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オヤジ太閤記  作者: 芭音
永禄四年(1561)

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#30 一門衆

◼︎永禄四年七月 三河国 西尾城 屋敷


「……ふぅ。」


 一ヶ月ぶりにくぐった我が家の門。その敷居を跨いだ瞬間、肩に張り付いていた戦場の熱が、すっと引いていくのを感じた。

 妻の仲、長女の智、そして次女の旭。久しぶりに揃った家族の団欒を祝うように、ささやかながらも心のこもった夜食が並べられた。


「父上。藤吉郎の兄さまが、出世されたというのは本当なのですか?」


 旭が目を輝かせ、身を乗り出すようにして問うてきた。城に住まう身分となり、言葉遣いは多少なりとも洗練されたが、好奇心のままに動く性分は相変わらずらしい。弥右衛門は、握り飯を口に運ぶ手を止めて、穏やかに頷いた。


「ああ、本当だぞ。今や百人の鉄砲衆を束ねる組頭だ。しかも織田の殿様より『羽柴』という立派な姓まで賜った。……大した男よ」


 軽海の激戦を経て、藤吉郎は名実ともに鉄砲組頭の任を受けた。今は佐々内蔵助や池田勝三郎らと共に、美濃攻略の最前線である墨俣の守備に就いている。

 部隊には、蜂須賀小六という昔馴染の野武士や、前田慶次郎という風変わりな男も加わった。特に慶次郎については、藤吉郎が前田の本家に頭を下げてまで口説き落としたという。


 ふと、墨俣からの帰り際、清洲城で林佐渡守と酒を酌み交わした際のことを思い出す。宿老の顔は、勝利の喜びよりも、底知れぬ不安に曇っていた。

 信長は勝利の勢いそのままに、敵の本拠・稲葉山の城下を焼き尽くした。一色はもはや領民すら守れぬという現実を美濃の国人衆に突きつける、あまりに合理的で非情な一手。

 あれでは、治まるものも治まらぬ……と頭を抱えていた林佐渡守。


 いま、その宿老と同様に複雑な顔をし、深い皺を眉間に刻みながら、黙々と握り飯を咀嚼しているのが長女の智であった。


「智よ、如何した。清洲にいる年寄りと同じような面構えになっているぞ」


「……どうもこうもありませぬ! 藤吉郎は近々、祝言を挙げると聞き及んでおります! なぜ弟が先に片付き、姉の私がいつまでもこうして居らねばならぬのですか!」


 智が盆を叩かんばかりの勢いで叫んだ。

 藤吉郎の縁談――それは弥右衛門が墨俣を去る直前、勝利の余韻に浸る宴の中でのことだった。

「羽柴として家を立てるなら、後ろ盾となる縁戚が必要だ」という池田勝三郎の進言に、信長が即座に「良し」と応じたのだ。そして藤吉郎が、以前から想いを寄せていたという浅野家のお寧の名を挙げた時……あの鼻の下を伸ばしきって蕩けた顔は、父である弥右衛門さえ引くほどであった。


 息子にとっては、これ以上ない良縁だ。

 だが、ここは戦国の世。長女が未婚のまま弟が先に所帯を持つことは、本人にとっては一大事。弥右衛門は、どの戦場で感じるよりも恐ろしい圧を、娘から受ける羽目になった。


「智は、あなた様が帰ってくる前には、中村で確かな良縁があったのです。それをあなたが『城持ちになる』などと言うから、相手が恐縮して逃げるように破談になったのですよ。智も今年で二十五……世間を見渡せば、この子が焦るのも無理はございません」


 妻・仲の参戦は、絶体絶命の防衛戦の最中、敵の精鋭増援が現れたが如き衝撃であった。

 確かに、二十五という年齢はこの時代では婚期を大幅に過ぎている。弥右衛門の急激な出世が、娘の婚活市場に大きな影響を及ぼしてしまったのだ。

 

 (……これは本格的に考えねばな。領内をどれだけ富ませ、平穏に導こうとも、目の前で噴火寸前の娘を鎮めねば、西尾城の安泰はない。)


 弥右衛門が冷や汗を流しながら握り飯を咀嚼していると、もう一人の娘が、そんな重苦しい空気をどこ吹く風とばかりに呑気な声を上げた。

 

「姉さまの夫になるのは、どんな方なのでしょうね。」

 

「そうだな……。三河で今後、(よしみ)を深めたい御仁の子息か。あるいは、木下の配下の中から骨のある者を選ぶか……」


「姉さまと離れ離れになるのは嫌です。お父様の配下の方にしてくださいな」


 旭の無邪気な要望に、弥右衛門は内心で頭を抱えた。

 言うは易いが、今の木下家は圧倒的な人材不足なのだ。河尻与四郎や前田又左衛門といった信頼できる男たちは、すでに妻帯している。

 

 (……待てよ。配下、独身、そして智のこの気の強さを御せる男……。)


