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オヤジ太閤記  作者: 芭音
永禄五年(1562)

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#37 とんびざる

◼︎永禄五年二月 三河国 山奥


 凍てついた冬枯れの草をかき分け、勘十郎の背を追う。

 不意に視界が開けると、幾重もの起伏に隠されるようにして、小規模な集落が姿を現した。


「殿、お待たせいたしました。極秘に進めておりました甲賀衆の隠れ里、ここに完成いたしました。」


「大義だ。……周囲、特に松平に感づかれてはいないか?」


 弥右衛門の問いに、勘十郎は微かに口角を上げた。


「現在、木下領はあちらこちらで普請を行っています。家屋十数軒分余計に材木が運ばれたところで、誰も怪しみませぬ。建設には手の内の遁尾衆を使い、要所には雇い入れた甲賀の匠を充てました。」


「甲賀の隠れ里を、甲賀衆自身に造らせたか。隠匿するためにはこれ以上ない策だな。」


 弥右衛門は、質素だが堅牢な造りの家々を見渡した。ここは単なる村ではない。木下家の「目」となり「牙」となる、影の司令部だ。木下にとって重要な場所になる。


「……して、一つ相談が。里の完成を伝えたところ、甲賀の三雲新左衛門尉賢持から『複数人、今すぐに移住したい』との打診が参っております」


 早いな………。

 場所は用意して誠意を示し、気長に織田と六角の対立を待ってから甲賀衆から打診があると予想していた。


「六角の家中は、それほどに不安定か。」


「表向きは静かですが、家督が息子の六角右衛門督義治に譲られて以来、内情は不穏の一途。三雲としては、万一の際に甲賀の血と技を木下に残し、保険をかけたいのでしょう。」


「……受けるべき、だな?」


 弥右衛門が問いかけると、勘十郎の瞳に、あの日以来消えることのない暗い火が灯った。


「……受けるべきかと。旭様の一件、私は松平を許せませぬ。ですが、あちらには服部半蔵率いる服部党がおります。今川の骨抜きになった透破相手ならともかく、今の遁尾衆だけでは、松平の影に抗うにはあまりに力不足にございます。」


 弥右衛門は静かに頷いた。

 旭が岡崎へ発って以降、勘十郎は自責の念に駆られるように遁尾衆の強化に没頭している。情報を制する者が勝敗を制する――その冷徹な真実を、彼は敬愛する主君の娘の自由という、最も高く、最も残酷な授業料で学んだのだ。


 伊賀者を中心とした服部党に、甲賀衆を招き入れる遁尾衆。悪くない。表では手を取り合う同盟者だが、その裏では伊賀と甲賀の凄絶な代理戦争が始まろうとしている。


「分かった。受け入れるとの回答を甲賀へ。……場所を貸すだけではない。彼らの技と血を、木下という組織の深奥へ注ぎ込め。」


「はっ……。畏まりました。これよりは、松平が吐く吐息一つ逃さぬ網を張り巡らせます。」



 

◼︎永禄五年二月 三河国 西尾城


 隠れ里への往復。久方ぶりに険しい山道を歩いた疲れからか、弥右衛門は城の曲輪にある屋敷に戻るなり、灯りも消さずに一人深い眠りに落ちていた。


 だがその眠りは、静寂を鋭く引き裂く微かな異音によって妨げられた。

 ――襖の溝が、僅かに擦れる音。


「……何者だ。」


 弥右衛門が跳ね起きるのと同時。気付かれると思っていなかったのか、侵入者は僅かに体を震わせたが、即座に諦めたように襖を音を立てて開いた。

 

 月光に照らされ、そこに立っていたのは、不敵な笑みを浮かべた男だった。


「お久しぶりです。新左衛門尉にございます。上ノ郷以来ですな。」


 三雲新左衛門尉賢持。

 昨夜、山奥の隠れ里への移住を認めたばかりの男が、なぜ今、鉄壁の警護を誇るはずの西尾城内に立っている。


「さすが耳の良さだな。数刻前に許可を出したばかりだというのに、もう西尾にいるのか。」


「ふふっ、待ちきれずに西尾で潜んでおりました。私には、もはや帰るべき場所はありませぬ故。」


「帰る場所がない? 甲賀を束ねる名門、三雲の名があれば、安住の地などいくらでもあろう」


 弥右衛門の問いに、新左衛門尉は居住まいを正した。その瞳には、先ほどまでの不敵さは消え、抜き身の刀のような鋭い覚悟が宿っていた。


「いえ。ここへ参るにあたり、今の私はただの新左衛門尉にございます。甲賀の三雲という『家』は捨てて参りました。」


「……抜け忍になった、というのか」


「そうです。表向きは。……隠し立てはいたしませぬ。これから命をお預けする主人には、すべてをさらけ出すのが甲賀の流儀でございますれば。」


「そなたは嫡男ではなかったか。それで良いのか。」


「優秀な弟がおりますれば、甲賀の三雲は彼に託して参りました。父も同意の上。私はこれより、木下の……三河の『影』として生きる所存」


 弥右衛門は、男の顔に刻まれた決意を凝視した。

 六角は衰退するかもしれない。その場合、甲賀には未来はない。そう悟った彼の父――三雲対馬守定持が、一族の血と技を絶やさぬために、優秀な嫡男を「死人」として新興の木下へ放り込んだのだ。


