姉・智もまた、西尾で家を支え抜く決意を固める。


一方、松平への怒りを燃やす目付奉行・勘十郎は、家康の配下である服部党に対抗すべく、甲賀の名門を捨てて抜け忍となった三雲新左衛門尉ら五十余名を極秘裏に受け入れる。新たな姓を望む彼らに、弥右衛門が「さる……とんび……」と呟いたのを「猿飛」と聞き違えたことで、のちに戦国の世を震え上がらせる最凶の影が誕生。表では手を取り合う同盟の裏で、伊賀対甲賀の凄絶な代理戦争の幕が上がる。

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