#31 茶屋四郎次郎
◼︎永禄四年十月 三河国 西尾 実相寺
清洲から帰還して三ヶ月。
木下領は怖いほどに平穏な日々を過ごしていた。
善は急げと、七月には長女・智と勘十郎の祝言を執り行った。その際、勘十郎には『成輔』という諱を授けた。私の「吉成」から一字を分けた『成』、そして木下家を傍らで支えよという願いを込めた『輔』。
ここに、木下勘十郎成輔という、我が家にとって初の一門衆が誕生したのである。
八月には、信長様がようやく美濃から軍を引き上げた。墨俣の守備を佐々内蔵助や池田勝三郎らに預け、清洲に戻った藤吉郎もまた、以前から想いを寄せていたお寧と祝言を挙げた。その席で信長様から『秀吉』の諱を授かり、奴は晴れて「羽柴藤吉郎秀吉」を名乗ることとなった。
現代人の私にとって馴染み深いその響きを聞いた時、ようやく歴史の歯車が噛み合ったような、奇妙な安堵を覚えたのを昨日のことのように思い出す。
だが、領外へ目を向ければ、不穏な影が色濃く差していた。
七月、今川領の西端たる吉田城に、先の戦で脅威であった朝比奈備中守泰朝が入城。直後に松平方の野田城が陥落した。それだけではない。先の戦で取り返した妻子以外の、松平に組した者たちの人質が、吉田城門にて次々と処刑されたのだ。
勘十郎の報告によれば、松平領内にはかつてない動揺と、今川への猛烈な憎悪が広がっているという。案じて松平蔵人佐へ文を出したが、返ってきたのは「全く問題なし」という氷のように淡白な返事のみ。強がりにせよ、悲しみを押し殺しているにせよ、今の彼には言葉など無用なのだろう。
その後、息を吹き返すかと思っていた今川勢は、三ヶ月もの間、不気味なほどにおとなしくなっている。まるで何かを待っているようであった。
だが、今日は考え事ばかりしてはいられない。
この西尾の地において、精神的・文化的な支柱となる「実相寺」の再建が成る、記念すべき日なのだ。
西尾城から北西へ馬を走らせれば、ほどなくして威風堂々たる山門が見えてきた。門前では四人の男が、主の到着を待ちわびた様子で深く頭を下げる。
住職の宗円と円澄。そして、近江大工を率いて本堂の新設を指揮した茶屋四郎次郎と、普請奉行として旧吉良屋敷の移築を見事に完遂した河尻与四郎だ。
「木下殿。此度の実相寺再建、まことに……まことにありがとうございました。」
宗円の震える声に、弥右衛門は馬を下りながら軽く手を振った。
「よいよい。この再建は木下の家にとっても大きな利があるのだ。そう畏まるな。……私も、この日を心待ちにしていたのだ。」
与四郎の案内で山門をくぐると、そこには息を呑むような光景が広がっていた。
近江大工たちが持てる技のすべてを注ぎ込んだ、白木も眩しい「本堂」。その右側には渡り廊下で繋がった、政務や食を司る「庫裏」。左側には、静謐な空気を湛えた「禅堂」が配置されている。
庫裏と禅堂の随所には、吉良家の誇りであった「五七の桐」の紋が刻まれた古い部材が、大切に組み込まれていた。新旧の材が織りなすその調和こそ、弥右衛門が求めた「継承」の形であった。
伽藍の周囲には、四季の移ろいを感じさせる精緻な庭園。そして、浴室や東司、鐘楼、井戸に至るまで抜かりなく整えられ、そのすべてが城郭を思わせる堅牢な塀に囲まれている。
ふと視線を裏山に向ければ、柔らかな陽光を浴びて青々と広がる茶畑が見えた。
(これだ……。ここが、三河の富と心の源泉になる)
弥右衛門は、新築の木の香りと裏山から吹く茶の風を深く吸い込み、確かな達成感を噛み締めていた。
「素晴らしい。宗円と円澄は不満はないか?」
