#36 岡崎同盟
◼︎永禄五年一月 三河国 西尾城
永禄五年は、例年になく峻烈な寒波と共に訪れた。
木下領は、座株楽座がもたらした莫大な富によって、正月を祝う賑わいに満ちていた。だが、城の中枢を包む空気は、外の喧騒を撥ね退けるほどの静寂と緊張に支配されていた。
「……犬山が、落ちたか。」
昨年末、西尾天王屋敷での「密談」を経て、歴史の歯車は劇的な速さで回転し始めた。
弥右衛門は松平元康から得た情報を、すぐさま元康との連名で清洲の信長へ届けた。
――「犬山城主・織田十郎左衛門信清、一色および今川と内通」。
この一報は織田家に激震を走らせ、信長は迷わず電撃的な進軍を開始。北からは美濃で孤立していた藤吉郎たちが挟み込まんと動きを見せた。内通の証拠が城下にもばら撒かれ、敗北を悟った織田十郎左衛門信清は戦う事なく、甲斐へと落ち延びていった。
犬山城は陥落。
これで尾張北部の憂いは一掃され、最前線の藤吉郎は九死に一生を得た。
――藤吉郎を救った。
だが、その情報の「代償」は、今まさに西尾城の中で、音もなく家族を引き裂こうとしていた。
正月三日。
弥右衛門は、家族の前で「旭の縁談」を正式に公表した。
「松平の若き当主、蔵人佐殿より、旭を側室に迎えたいとの申し出があった。三河の安定を願う、これ以上ない良縁だ。」
弥右衛門は、鉄のような無表情の仮面を被り、震えようとする喉を強引に抑えつけて嘘を吐いた。
真実を知っているのは、弥右衛門と、あの夜に絶望を分かち合った妻・仲だけだ。仲は、弥右衛門の胸の中で声を上げて泣くことすら許されず、ただ静かに、その身を震わせ続けていた。
“……あの子は幸せにはなれぬというのですか。”
仲の掠れた問いに、弥右衛門は答える言葉を持たなかった。
そんな両親を前にして、旭だけは、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。
「松平様、お優しい方だと良いですね。」
それだけを言い残すと、旭は淡々と婚礼の準備に取り掛かった。
彼女が動くたびに響く、衣の擦れる乾いた音。それが、弥右衛門には己の罪を断罪する音に聞こえてならなかった。旭の細い背中を、彼はただ、直視することすらできずに見送った。
◼︎永禄五年一月 三河国 西尾城下 奉行屋敷 木下邸
一方、城下にある目付奉行・木下勘十郎成輔の屋敷では、もう一つの嵐が吹き荒れていた。
長女・智は、隣に座る夫の、不自然なほどに強張った横顔を逃さなかった。
「あなた様……、旭は不幸になるのですか?」
勘十郎は、山積みの報告書を前に筆を走らせていたが、妻の殺気にも似た問いかけに、ぴたりと手を止めた。
「智、何がだ。旭様の縁談は、三河の安寧を願う、これ以上ない良縁にございますよ」
父・弥右衛門と寸分違わぬ、血の通わぬ言葉。智はその瞬間、確信した。
「嘘をおっしゃい。私の婚姻が決まった時の、あの父上の、母上の喜びようを忘れたのですか? 旭のこの急な話……そして今の貴方の、死人のような目。何か隠し事があるのでしょう」
智は膝行して詰め寄り、勘十郎の両肩を、爪が食い込むほど力強く掴んだ。
逃げ場を失った勘十郎は、天を仰ぐように目を閉じ、絞り出すような声で語り始めた。
「……智。これは、木下家が生き残るための、苦渋の泥を啜るような決断だったのだ。殿は……弥右衛門様は、今、誰よりも苦しんでおられる」
「苦しんでいる? 自分の娘を売り物に代えて、それで『苦しんでいる』で済むわけがないでしょう! 旭はまだ十八なのよ! あんな、正体の知れぬ男のところに……!」
智の瞳から、堪えていた大粒の涙が零れ落ちた。
勘十郎は無言で、泣き崩れる妻をその胸に抱き寄せた。智は夫の胸を拳で幾度も叩きながら、呪詛のように繰り返した。
「……父上も、貴方も……皆、戦に心を売り渡した、ただのお侍様になってしまったんだわ……」
勘十郎はその言葉を、全身で受け止めるしかなかった。智の涙で濡れた直垂の胸元が、氷のように冷たく感じられた。
◼︎永禄五年一月 三河国 西尾城 本丸
背後から智の声がした。
弥右衛門は、雪が舞い散る更地となった本丸に一人佇んでいた。かつての主・吉良の屋敷が移転し、新たな木下の天守を築くための寒々とした空白地。そこを見つけ出されたのだ。
智は周囲の制止を撥ね除け、剥き出しの憤怒をぶつけた。
「父上! お答えください! 旭を、松平に売ったのですか!」
弥右衛門は、重い錆びた扉を開くようにゆっくりと振り返った。
その顔は、数日で十歳も老け込んだかのように深く刻まれ、瞳の奥には凍てついた虚無が沈殿していた。
「……智か。人聞きの悪いことを言うな。松平家との同盟は、この地の民を守るための礎だ。」
「民? 民のために家族を捨てるのですか! 私は、父上を軽蔑します! 貴方は、私たちが誇りに思っていた、あの中村の父上ではないわ!」
