#29 木下藤吉郎
永禄4年(1561)
5月11日
美濃の大名 一色左京大夫義龍死去
5月13日
織田上総介信長、1,500の兵を率い出陣し、美濃国・森部にて、6,000の一色勢と会戦。大将を討ち取るほどの大勝。
木下藤吉郎は足立六兵衛を討ち取る。
織田家は墨俣城を占領する。
5月14日
一門衆・織田解由左衛門信益が墨俣の北に十九条砦を建設、守備を任せられる。
5月23日(弥右衛門、墨俣に到着)
4,000の一色勢が十九条砦を急襲し、織田解由左衛門が討死。
その動きに対して、1,000の織田軍(うち100名は藤吉郎隊)が北上、軽海にて両軍相対する。
◼︎永禄四年五月 美濃国 軽海 織田軍本陣
日暮れが刻一刻と迫る。
本陣から戦場を見下ろす弥右衛門の瞳には、四倍の兵数を誇る一色勢を前に、今か今かと火蓋が切られるのを待つ織田兵の背中が映っていた。
織田軍の布陣は「魚鱗」。一点突破にすべてを賭けた、攻めの極致ともいえる鋭い楔の陣形である。
最前線には森三左衛門可成。第二陣には柴田権六勝家。そして第三陣に、佐々内蔵助成政・池田勝三郎恒興の精鋭騎馬隊と、鉄砲隊を率いる木下藤吉郎。そして、第四陣には織田上総介信長が自ら馬を立てていた。
対する一色勢四千は、織田を包み込み、数の暴力で圧殺せんとする「鶴翼」の構え。
「敵は鶴翼か……想定通り。
三左衛門に告げよ――始めよ。」
信長が扇を振り下ろした刹那、法螺貝の音が戦場の空気を震わせた。
森三左衛門率いる三百の先鋒が、地響きと共に突撃を開始する。三角形の陣形の頂点となり、鉄の楔となって敵中央へ強引に食い込んでいく。それに対し、鶴の翼のように広がっていた一色勢の両翼が、獲物を丸呑みにせんと内側へうねり始めた。
「殿! 敵の両翼が動き出しました。森隊が挟撃されます、いかがなさいますか!」
側近が悲鳴に近い声を上げるが、信長は微動だにしない。ただ一点、戦場の揺らぎを射抜くような眼差しを弥右衛門へと向けた。
「弥右衛門。種子島を用いるなら……敵の右左、どちらだ」
弥右衛門は、頬をなでる風の重さと、周辺の地形を瞬時に吟味した。
「左にございますな。右翼側は川に近く、土壌がひどく湿っております。これでは火縄が湿気を吸い、不発を招く恐れが…………。」
「で……あるか。」
信長は短く応じると、即座に采配を振った。その声は、喧騒を裂いて冷たく響く。
「権六の三百を右翼へ突撃させよ。泥を蹴散らし、一色の勢いを力で止めろ。第三陣の内蔵助、勝三郎……そして、猿の三百は左翼へ回し、そのまま敵左翼の大将首を取ってこいと伝えよ!」
信長の命が下るや、伝令たちが砂塵を舞い上げ、戦場を駆けた。
◼︎永禄四年五月 美濃国 軽海 織田軍第三陣
「内蔵助殿、勝三郎殿。おいらの策を容れてくださり、かたじけなく存じます!」
藤吉郎の必死の訴えに、藤吉郎の一つ年上佐々内蔵助と池田勝三郎は騎乗のまま、重厚な鎧の音を響かせて頷いた。
「よい。だが、事前の取り決め通り、種子島の一射目までが貴殿の持ち時間だ。そこで敵に穴が空かねば、我らは通常通りの突き崩しに切り替える。……遅れるなよ。」
内蔵助はぶっきらぼうな表情を崩さず、手綱を絞って愛馬を前進させた。伝統を重んじる彼にとって、新参者の策に乗るのは賭けに近い。だがその瞳には、未知の戦術への微かな好奇心が宿っていた。
