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オヤジ太閤記  作者: 芭音
永禄四年(1561)

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#34 窮地

◼︎永禄四年十二月 三河国 一色湊 西尾天王社

 

「皆様、今年もありがとうございまする。それでは、此度の決議事項、牛頭天王の御前にて宣誓いたします。私に続き、本殿へご移動を。」


 座株楽座天王の座主である津島屋宗左衛門が深々と頭を下げた。第二回勘定寄合が閉幕した。


 昨年とは違い、今年は利益を株主に正当に配分する。波風の立たぬ、ただ座っているだけの平穏な寄合になるはずだった。だが、その期待は一瞬にして霧散し、場は刺すような緊張感に支配された。


 松平家が、やってきたのだ。

 当主・松平蔵人佐元康を筆頭に、石川与七郎数正、酒井左衛門尉忠次という松平の脳髄とも言える面々が、予告もなくこの地に現れたのである。


 勘定寄合の直前、肩で息を切りながら駆け込んできた勘十郎から報告を受けた際、弥右衛門は耳を疑った。急ぎ迎えに上がれば、松平蔵人佐元康は「座株楽座の仕組みに興味があってね。ぜひ寄合の末席に加えてほしい」と、無邪気な子供のような笑みを見せたのだ。


 寄合の存在も日取りも、外部には一切公開していない。

 (……やはり、この男は『耳』が良い)


 内々とはいえ同盟を結んでいる立場、無下には断れぬ。結局、弥右衛門は彼らの同席を許した。神前への宣誓の場である本殿への移動は辞退していただき、後ほど別の屋敷で正式に面会する運びとなった。


 本殿へ向かう商人たちの背を追いながら、弥右衛門は、背後に残る松平の三人の視線を痛いほどに感じていた。

 特に、松平蔵人佐の、あの吸い込まれるほどに澄んだ瞳。天文学的な数字の配分額と、湯気を立てる一色湊の爆発的な繁栄を目の当たりにし、あの若き怪物は何を思ったか。そして、この後の面会で、何を仕掛けてくるのだろうか。



 


◼︎永禄四年十二月 三河国 一色湊 天王屋敷


 いつもであれば、夜が更けても座株楽座の商人たちが銭を稼ぐために精を出し、喧騒が絶えることのないはずの巨大な屋敷が、今は不気味なほどに静まり返っていた。


 木下と松平の極秘面談は、西尾天王社に隣接する天王屋敷で行われることとなった。弥右衛門が急ぎ西尾から呼び寄せた前田又左衛門率いる兵に屋敷の周囲を固めさせると、そこは一切の出入りを許さぬ、文字通りの陸の孤島と化した。


 冷え渡る十二月の空気。行灯の火が時折パチパチと爆ぜる音だけが室内に響く。

 松平家当主・松平蔵人佐元康、そして石川与七郎数正、酒井左衛門尉忠次。

 迎え撃つは、木下家当主・木下弥右衛門吉成、目付奉行・木下勘十郎成輔、開発奉行・茶屋四郎次郎。


 沈黙を破ったのは、毒気を抜かれたような松平蔵人佐の穏やかな声だった。


「この茶、美味いですね。」


「ありがとうございます。領内の実相寺に作らせました。出来が良いゆえ、来年からは『西尾の茶』として領外へ大々的に売り出そうと考えております。」


 弥右衛門が微笑むと、蔵人佐は茶碗を見つめたまま、吸い込まれるような澄んだ瞳を向けた。


「それは良い。三河が富むのは良いことだね。

 ……勘定寄合も実に見事だった。商人たちを好き勝手に泳がせることが、結果として木下家に最大の実りをもたらす。座株楽座という、一見して領主が損を呑むような仕組みを貴殿がなぜ選んだのか、ようやく理解できたよ。」