「滅相もございませぬ。この本堂は京でも滅多に拝めぬほどの威容。それに、各所に配された五七の紋は、吉良の菩提寺として生きてきた我らにとって、何よりの誉れ。感謝の言葉もございませぬ」
宗円が声を震わせる。弥右衛門は穏やかに頷いた。
「よいのだ。西尾の発展は、この寺の安定あってこそだ。これからは寺に住まう者や関係者を、遠慮なく呼び寄せるが良い。門前町も思うままに広げて構わん。今は城下との間に野原が広がっているが、いずれは両者を一体化、三河一の都にしたいと考えている」
「それはようございますな! そこに一色湊が加われば、岡崎……いや、堺にも劣らぬ栄えようになりましょうぞ!」
商機の匂いを敏感に察した四郎次郎が、興奮を隠せぬ様子で身を乗り出した。やはり、この男とは未来を共有できる。
「ああ。実相寺の役目は重いが、その分、領民に最も愛される場所になるはずだ。共に行こうではないか。」
宗円と円澄は、弥右衛門の言葉を刻み込むように深く首を縦に振った。
その後、弥右衛門は新設された本堂に詣で、庫裏で茶会を行い、最後は禅堂の静寂の中で精神を統一した。
◼︎永禄四年十月 三河国 西尾城 屋敷
実相寺からの帰り道、弥右衛門は四郎次郎を伴って城へと戻った。
二人が曲輪の屋敷へと向かう道すがら、四郎次郎の視線は、かつて吉良の屋敷が鎮座していた本丸の更地に吸い寄せられていた。
「四郎次郎、急な呼び出しですまなかったな。」
「滅相もございませぬ。私のような若輩者が、御領主様直々にお声がけいただけるなど、商人の末代までの誉れにございます。ご要望であれば、何なりと。」
深々と頭を下げる四郎次郎に、弥右衛門は歩みを止めて振り返った。
「要望ではない。相談したいのだ。我が領内の発展をな。」
四郎次郎の顔に、戸惑いが走った。ただの商いの相談ではなく、領地そのものの相談。それは商人の領分を大きく超えている。
「……私に、でございますか? 私は、木下殿が創り出された『座株楽座』の仕組みを学ぶために西尾に身を置いておる身。教えを請うべきは、私の方にございますぞ。」
「土台を作ったのは私かもしれんが、棟貸や大工の囲い込みは、そなたの発案だと聞いている。目先の利銭だけでなく、数年先を見据えたそなたの案には、大いに関心しているのだ。」
「……買い被りにございます。ですが、恐縮ながらお伺いいたしましょう。私に、どのようなご相談でしょうか。」
弥右衛門は立ち止まり、秋風に吹かれる眼下の城下町を指差した。
「二年間だ。この二年間で、西尾を岡崎を超える町にする。そのためには何をすべきだと思う? 遠慮はいらん、商人の勘で答えてみよ。」
弥右衛門は、試すような眼差しを四郎次郎に向けた。
小一郎の報告により、彼が優秀な若者であることは把握済みだ。彼が単なる「商人の器」に収まる男か、あるいは「国を造る器」であるかを見極めるための問いであった。
四郎次郎は、長く、深い沈黙を置いた。
その視線は、眼下の町並みから、遠く霞む矢作川、そして海へと続く水平線までを鋭くなぞっていた。やがて、彼は決然と顔を上げ、淀みなく語り始めた。
「…………道を始めとした、抜本的な流通の再定義が必要と存じます。岡崎の強みは、東海道と足助街道が交わる三河最強の『陸運』の要衝。対して我らが西尾は……三河湾を抱く『水運』の玄関口。ならば、この強みを最大化せねばなりませぬ。」
四郎次郎は、足元の砂地に落ちていた枝を拾うと、更地の上に地図を描き始めた。
「まずは西尾城、実相寺、そして一色湊。この三点を結ぶ、馬三頭が並走できるほどの『大路』を貫通させます。いわば領内の血液を流す大動脈。これにより、拠点間の移動効率を極限まで高め、三地点を一つの都市として機能させるのです。」
