#35 家
◼︎永禄四年十二月 三河国 一色湊 天王屋敷
弥右衛門は、五臓六腑が真っ黒に焦げ付くような殺意を堪えていた。
この時代に迷い込んで以来、これほど純粋な殺意に近い怒りを感じたことはない。表情を殺し、指先の震えを抑えるだけで精一杯であった。
松平蔵人佐元康。
目の前の若き当主は、春風のような微笑を浮かべたまま、最前線で戦う息子・藤吉郎の命を天秤にかけ、娘・旭を差し出せと要求してきた。
「同盟の証」――その綺麗な言葉の裏側にあるのは、愛娘を人質として供出しろという非道な宣告に他ならない。
この体の本来の持ち主から受け継いだ想い――家族を何より大事としてきた弥右衛門にとって、それは断じて許しがたいことだった。
(この男だけは……絶対に、生かしておかぬ。)
今までは、主君・信長に指定された三河を競う好敵手に過ぎなかった。敵対心こそあれど、困難に立ち向かい、妻子を救おうとする優秀な若き傑物に対しては、ある種の敬意すら抱いていたのだ。だが、それは間違いだった。
こいつは、織田信長と同じだ。この乱世が産み落とした、人の心を持たぬ“ばけもの”。
平然と他者の愛を啜り、領土という果実を貪る、捕食者。
その牙が家族に向けられた以上、最早、敬意など塵一つ残っていない。
弥右衛門は、内側からせり上がるどす黒い殺意を、鉄のような理性で強引に押し殺した。今、感情を爆発させれば、美濃の息子も西尾の娘も失う。脳を氷点下まで冷やし、勝つための策を高速で編み上げる。
沈黙を、松平蔵人佐が先手で切り裂いた。
「三河は私にとって『家』なんだ。今川を追い出すにも、その後の繁栄を築くにも、貴殿の力が要る。その稀代の才を認め、欲しているからこそ、木下が織田に臣従している現状は、私には到底許し難いんだよ。」
「……松平殿。貴殿の語る『独立』と『繁栄』。それは、今は叶わぬ寝言だ。」
弥右衛門の声は、低く、地を這うような響きを帯びた。
「一色湊の繁栄は、織田領の津島から銭と荷を引きずり込んでいるからこそ成し得たもの。木下が織田殿に従い、国境という壁を排したからこそ得られた果実だ。もし貴殿が織田を拒み、この三河を閉ざすというならば……湊の富は一夜にして霧散するだろう。貴殿の望む独立とは、領民を等しく餓死させることと同義だと知れ。」
松平蔵人佐の眉がピクリと跳ね、微笑の仮面にわずかな亀裂が入る。弥右衛門は逃さない。事実という名の刃を、その急所に突き立てる。
「三河だけでは、何も産めぬ。濃尾平野の肥沃さも、常滑のような名産も、津島湊という要衝もない。貴殿が握りしめているのは、枯れ木だ。我慢して織田に従うのではない。織田の富を『盗む』ために、今は跪くしかないのだ。その道理も分からぬ男に、三河を背負う資格などない!」
場は、凍り付いたような静寂に包まれた。窓の外、弥右衛門が心血を注いで灯した湊の火を見つめる横顔に、先ほどまでの余裕はない。
だが、彼は寂しげに笑うことなどしなかった。
ふっと、さらに深く、暗い微笑を浮かべたのだ。
「……恐ろしい男だ、木下殿。君は、私が最も見たくなかった『現実』を、喉元に突きつけてくる。」
元康は床を鳴らして歩み寄り、弥右衛門の手を握りしめた。その掌は、驚くほど熱い。獲物を逃さぬ蛇のような執着が、肌を通じて伝わってくる。
「国を富ませる力。私にはそれがまだない。……ならば、やはり君という存在を、我が『家』に縛り付けねばならぬ。旭殿を娶るのは、そのためだ。君を繋ぎ止めるための『鎖』。それが彼女だ。」
弥右衛門は、その熱さに吐き気を覚えた。
この男は、経済の絶望的な格差を知ってもなお、折れなかった。むしろ、その格差を埋めるための「部品」として弥右衛門を利用するために、家族を略奪しようとしている。
「……旭を、連れて行くのだな。」
「あぁ。例え、君にどれほど恨まれようとも。それが私の『家』を生かす唯一の道ならば、私は喜んで鬼になろう。」
その瞳に宿る、暗い光。
弥右衛門は拳の中で、爪が肉に食い込み、血が滲むのを感じていた。
論理で圧倒しながら、暴力に等しい人質要求に屈する。この無力感。
「幸せにしてやってくれ」などという甘ったれた言葉は、死んでも吐かない。代わりに、喉の奥からせり上がったのは、呪詛に似た誓いだった。
「……いいだろう。だが、覚えておけ。いつか、私はこの手で、貴殿の大切な『家』を奪ってやる。今日、私がされた様にな。」
「手厳しいな。……だが、それこそが私の欲した力だ。」
満足げに手を放した松平蔵人佐は、泰然とした動作で席を立った。
「あぁ、そうそう。義父上として知っておいてくだされ」
去り際、ふと思い出したように足を止め、肩越しに微笑んだ。
「近いうちに、名を改めるつもりです。義元公の『元』は捨て、【家康】と名乗ろうと思っています。……三河という『家』を、何よりも重んじるために。」
家康。
その名を聞いた瞬間、弥右衛門の脳裏に、教科書の彼がフラッシュバックした。
だが、今の彼にとって、その名は「神」でも「偉人」でも「天下人」でもなかった。
(貴様が……徳川家康か。)
弥右衛門は、冬の夜風に吹かれながら、消えていく背中を射抜くような視線で見つめ続けた。
戦慄などしていない。あるのは、ただ、冷たさを湛えた怒りだけだ。
徳川家康。
のちに藤吉郎が築く豊臣の世を奪い、
徳川の泰平を築く男。
ならばちょうど良い。
家族を奪った代償を骨の髄まで支払わせる。
木下弥右衛門と徳川家康の「戦」は、今、この屈辱の夜から始まったのだ。
ご拝読いただきありがとうございます。
この回で二人は『同盟』を結びながらも、『対立』することになります。続きをお楽しみください。
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