 土地を縛り、税を絞り出す。それがこの時代の武士の常識だ。だが、目の前の若き怪物は、その支配をあえて手放すことで生まれる利点を、たった一度の会合で看破してみせた。


 石川与七郎も、未だ衝撃を隠せぬ様子で言葉を継ぐ。


「正直に申し上げれば、木下殿に配分された銭の額……あれには肝を潰しました。木下の小さな所領から、松平領全体の収益に匹敵する利権が生み出されているとは。……湊のあの熱気を見れば、算盤の弾き間違いでないことは明白なれど、あまりの桁違いに眩暈がいたしますな。」


 確かに、今年の成果は弥右衛門自身の想定すら遥かに超えていた。

 収支を記した『算用帳』には、木下領の本来の石高を数倍する実利が刻まれている。特に湊の関銭、そして店舗の賃貸料である棟貸銭の伸びは凄まじい。


 湊にひしめき合う商船の帆柱、軒を連ねて客を呼び込む店並み、そして絶え間なく上がる塩田の煙。窓の外に広がるその光景こそが、数字に命を吹き込む真実であった。


 酒井左衛門尉が、懐から取り出した控えの紙を震えた指でなぞりながら問いかけてきた。


「それだけに飽き足らず、来年は更に銭を稼ごうとしておりましたな。来年の活動を記した差配計画書、あれには驚きました。『増員と分業』、『建築業の強化』、『流通の強化』でしたな。これらすべてを、同時に進めるなど……。」


 勘定寄合で示された三つの施策は、松平の者たちには衝撃だっただろう。


 一つ目は「増員と分業」だ。

 肥大化する業務に対応すべく、組織を「湊・棟貸・塩田・建築・統括」の五つに分割し増員、それぞれの責任者に権限を委譲する。それによって、意思決定の速度を極限まで高めることだった。

 茶屋四郎次郎という天才は木下家に完全に引き抜き、我が息子の小一郎は来年からは木下家に呼び戻す。座株楽座天王が、一部の才覚に頼っていた組織から脱皮するには良い施策だ。


 二つ目は「建築業の強化」である。

 茶屋四郎次郎は、更地になっている西尾城の本丸に、三重の高櫓を築きたいと熱弁していた。単なる住居ではなく、建築技術の粋を集めた象徴を作ることで、湊や棟貸、塩田に比べると出遅れている「建築」の強化につながる。

 話を聞く限り、それは後に「天守」と呼ばれる代物になるだろう。弥右衛門自身、私生活を豪勢にする趣味はなかったが、事業拡大のための投資と言われれば断れなかった。依頼する銭を確保せねば。


 そして三つ目が、更なる「流通改革」だ。

 木下家で進めている陸運と水運の強化。そこに座株楽座天王も価値を認め、追随する。

 特筆すべきは一色湊と西尾城下の道を裂いている川を繋ぐ「大橋」の架橋と、湊中に張り巡らされる運河網である。

 現在は川を渡らねばならぬ不便が、橋一つで解消される。運河網が運送にかかる時間を秒単位で削り、物理的な距離を無効化する。時間を削ることは、すなわち金を産むことと同義だからだ。


 ふと我に返れば、座敷には奇妙な沈黙が降りていた。

 弥右衛門が差配計画書を反芻していたのと同様、松平の三人もまた、その壮大な構想がもたらす未来の三河の姿を、脳内で懸命に追いかけていたのだろう。


「三重の高櫓、岡崎にも欲しいね。時代が変わった象徴になる。君たちも実績は何個あっても良いだろう? 銭は用意しておこう。」


 松平蔵人佐が、悪戯っぽく、しかし真剣な目で茶屋四郎次郎に提案してきた。

 四郎次郎は、商機の到来に顔を輝かせていた。是非そうさせてもらおう。岡崎城といえば、弥右衛門が令和の世で見た岡崎公園の白と黒の天守のイメージが強い。せっかくだ、覚えている限りの意匠を設計図として四郎次郎に渡そうと弥右衛門は心に決めた。