砂上に描かれた巨大な三角形。大路沿いに商屋や職人街が立ち並び、弥右衛門が目指す都市像が地熱を帯びて浮かび上がる。
「二つ目に、西尾を湿地に変えている矢作川の河口……網の目のように分かれ、力を分散させている流れを、大掛かりな普請によって一本の奔流へとまとめ上げるのです。さらば水の勢いによって川底は自ずと洗われて深くなり、喫水の深い大型船がそのまま城下近くまで遡上できるようになります。海運という強みを、さらに鋭く研ぎ澄ますのです。」
海から城下へと書き込まれた、突き刺さるような力強い矢印。一色湊を「外港」とし、城下を「内港」とする二段構えの港湾都市構想。弥右衛門の脳内では、荷を積んだ商船が列をなし、活気に沸く波止場の情景が鮮やかに再生された。
「三つ目に、西尾から岡崎、そして尾張へと直通する『新街道』を切り拓きます。既存の農道ではない、東海道をも凌駕する規格の道です。尾張や三河の者たちだけでなく、塩を求める信濃や美濃の者たちが、最短距離でこの西尾へ集結するよう仕掛けるのです。」
内陸部から城下へと引かれた複数の矢印。各地の富が西尾に吸い寄せられ、街が膨れ上がっていく光景が瞼の裏に浮かんだ。
「つまり……水運という独自の核を持ち、そこから延びる陸路が他国の富を吸い取っていく。海運と陸運の両方の強みを併せ持つこの西尾こそが、陸路という古い鎖に縛られた岡崎を抜き去る、唯一の路にございます。」
語り終えた四郎次郎の瞳には、商人の打算を超えた「国造り」の熱が宿っていた。
領内の機動力を極限まで高め、海と陸を最短距離で結ぶ。弥右衛門は、砂上の地図を凝視したまま、確信していた。信長や秀吉とはまた異なる、経済という刃で天下を斬り拓く「戦国の逸物」を、自分は見つけ出したのだと。
「流石だな、四郎次郎。今の案を聞き、岡崎に勝つにはそれしかないと確信した。そなたが座株を学ぶだけで満足していないのであれば、この大規模普請、そなたに指揮を任せたい。木下の家臣として働いてはくれぬか。」
弥右衛門の真っ直ぐな言葉に、四郎次郎は困惑と、それ以上の高揚を孕んだ顔で応えた。
「それは……大変魅力的ですが、京にいる父上が何と言うか。座株で商を学ぶのとは、背負う責任の重さが違いまする。」
弥右衛門は四郎次郎の瞳の奥、知的好奇心という名の炎が激しく揺れているのを逃さなかった。
「であれば、四郎次郎が成し遂げた暁には、木下が持つ五つの座株を茶屋に譲ろう。津島屋には私から話を通しておく。……父上も商人であろう? 喉から手が出るほどの好条件に、目を銭の形にして食いつくはずだぞ」
四郎次郎は堪えきれぬといった風に、腹を抱えて笑い声を上げた。
「ははは! 違いありませぬ! 欲深い父のこと、二つ返事で私を西尾へ放り出すでしょう。……木下殿、これは私自身が命を懸けてみたい仕事にございます。一度京へ戻り正式に回答いたしますが、心は決まりました。」
「あぁ、頼んだぞ。そなたを『開発奉行』に任ずるつもりだ」
十代という若さも、商人の出であることも関係ない。今の木下を支える奉行たちは、皆が若く、そして己の腕一本でその地位を掴み取った者たちばかりなのだ。
「もはや驚きませぬ。木下家は実力主義。外から見ていて、十分に把握しておりましたゆえ。」
茶屋四郎次郎はその足で京へと戻り、案の定、狂喜乱舞する父の承諾を得て西尾へ舞い戻ってきた。
信長へ納めた種子島の莫大な金を一次資金にし、そして年末の座株楽座からの配当を加え、四郎次郎の開発は始まっていく。
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