「……それが、三雲の生存戦略ということか。」


「はい。私も弟も、別々の土に根を張り、甲賀の種を残します。その覚悟で、ここへ参りました。」


 新左衛門尉が合図とともに襖を開け放つと、そこには気配を殺して控えていた五十名ほどの透破たちが、一斉に姿を現した。背後には、彼らの手綱を握る目付奉行・勘十郎が、厳しい表情で控えている。

 

「……ということです。ただの新左衛門尉と、名もなき抜け忍五十余名。木下家で、我らをお使い頂きたい。」


「相分かった。勘十郎の下で、木下の影として励んでもらおう。……それで良いか、勘十郎」


「はっ。勿論にございます。伊賀の服部党に対抗するには、彼ら甲賀の力は不可欠。遁尾衆の核として鍛え上げます」


 勘十郎の瞳には、旭を奪われたあの日以来、決して消えることのない復讐の業火が灯っていた。新左衛門尉は居住まいを正し、五十の透破たちを代表して静かに、しかし断固として告げた。


「ありがとうございます。改めまして殿。我ら、木下家の存亡のために、この命、塵芥(ちりあくた)のごとく使い捨てていただいて構いませぬ」


「よろしく頼むぞ。まずは今川、そして松平だ。そなたたちの働きが、次なる戦の勝敗を分けると心得よ。」


「「「「はっ……」」」」


 五十の頭が一糸乱れぬ動作で地面を叩く。その重く低い振動が、弥右衛門の足の裏を通じて全身に伝わった。


「して、殿。我らに新たな『姓』をいただけませぬか? 過去を捨て、家を飛び出した我ら。戻るべき居場所なき我らに、新たな魂を吹き込んでいただきたい」


「姓、か……」


 弥右衛門は、不意に突きつけられた重責に思考を巡らせた。現代人の感覚で、他人の一生を縛る名を決めるのはあまりに重い。

 彼らがこれから所属するのは遁尾(とんび)衆。そして、木下といえば……。信長が息子・藤吉郎を呼ぶあの蔑称が、ふと脳裏を過った。

 

 ――「とんび」と「さる」。

 「とんびざる」……いや、語呂が悪い。ならば、逆はどうか。弥右衛門は、無意識のうちに思考を唇に乗せていた。


「さる…とんび……」


 その呻きに近い独り言に、新左衛門尉の瞳が鋭く見開かれた。


()()()()にございますか!?」


 弥右衛門が聞き間違いに気づく間もなく、勘十郎が熱に浮かされたように言葉を繋いだ。


「……素晴らしい。織田家で勇名を馳せる藤吉郎様の呼び名である『猿』を冠し、とんびから抜き出した『飛』の字で、天を駆け、風を裂く姿を想起させる。これほどまでに木下の影に相応しい名はございませぬな!」


 勘十郎の言葉に、新左衛門尉も感極まったように微笑んだ。


「今日より我らは、『猿飛』の姓を背負う。殿から頂いたこの名、泥を塗ることは万死に値するぞ!」


「「「ははっ!」」」

 

 五十人の透破たちが、再び地に額を擦り付ける。その動きは、もはや野良の抜け忍のそれではない。ひとつの意志、ひとつの「姓」に集約された、殺意を秘めた刃そのものであった。


 弥右衛門は、目の前で決意に満ちた表情を浮かべる猿飛新左衛門尉の姿を凝視した。

 ただの聞き間違いから生まれた名。だが、それがこの戦国の世を震え上がらせる最凶の影となることを、弥右衛門は未だ知らない。


 

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― 新着の感想 ―
こちらはコメディ回で楽しくよめました。 応仁の乱から度々幕府から追討を受けても跳ね返し、ついには管領代とも言われた六角も終わりが近づいたところでしょうか。 猿飛というと私は『さすがの猿飛』を思う浮か…
猿飛か…次は霧隠の姓を与えられて、後の世で「木下十忍」になるのか。
とんびさるのままだったら、某有名時代劇キャラみたく忍術(物理)寄りに?
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