「是非に。西尾のものよりもさらに雄大で、三河全土を睥睨するようなものを作らせましょう。我ら二人の城にそんなものが立てば、清洲の織田殿も黙っておらぬはず。そうなれば、我らの建築技術への依頼は引きも切らぬものになりましょう。」


 場にどっと笑い声が響いた。

 だが、弥右衛門は知っている。元康がわざわざここまで足を運んだのは、城を建てるためでも、茶を飲むためでもない。

 

 弥右衛門は茶碗を置き、居住まいを正した。


「さて、松平殿。場も温まったところで……此度はなぜ、わざわざこちらへ?」


 視線を伏せ、静かに茶碗を飲み干した松平蔵人佐は、先ほどまでの無邪気な光が完全に消え失せていた。そこに宿るのは、清洲の信長様にも似た、しかしより深く冷徹な「支配者」の意志であった。


「木下殿。我らで、正式に同盟を結びましょう。」


「……我らは既に、内々に同盟を。先の戦での連動、もはや周知の事実かと。」


 弥右衛門が探るように返すと、元康は薄く、凍てつくような笑みを浮かべた。


「内々ではなく、天下に広く示すのです。我らの絆は、他者が踏み込めぬほどに深いと。然るべき証として、貴殿の娘・旭殿を我が側室にいただきたい。さすれば、三河の結束が本物であると、誰もが理解するでしょう。」


 旭を嫁がせる。それは木下と松平が血の繋がりを持つことを意味する。だが、木下は内々に織田の臣。繋がりを強めすぎることは、主君への裏切りにも通じる劇薬だ。


「……狙いは何です。今のままでも、今川を三河から追い出す目的は果たせましょう。」


「いいえ。このままでは織田が今川に代わり、三河を呑み込むだけだ。三河が松平と木下に分かれている限り、我らは織田と対等に向き合うことはできませぬ。」


 松平蔵人佐は冷酷な顔をし、冷たい目線を弥右衛門に向けた。


「……木下殿。貴殿が織田殿の意志で動き、この三河を導いているのは百も承知です。」


 その瞬間、室内の空気が凝固した。石川与七郎も酒井左衛門尉も、主君の発言に息を呑み、ガタリと身を強張らせる。


「……であれば、なおさら。なぜ私を。」


「織田を裏切り、我らと共に『三河』のために働いてくだされ。貴殿は、私とは別の価値をこの地に齎す逸材だ。……潰すには、あまりに惜しい」

 

「我らに、何の利益があると仰るのか。織田を敵に回す以上の価値が。」


 弥右衛門の問いに、元康はさらに声を低く、密やかに沈めた。


「利益はありませぬ。……ただ、断れば、美濃にいる貴殿のご子息――藤吉郎殿が窮地に立たされまする。」


 心臓を冷たい氷の手で掴まれたような感覚が、弥右衛門を襲った。


「半蔵に探らせました。今川の密使・朝比奈備中守は、密かに美濃へ向かい、一色と手を組んだ。それだけではありませぬ。朝比奈は帰路、尾張・犬山の織田十郎左衛門信清殿をも抱き込んだ。……美濃の最前線で守りを固める羽柴藤吉郎殿。背後の犬山が敵に回れば、退路を断たれ、補給は途絶える。どのような末路を辿るか……貴殿ならば、お分かりでしょう?」


 脳内の地図が真っ赤に染まっていく。四方を敵に囲まれ、補給も退路も断たれた藤吉郎の姿が、鮮明に浮かび上がった。


「……同盟をせねば、この報せは織田に伝わらず、我が息子は見殺しにされる。そう仰るか。」


「その通り。この情報を得た時は、織田が勝手に瓦解すれば良いと握りつぶす予定でした。しかし、この湊を見て、気が変わった。……木下殿の生み出す『富』が手に入るならば、それに勝る利益はありませぬ。」


 弥右衛門は、自身が築いた富が、最愛の息子の命を秤にかける重りにされてしまったことを、戦慄と共に理解した。


「……さあ、木下殿。この場で、ご返答を。」


 


ご拝読いただきありがとうございます。


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