 弥右衛門の脳裏に、一人の男の顔が浮かんだ。

 不器用だが忠義に厚く、これからの木下家を支えるに相応しい、あの男だ。


「決めたぞ、智! そなたを嫁がせる男、心当たりがある!」


 弥右衛門は弾かれたように席を立つと、夜風の吹き込む屋外へ向かおうと大股で歩き出した。その閃きが消えぬうちに、すぐさま訪ねるつもりだった。

 だが、その背中に、仲の冷静にして鋭い一矢が突き刺さった。


「あなた様。旭も今年で十八。……そのことも、ゆめゆめお忘れなきよう」


 そうか、一人片付ければ終わりではない。弥右衛門は、胃に疼き感じながら、屋敷の外へと踏み出していった。



 


◼︎永禄四年七月 三河国 西尾城下


 弥右衛門は足早に、城下の一角に新築された屋敷へと足を踏み入れた。

 木下家の重臣である「奉行」に任じた者たちには、西尾城下に屋敷を構えさせている。人を集め、情報の流動を促し、経済を活性化させる。それは弥右衛門が描く都市計画の一つであった。


「勘十郎! おるか、勘十郎!」


 弥右衛門が声を張り上げると、奥の部屋の襖が勢いよく開け放たれた。

 行灯の微かな光の下、遁尾衆の部下たちと地図や文を囲んでいたのであろう。仕事の手を止め姿を現した勘十郎の左右には、影のように控える透破たちの張り詰めた気配があった。


「……これは、殿。このような刻限に、如何なされましたか。また清洲から無茶振りが?」


 勘十郎の問いに、弥右衛門は大きく首を振った。思わず口元が緩むのを抑えられない。


「いや、信長様ではない。……私の『無茶振り』だ」


 弥右衛門は目配せで勘十郎の部下たちを下がらせると、自ら襖を閉め、男の目の前まで歩み寄った。


「勘十郎。そなた、今年で二十七、そして独り身であったな」


「はあ……左様にございますが。私は服部を抜け出した身、しかも先の戦では正式に破門を言い渡された身にございます。……妻をいただくような、陽の当たる道を歩む者ではございませぬ。」


 自嘲気味に目を伏せる勘十郎。だが、弥右衛門はそれを力強い言葉で遮った。


「そんなことは私が許さん。……私の娘、智を娶れ。今、この場で決めた!」


 静寂が部屋を支配した。

 普段なら夜の闇に溶け込み、誰よりも静寂を友とするはずの男が、今は場違いなほどに驚愕の表情を晒している。


「……殿。……今、何と仰いましたか?」


「智だ。少々気は強いが、根は良い子だ。何より、これからの木下家を支えるそなたには、他人ではなく『身内』になってもらわねば困るのだ。」


 木下には、血を分けた一門衆がいない。

 そして勘十郎は、服部という家を失ったばかりだ。年齢も近く、能力も申し分ない。何より、幼き頃から弥右衛門が手ずから鍛え上げ、一人前の透破へと育ててきた。彼は弥右衛門にとって、すでに息子も同然の存在であったのだ。なぜ今までこれに気づかなかったのかと、弥右衛門は己を叱咤したいほどだった。

 

 勘十郎には『木下勘十郎』になってもらう。

 智のためだけではない、木下家にとって必要なことはだと思った。


「……殿、お戯れを。帰るべき家も名も持たぬ私を、これまで拾い育ててくださった御恩は一生忘れません。……なればこそ、殿の愛娘を、私のような者が妻に迎えるなど、考えられませぬ」


 自嘲する勘十郎に対し、弥右衛門はさらに一歩、膝を進めて身を乗り出した。

 

「そなたを『木下』という輪の中に入れたいのだ。これは主君としての命令ではない。一人の父親として、そしてそなたを息子のように慈しんできた一人の男としての……切なる願いだ。勘十郎、私を助けてくれぬか。」


 勘十郎の視線が、揺れる行灯の火に吸い寄せられた。

 彼の人生は常に孤独な影の中にあった。それを救ってくれた恩人が今、「家族になれ」と手を差し伸べている。

 勘十郎の頬を、一筋の熱いものが伝った。捨て去ったはずの、人間としての涙だった。


「……分かり申した。この勘十郎、身の程知らずを承知で、智様を、そして木下の家を、命に代えてお守りいたす所存にございます。」


 平伏した勘十郎の背中に、もはや卑屈さはなかった。

 一人の武士、そして『木下一門』としての誇り高き覚悟が宿っている様だった。

 

「……ありがたい。これでようやく、私も枕を高くして寝られるわ」

 

 弥右衛門は満足げに深く頷くと、勘十郎の肩を、その確かな重みを確かめるように力強く叩いた。



ご拝読いただきありがとうございます。


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― 新着の感想 ―
このエピソードはホームドラマのような面白さ感じました。 仲は市原悦子、弥右衛門は小林稔侍さんの声で再現されます。 勘十郎が秀長とならぶ一門として重きをなせば豊臣家の悲劇は避けられる可能性が出てきます…
この世界線だと秀次は産まれないのか
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