#38 本證寺
お久しぶりです。繁忙期を超えて投稿を再開します。
新章の三河奪還編は月に2回ぐらいの投稿スピードの予定です。
期間が空いたので、前書きに簡単なあらすじをどうぞ↓
〈あらすじ〉
永禄四年、座株楽座で西尾領を劇的に発展させる木下弥右衛門の前に、松平元康(のちの徳川家康)が立ちはだかる。家康は織田の富を盗み三河を再興するため、経済格差を埋める「部品」として弥右衛門の才を欲し、娘・旭を側室という名の人質に要求する。論理で圧倒しながらも暴力的な理不尽に屈した弥右衛門は、いつか家康の「家」を奪い尽くすと激しい復讐を誓い、歪な「岡崎同盟」が成立する。
その代償として犬山城は陥落し美濃の藤吉郎は救われるが、木下家には亀裂が走る。だが、旭は家族を守るため笑顔で嫁ぐ覚悟を示し、その強さに胸を突かれた姉・智もまた、西尾で家を支え抜く決意を固める。
一方、松平への怒りを燃やす目付奉行・勘十郎は、家康の配下である服部党に対抗すべく、甲賀の名門を捨てて抜け忍となった三雲新左衛門尉ら五十余名を極秘裏に受け入れる。新たな姓を望む彼らに、弥右衛門が「さる……とんび……」と呟いたのを「猿飛」と聞き違えたことで、のちに戦国の世を震え上がらせる最凶の影が誕生。表では手を取り合う同盟の裏で、伊賀対甲賀の凄絶な代理戦争の幕が上がる。
◼︎永禄五年二月 三河国 猿飛の隠れ里
「猿飛、か。悪くない響きだ」
三雲新左衛門尉――いや、今日よりは猿飛新左衛門尉となった男は、薄暗い堂の中で自身の掌を見つめ、不敵に笑った。
傍らには、木下家の目付奉行である勘十郎が、腕を組んだまま厳しい視線を投げかけている。里の完成から数日、五十余名の抜け忍たちは、すでに影としての呼吸を合わせ始めていた。
「新左衛門尉、名への感銘はそれまでにせよ。殿から姓を賜ったからには、直ちに相応の働きを見せねばならん。木下家は成果を出さぬ者に銭は払わぬ組織だ」
勘十郎の冷徹な言葉に、新左衛門尉は肩をすくめた。
「心得ておりますよ、勘十郎殿。では、新生・遁尾衆、ひいては我ら猿飛が手土産とするに相応しい、特大の軍略を提案いたしましょう」
「ほう……」
勘十郎の眉が微かに動く。新左衛門尉は懐から一枚の古びた絵図を取り出し、床に広げた。そこには三河国の中央部、岡崎と西尾の間に位置する巨大な寺院の名が記されていた。
「本證寺……一向宗か」
「いかにも。三河一向宗の本山の一つにございます。勘十郎殿、この三河という土地を完全に掌握し、来たるべき今川との大戦を優位に進めるためには、武力や経済だけでは足りませぬ。この『土着の信仰』という怪物を味方に引き入れる必要がございます」
「宗教を巻き込むというのか。それは諸刃の剣だぞ。奴らは守護不入の権を盾に、大名の命に従わぬ性質を持つ」
勘十郎の懸念はもっともだった。戦国大名にとって、一向宗徒は領国内の治外法権を握る目の上のたんこぶである。しかし、新左衛門尉の瞳には確かな計算の光があった。
「六角家の頃も、我ら甲賀衆は近江の門徒たちと深く繋がっておりました。彼らの繋がりは、武士のそれとは全く異なる根の深さを持っています。名もなき農民、街道の馬借、町衆……彼ら全てが仏の名の下に繋がり、情報を回し、時には一時に数千数万の兵と化す。門徒を通じて敵状を掴み、あるいは噂を流して敵領内を扇動する。これ以上の『目』と『耳』はございませぬ」
新左衛門尉は絵図の「本證寺」の文字を指で叩いた。
「松平は代替わり後、未だ領国内の門徒の扱いを明確にしていぬ様子。一向宗の利権をよく思わぬが、今の安定せぬ三河では意思を持って関与していないと類推します。ならば、松平が手を付ける前に、我が木下家がこの巨大な情報網と頭数を囲い込むべきにございます」
勘十郎はしばらく沈黙し、新左衛門尉の提案を頭の中で吟味した。
「……面白い。すぐに殿へ言上する」
話を聞いた弥右衛門の決断は早かった。
「新左衛門尉、その策、採用する。直ちに動け」
弥右衛門の命により、新生・遁尾衆は二手に分かれることとなった。新左衛門尉の率いる数名は、本證寺との水面下の繋ぎを作るべく奔走し、そして残りの手勢は、東三河の吉田城周辺を含めた今川方の敵状視察へと散っていった。
◼︎永禄五年二月 三河国 本證寺
本證寺の対面所は、重苦しい静寂に包まれていた。