智の絶叫が、静まり返った雪原の城内に木霊する。
弥右衛門は否定も、肯定もしなかった。ただ、一歩ずつ、雪を踏みしめて智の方へと歩み寄り、感情の枯れ果てた声で告げた。
「……そうだ。私は、木下家当主・木下弥右衛門吉成だ。家族の平穏だけを守っていれば済む農民ではない。三河を餓えさせるわけにはいかぬのだ。旭も……いずれ分かってくれよう。」
「分かるはずないでしょう! あの子は何も知らされず、ただ微笑んで……」
「――いいえ、姉上。私は知っています」
凛とした、しかし温かみのある声が、二人の間に割って入った。
いつの間に現れたのか、薄紅色の小袖に雪を載せた旭が、そこに静かに立っていた。
「旭、お前……」
「お父様。隠さなくて良いのです。私が松平様へ行くことで、美濃の藤吉郎兄様が助かり、この西尾に住む方たちが笑顔で暮らせる。……そうなのでしょう?」
弥右衛門の息が止まった。
この子は、どこで。いつから。
「私は馬鹿じゃありません。お父様が夜中に一人で地図を広げ、爪が食い込むほど拳を握り、今にも泣き出しそうな顔をされていたのを……ずっと見ていました。小一郎兄さまや、四郎次郎様たちが、最近あんなに暗い顔をして帳簿を付けていたのも見ていました。」
旭は弥右衛門の前に進み出ると、その冷え切った震える手を、自身の温かな掌で優しく包み込んだ。
「お父様。私は、この家が大好きです。お母様が笑って、姉上が皆を想って、兄様たちが楽しそうに働く、この木下の家が。……この家が壊れるくらいなら、私は松平様の元へ喜んで行きます。」
「旭……」
智が絶句し、雪の上に膝をついた。旭の言葉は、悲劇の犠牲者のものではない。それは、家族を守ろうとする、一人の武士の出陣宣言であった。
「あの松平様というお方、きっとお父様が恐れるほど、凄いお方なのでしょう? ならば、私が側でしっかりと見張って、木下のために働いてもらいますから。……だから、そんな悲しい顔をしないでください。私は、お父様の娘なのですから。」
旭の微笑みは、雪原に咲く寒椿のように鮮やかで、そして残酷なまでに強かった。
弥右衛門は娘の細い肩に顔を埋め、獣のような声を殺して泣いた。更地に積もる雪を、三人の涙が静かに溶かしていった。
◼︎ 永禄五年一月 三河国 西尾城下 奉行屋敷 木下邸
旭の覚悟を知った智は、その日から憑き物が落ちたように静かになった。
だが、その瞳に宿る火は、以前よりも強く、鋭くなっていた。
「貴方様……起きておられますか」
深夜。智は、仕事机に向かう勘十郎の背中に声をかけた。
「ああ。……智、まだ起きていたのか」
「……私にも、手伝わせて。木下家を、父上を支えるための仕事を。」
勘十郎が振り返ると、智は真剣な表情で座り込んだ。
「旭は、命を懸けて松平へ行くわ。なら、私はこの西尾で、旭が守ろうとしているこの家を、誰よりも強く支えたいの。……私は、西尾に来てから算盤も読み書きも学びました。貴方様の仕事、私にもやらせてください」
妻の瞳の中に、弥右衛門譲りの「不屈の魂」を見た。
彼は小さく笑い、隣の席を空けた。
「……手厳しい上司になりそうだな。頼むぞ、智」
「ええ。父上の娘を、甘く見ないでくださいね」
智の細い指が、勘十郎の差し出した筆を掴む。
西尾の影を支える遁尾衆に、もう一つの強力な「目」が加わった。
◼︎永禄五年一月 三河国 岡崎城 奥御殿
吉日。岡崎城の一角、松平家の奥御殿にて、旭と松平蔵人佐元康の祝言が執り行われた。
広間には、木下家からは木下弥右衛門吉成、木下勘十郎成輔。松平家からは石川与七郎数正、酒井左衛門尉忠次らが列座し、重苦しいまでの緊張感が漂っていた。
三献の儀が終わり、旭が奥へと下がった後。
松平蔵人佐は、盃を置くと、弥右衛門に向かって満足げに、そして残酷なまでに親しげな笑みを浮かべた。
「……素晴らしい娘御だ。旭殿の聡明さ、実に気に入りました。木下殿、改めて感謝いたします」
弥右衛門は無言で、憎き男を見据えた。
「これで、我らは名実とも盤石なる同盟を結ぶことになった。……そうでしょう?」
松平蔵人佐は一歩身を乗り出し、弥右衛門の耳元で、甘い毒を含んだ声で囁いた。
「――なあ、義父上」
義父上。
その言葉は、弥右衛門の鼓膜を汚れた泥のように侵食した。弥右衛門は、一筋の殺意を酒と共に飲み込み、不敵に口角を上げた。
「……あぁ。せいぜい大事にしてやってくれ。……家康殿」
弥右衛門が、今川を追い出した何に名乗る名を先んじて呼ぶ。松平蔵人佐元康の瞳が、驚きと歓喜で細められた。
「ははっ、流石は義父上。話が早い。」
ここに、織田信長の三河支配の楔としての木下と、三河再興を誓う松平による、後に「岡崎同盟」の呼ばれる、歪で強固な軍事・経済同盟が成立した。
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