「猿にようやく巡ってきた出世の機会だ、手伝わせてくれよ。それに、種子島の一射目が戦況を決めるというのは、貴殿の父上が上ノ郷で見せた逸話で聞き及んでいる。……期待しているぞ。」
信長の乳兄弟として、藤吉郎を側で見てきた勝三郎は、慈しむような目で藤吉郎の頭をポンと叩いた。そして、後ろ向きにひらひらと手を振りながら、精鋭騎馬隊を率いて敵へと向かっていった。
残されたのは、藤吉郎と二十人の足軽、そして、八十人の鉄砲兵。三河仕込みの精鋭たちが、火縄に火を灯し、着々と準備を整えていた。
◼︎永禄四年五月 美濃国 軽海 一色軍左翼
我が名は稲葉又右衛門常通。
この戦場の鼻先にある曽根城の主であり、西美濃三人衆が一人――甥の稲葉彦四郎良通の後見を務める者だ。
戦況は、我らの数の優位が徐々に織田の小勢を飲み込みつつある。初手で突撃してきた森隊の猛攻は、彦四郎が鶴翼の懐に厚く受け流し、右翼側へ回った柴田の軍勢も、足元の悪さに足を取られ、文字通り泥沼の戦いが始まっている。
ふと見れば、織田の第三陣がこちらへ向けて動き出すのが見えた。
中央と右翼が膠着した今、この戦の帰趨を決するのは、この乾いた大地を預かる我が精鋭に他ならぬ。
「森隊を包囲せんと動いていた一隊を戻せ。馬首をあちらへ向けよ!」
又右衛門は冷静に下知を飛ばした。
砂塵を上げて肉薄する織田の騎馬隊。だが、正面から迎え撃つ準備を整えた我が防陣を、単なる突撃で抜けるほどは甘くはない。
(んんっ――⁉︎)
又右衛門は、迫りくる騎馬の動きに猛烈な違和感を覚えた。
真っ直ぐに陣を突き破るかと思われた騎馬隊は、突撃の直前で大きく膨らむと、時計回りに円を描いて又右衛門の眼前を通過したのだ。
「殿! 敵の騎馬、槍ではなく……先に小枝を括り付けた棒を振り回しております! それゆえ、これほどの土煙が……!」
ただでさえ視界の悪い黄昏時だ。騎馬隊が意図的に撒き散らした巨大な砂壁が、稲葉勢の目の前を完全に塞いだ。
何も見えない。
だが、砂煙の奥に、ポツポツと無数の小さな「赤い灯」が浮き出てきた。
――ドォォォォォン!!
砂埃を切り裂き、大気を震わせる雷鳴の如き轟音。
先ほどまで戦況を報じていた横の側近が、馬上でふっと力が抜けたかと思うと、そのまま地面へと転げ落ちた。
確かめるまでもない。その轟音こそが彼を冥府へと連れ去ったのだ。又右衛門の脳裏に、三河で新興の「木下」なる大名が今川を相手に披露したという、種子島の大量運用に関する噂がよぎった。
「種子島……だと。織田もをこれほどの数、揃えておったか」
砂埃がわずかに開けると、最前線を任せていた真木村牛介隊は数多の骸を晒し、完全な動揺状態に陥っていた。だが、又右衛門は屈しない。これしきの混乱で崩れるほど、稲葉の兵は弱くはない。
「牛介! 敵は種子島だ! 次の射撃までには刻を要する! 怯むな、煙の奥に潜む者どもを、装填の隙に一人残らず突き伏せよ!」
又右衛門が馬上で一喝した。一度放てばしばらくは棒切れ同然。その隙に距離を詰め、蹂躙する――それがこの時代の「戦の常識」であった。
牛介は部下を鼓舞しながら、黒白い硝煙が渦巻く地獄へと踏み出した。視界を遮る煙の幕に槍を突き入れようとした、その時。
「――甘いわッ!」
煙を割り、獣のような咆哮が響いた。
牛介が何者かの槍に貫かれ、膝から崩れ落ちる。同時に煙の中から躍り出たのは、弾を込める足軽ではない。