上座に座すのは、本證寺の住持である空誓。昨年住持を継いだばかりの未だ若さの残る顔立ちながら、数万の門徒を従える最高権力者としての尊大さをその身にまとっている。その左右には、険しい表情の老僧たちが控えていた。
下座には、木下家当主・木下弥右衛門吉成が、息子の小一郎を引き連れて静かに着座している。新左衛門尉が事前に通した筋により、この極秘の会談が設けられたのだ。
空誓は、値踏みするような冷ややかな視線を弥右衛門に投げかけた。
「木下殿とおっしゃいましたな。数年前まで農民なれど、今は松平殿の同盟者として西尾の地を治めておられるとか。その新興の戦国大名が、我が寺に一体どのようなご用件かな。」
弥右衛門は表情を変えず、ただ静かに相手の出方を見据えている。空誓の脇に控える老僧が、これ見よがしに咳払いをし、尊大な口調で言った。
「我が本證寺は、古くより『守護不入』の特権を認められた聖域。いかに勢いのある木下家とはいえ、寺領内に兵を踏み込ませることは許されぬ。また……」
老僧はねっとりとした笑みを浮かべ、人差し指で床を叩いた。
「風の噂では、西尾の一色湊は大層な賑わいを見せ、木下家には莫大な富が転がり込んでいるとか。仏法を尊び、この三河での安寧を願うのであれば、それ相応の多額の『布施』を納められるのが筋というもの。それがしも、木下殿の誠意というものを見てみたいものでな」
品定め。そして明らかな揺さぶりであった。武力を見せつけつつ、経済的な実利を貪ろうとする、宗教特権階級の典型的な交渉術だ。弥右衛門の財力に目をつけ、美味い汁を吸おうという魂胆が透けて見えている。
誰もが弥右衛門の返答を待つ中、沈黙を破ったのは、低く、しかし堂々とした笑い声だった。
「はは……ははははは!」
弥右衛門は天を仰ぎ、声を放って大きく笑った。対面所の空気が凍りつく。老僧たちの顔が怒りに歪み、空誓の眉が不快そうに跳ね上がった。
「何がおかしい、木下殿! 仏前であるぞ!」
老僧の怒号を、弥右衛門は鋭い眼光一発でねじ伏せた。笑いを収めた弥右衛門の顔には、冷徹なまでの「現実」を突きつける凄みが宿っていた。
「いや、失礼した。あまりに滑稽であったものでな。……空誓殿、貴殿らは自らの足元が燃え盛っていることにも気づかず、他人の財布の心配をしているようだ。とても死に体の寺とは思えぬ余裕ぶりに、思わず笑うてしまったわ」
「な、何だと……!?」
空誓の目が初めて見開かれた。落城直近。その不穏な言葉に、堂内の僧兵たちが色めき立つ。
「無礼な! 我ら本證寺が落城するなどと、どこの不届き者の妄言か!」
「妄言かどうか、貴殿らの『懐』に聞いてみるが良い」
弥右衛門は懐から、一冊の帳面を取り出し、床に滑らせた。それは茶屋四郎次郎を通じて集計された、三河国内の物資の流通量と、各寺社が徴収している関銭の推移を記録したものであった。武士には読めぬであろう数字の羅列だが、寺の算盤を持てる者なら一目で理解できる致命的なデータだ。
「ここ半年、本證寺に集まる門徒の数、そして周辺の市場からの寺銭の収入が、三割以上落ち込んでいるはずだ。違うか?」
弥右衛門の指摘に、老僧の一人が息を呑んだ。図星だった。
「それは……昨今の今川と松平の戦による乱れで……」
「違うな」
弥右衛門は冷酷に否定した。
「原因は戦ではない。我が木下家が西尾・一色湊で行っている『大改革』だ。我らは一色湊周辺の街道を整備し、商人が最も安く、最も安全に商いができる環境を作った。結果としてどうなったか? 三河中の人と金、物資の流れが、岡崎からも、そしてこの本證寺周辺の古い市場からも、津波のように西尾へ吸い上げられているのだよ」
空誓の顔から血の気が引いていく。
弥右衛門の言葉は、彼らが薄々感じていた恐怖の正体を完璧に言語化していた。本證寺は武力で攻められているわけではない。自分たちが気づかぬうちに、目に見えぬ「経済の鎖」によって兵糧攻めに遭い、内側から干からびさせられていたのだ。
弥右衛門にとっても、最初から本證寺を狙い撃ちにしたわけではなかった。ただ西尾を岡崎に勝る経済圏にしようとした結果、地理的に岡崎と西尾の間に位置する本證寺が、その強力な引力に巻き込まれたに過ぎない。まさに棚からぼたもちであった。
「貴殿らが誇る『守護不入』の特権など、誰も人が来ぬ荒れ地になればただの紙切れだ。金が回らねば、数万の門徒を養うことも、本山である石山本願寺への上納金も滞る。……さて、どちらが落城直近かな?」
対面所は通夜のように静まり返った。空誓は固く拳を握りしめ、喉を鳴らした。
