#32 もう一つの戦
◼︎永禄四年十一月 三河国 上ノ郷城
半年前、木下軍が戦火で焼き尽くした上ノ郷城。
かつての惨状を微塵も感じさせぬほど、難攻不落の威容を取り戻したその城は、今や木下領の最前線を守る牙城として蘇っていた。
「殿、よくぞ参られたな!」
城門をくぐると、上ノ郷城主を任せている前田又左衛門が、弾けるような声で出迎えてくれた。
今年の夏頃からだろうか。示し合わせたように、彼や河尻与四郎は「殿」と呼ぶようになった。以前のような「木下殿」「弥右衛門殿」という余所余所しさは消えた。そこには織田家からの預かり物ではない、木下家としての確かな自覚と絆が芽生えているのだろうか。
「来るのが久しぶりになってすまんな、又左。……上ノ郷は、完全に復旧したか?」
弥右衛門が真新しい白木の柵を見上げながら問うと、又左衛門は誇らしげに胸を張った。
「与四郎が熱心に手伝ってくれてな。今川と松平の国境がこれほどきな臭い今、一刻の猶予もないと大急ぎで直したさ。単に直しただけではないぞ。所々に与四郎流の改良を加えてある。……以前よりも数段、攻め落としにくい城になっているはずだ。」
又左衛門の視線の先には、冬の気配を帯びた三河湾が広がっていた。その向こう側、不気味な沈黙を保つ今川領・吉田城の威容が、寒風の中に微かに捉えられる。
「勘十郎から、今川について報告があった。朝比奈備中守が吉田城に入り、野田城を松平から奪い返して以来、妙に静まり返っていると。」
弥右衛門の言葉に、又左衛門は鼻を鳴らした。
「松平の人質も悉く斬り捨てたらしいな。ケッ……、あやつらがその喪に服している訳でもあるまい。何か準備してるのは間違いな。」
処刑という最悪の手段で後顧の憂いを断った今川は、迷いなく三河再侵攻へ舵を切る。後はそれがいつかという話だ。
「兵は、足りそうか?」
「……正直に言えば、全く足りん。敵はまた一万八千の軍勢で押し寄せてくるかもしれんのだ。揃えた常備兵は九百。木下領の規模を見れば異例なほど多いが、今川を追い払うにはあまりに心許ない。松平が全力を出しても四千……。合わせても三倍以上の敵を相手にすることになるのだぞ。」
又左衛門の切実な訴えに、弥右衛門は表情を変えず、淡々と応じた。
「分かった。追加で六百、傭い入れよう。これで一千五百だ。」
「正気か! そんな銭が蔵にあるのか? 与四郎から、領内で大規模な開発を始めたと聞いているが……。まさか、それを止めてこちらへ回すのか? それとも座株楽座から得る銭を?」
「開発は辞めぬ。兵奉行であるそなたには不満かもしれぬが、私は今、経済の力で松平と戦をしておるのだ。桶狭間以降のこの不安定な期間こそ、西尾が岡崎に勝つ最後の好機。今川を追い出し、世が安定してからでは遅い。今、投資を止めれば二度と追いつけぬ。座株楽座からの利益は、すべてあちらに回す」
表・武力面では手を取り合い今川に対するが、裏・経済戦争は松平との間で発生している。松平は戦が始まっていることに気づいているかな?気づいているだろうな。石川与七郎数正が、岡崎に籠り陣頭指揮をとっている。
「……では、どこからその六百人分の銭を捻り出すのだ。」
「借りる、津島屋にな。奴も我らと同じく、座株楽座から莫大な配分を受け取る立場だ。そこを一年間、利子付きで貸し付けてもらう。今川に敗れれば、これまで一色湊に投じた奴の投資もすべて無に帰す。……奴に、断るという選択肢はない。」
弥右衛門がニヤリと唇を吊り上げると、又左衛門は毒気に当てられたように顔を顰めた。
「えげつないな。ここまで付き合わされる津島屋に同情するぜ。」
「同情の必要はない。津島屋ほどの豪商が、三河の危険性を読めぬはずがないのだ。そこまで織り込み済みで、奴は木下に賭けた。……ならば、最後まで降りさせぬ。地獄の底まで、共にな。」
ふと、現代のカジノで、チップを積み上げ口を一文字に結ぶギャンブラーのような津島屋の顔を思い浮かべ、弥右衛門は心の中で笑いを堪えた。
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