先ほどまで「枝」を振り回していたはずの、織田の騎馬隊であった。彼らは今、穂先を夕闇に光らせ、逃げ場のない速度で殺到してくる。
「いかん……! 防御の陣を、盾を並べろ! 戻せ、兵を戻せッ!!」
又右衛門の叫びは、再来した地響きにかき消された。
その後、西美濃の名門を支える稲葉又右衛門常通は、夜が更ける前に池田勝三郎と佐々内蔵助の手によって、その波乱の生涯を閉じた。
◼︎永禄四年五月 美濃国 軽海 織田軍本陣
小高い丘に据えられた本陣からは、藤吉郎たちの躍動が手に取るように見えた。
隣に立つ信長は、鋭い眼光を戦場に向けたまま、獲物を捉えた猛禽のごとき静寂を纏っている。
初手に騎馬隊が砂塵を巻き上げ、その煙幕を突いて鉄砲隊が至近まで肉薄、一斉射撃を見舞う。敵が混乱に陥る刹那、旋回した騎馬隊が背中の槍へと持ち替え、硝煙の中へ飛び込んでいく。
弥右衛門が上ノ郷で見せた戦術に、藤吉郎が「目潰し」と「追撃」の工夫を重ねた、彼にしか成し得ぬ変則的な蹂躙であった。
「弥右衛門よ。あの種子島、そなたの言い値で買い取ろう。」
敵の左翼が瓦解し、一色勢が雪崩を打って退き始めるのを眺めながら、信長が低く、しかし力強く告げた。弥右衛門は即座にその場に膝をつく。
「はっ。ありがたき幸せ。兵も、いつでもお貸しいたしまする。御入用の折はなんなりと。」
信長は小さく鼻で笑った。
「いらぬ。兵は自前で揃える。それに、津島の商人どもに命じ、種子島を根こそぎかき集めさせ、いずれは鍛冶町も押さえる。……近江の国友よ。そなたも、欲しくば我が方からいくらでも売ってやるわ」
弥右衛門は思わず苦笑した。この男の辞書に「依存」という文字はない。常に自らが源流を支配しようとする。その圧倒的な自負こそが織田信長であった。
「……その際は、我が息子――藤吉郎を存分にこき使ってやってください」
此度の成果は、信長の野心を満足させたはずだ。ならば、歴史の歯車を回すべきだ。息子には、この信長と共に天下の頂まで駆け抜けてもらう。
「猿は、我が物として良いのだな?」
「もちろんにございます。三河で殿の背を守るより、殿の眼前で泥を撥ね、駆けずり回るのがあやつにはお似合いでございますゆえ」
「で……あるか。ならば、そなたとは姓を変えさせる」
信長はふいに戦場から視線を戻し、弥右衛門に目を向けた。
「『羽柴』はどうだ。どちらの文字も織田家中には馴染み深い。」
成り上がりの若造に対し、丹羽や柴田といった信長に近しい者達の姓を分け与える。それが信長流の、最大級の期待の表明であった。弥右衛門は深く頭を垂れた。
「有難き幸せ。これよりは木下弥右衛門が殿の背後を、羽柴藤吉郎が殿の御前を、共に支え奉ります。」
信長は不敵に笑うと、戦場から泥と返り血にまみれて戻ってきた藤吉郎へ、雷鳴のような声を張り上げた。
「――猿ッ!!」
この戦は、織田軍の圧勝で幕を閉じた。
一色の本拠・稲葉山と西美濃を分断する墨俣を確固たるものとし、信長の美濃侵攻はいよいよ本格化していく。
のちに、この地での出来事は一つの歌として語り継がれることになる。
軽海にて 得たる至宝が ふたつあり
火縄の銃と 羽柴秀吉
ご拝読いただきありがとうございます。
藤吉郎は羽柴として、弥右衛門は木下として生きていくことになります。
続きが気になる方、本作を気に入ってくれた方はブックマークをしてお待ちください。
励みになりますので、評価もぜひお願いします
★★★★★