「……木下殿。我らを脅しに来たわけではあるまい。破滅を告げるためだけに、わざわざ当主が足を運ぶはずがない」
「さすがは本證寺の住持、話が早い」
弥右衛門はわずかに表情を緩め、本題を切り出した。
「条件は二つ。松平ではなく、我が木下家につけ。そして、来たるべき今川との大戦において、我らの求めに応じて門徒を動員しろ」
「な……!」
老僧の一人が立ち上がろうとした。
「無茶な! 我らは松平の領国に属しており、民も信者も松平の家臣や領民と深く重なっているのだ! 今更、松平殿の裏をかいて木下家に鞍替えするなど、簡単にできるはずがなかろう! 領内が割れるわ!」
「誰も『表立って反旗を翻せ』などと言ってはいない」
弥右衛門は遮った。
「私が求めているのは、臣従ではない。実利による結びつきだ。私の要求はただ一つ。西尾城下と、この本證寺の間を結ぶ、新たな大街道の敷設を認め、その物流網を完全に繋ぐことだ」
――大街道の敷設。
その真意を測りかね、空誓が問いかける。
「……道を繋ぐ? それだけで良いと?」
「そうだ。実際の支配権が松平のままであろうと、我らは一向に構わん。だがな、西尾と本證寺が太い物流網で直結すれば、西尾の圧倒的な富と物資が、この寺の境内へ直接流れ込むことになる。商人は西尾の帰りに必ず本證寺の市場に立ち寄るようになり、貴殿らの経済圏は、岡崎から完全に離脱して西尾のそれに組み込まれる。……つまり、気づかれぬように『経済的に鞍替え』すれば良いのだ」
これならば、松平元康にも、本山である石山本願寺に対しても、「ただの商路の拡大である」と言い訳ができる。誰の面回しも汚さない。その上で、下降一途をたどっていた寺の収入は、従来を遥かに上回る規模で回復し、過去最高益すら見込めるのだ。
空誓の頭の中で、冷徹な損益計算が行われていた。
代替わりしたばかりの松平元康には、寺の特権を認めさせつつも、どこか侮りや不満があった。しかし、目の前にいる木下弥右衛門は格が違う。
もしこの男の傘下に入れば、本山である石山本願寺への上納金は山のごとく積み上がる。それは即ち、我が本證寺の寺格が全国の真宗寺院の中で抜きん出ることを意味する。そして何より、就任直後に失墜した己の評価を回復し、顕如上人の後継者候補として名を連ねることも、夢ではない。
断る理由が、どこにもなかった。
空誓は深く息を吐き、弥右衛門の目を真っ直ぐに見据えた。
「……相分かった。木下殿の提案、受け入れよう。以後、今川、そして松平よりも、内々に貴殿らを最優先といたす。街道の普請も全面的に協力しよう。……そして、約束通り、戦の折には、物資調達から門徒の動員まで、我が寺の総力を挙げて陰ながら木下家を支えることを誓おう。」
弥右衛門は満足そうに微笑むと、背後に控える小一郎に目配せをした。
「よろしい。ならば、これは新たな関係の締結を祝う、我が木下家からの『先行投資』だ」
小一郎がずっしりと重い木箱を差し出し、蓋を開けた。中には黄金と、それ以上に膨大な銭が詰まっている。堂内の僧たちが、その圧倒的な富の輝きに息を呑んだ。
「これは……」
「当面の間の御布施だ。以後、よしなに頼むぞ、空誓殿」
弥右衛門が立ち上がり、対面所を後にする。その背中を見送りながら、住持の空誓はただ呆然としていた。
松平元康と対面した際に感じた「若き傑物」という印象とは比べ物にならない。木下弥右衛門という男は、人間の欲という名の炎を、まるで自らの掌の上で操る化け物だ。
深淵を覗き込むような恐ろしさ。だが、同時に胸のすくような高揚感もあった。木下は富を得て、我が本證寺もまた莫大な経済的基盤を得る。誰の面子も潰さず、誰もが勝者となる。
廊下を歩きながら、小一郎が小声で弥右衛門に尋ねた。
「父上……見事な交渉にございました。されど、あのような傲慢な坊主どもを、よくぞここまで手玉に取られましたな」
弥右衛門は前を向いたまま、微かに口角を上げた。
「簡単なことさ、小一郎。人間の行動原理など、どんな場所でも変わらん。交渉の鉄則はな、相手の利益――つまり、そいつが身内の組織の中で最も出世し、評価が上がるための土産を持たせてやることだ。空誓という男の出世欲と保身の割合を見極めれば、本證寺という巨大な組織を動かすなど、造作もないことよ」
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