#2 秀吉の父になる男の桶狭間
プロローグ全3話のうちの2話目になります。
続きが気になる方はブックマークをしてお待ちください。
本話の冒頭は現代視点になります。
◼︎令和十年五月 愛知県清洲市 清洲古城跡
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり――」
敦盛を舞う青年を眺めながら、木内亮治は紙コップのビールを口に運んだ。
四十五歳。名古屋のコンサルティング会社でパートナーを務め、新卒で入社してから二十余年、企業の経営戦略や新規事業、組織改革、事業再生といった仕事に携わってきた。
それなりに大きな仕事も任されるようになり、部下も増えた。収入にも不満はなく、家に帰れば愛する妻がいる。世間一般から見れば、十分に恵まれた人生なのだと思う。
ただ一つだけ問題があるとすれば、その恵まれた人生を楽しむ時間をほとんど作ってこなかったことだ。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。取り出してみると、妻からのメッセージが届いている。
『今日は何時くらいに帰れそう?』
今日は土曜日。本来なら休日だが、長年担当してきた顧客企業の創業五十周年イベントに招かれ、後任となる部下二人を連れて参加していた。
『夕飯までには帰るよ』
そこまで打ち込んでから少し考え、もう一言付け加える。
『明日はどこか出かけようか』
すぐに返事が届いた。
『珍しいね。楽しみにしてる』
「……珍しい、か」
思わず苦笑した。
結婚して十数年。何度「仕事が落ち着いたら」と言っただろう。旅行も外食も映画も、その度に仕事が入り、後回しにしてきた。妻は一度も責めなかったからこそ、その優しさに甘えていたのかもしれない。
「木内さん!」
呼ばれて顔を上げると、今回のイベントを主催する企業の社長がこちらへ歩いてきた。
「社長。本日はおめでとうございます」
「ありがとう。今日は後任も一緒なんだって?」
「はい。先ほど役員の皆様にもご挨拶させていただきました。私が御社を担当するのも今月までですので、来月からは彼らが中心になります」
亮治が少し離れた場所にいる二人の部下を示すと、社長は懐かしそうに目を細めた。
「そうか。君が新卒の頃からだから……もう二十年か?」
「それくらいになりますね」
「長かったなあ」
本当に長かった。
右も左も分からない若手の頃から、この会社には世話になった。経営計画を作り、工場へ通い、営業にも同行した。大きな投資案件で役員会が紛糾し、深夜まで議論したことも一度や二度ではない。もはや顧客というより、一つの人生を一緒に歩んできた会社に近かった。
「それにしても、すごい規模ですね」
亮治は周囲を見渡した。仮設舞台や飲食店のテントが並び、社員とその家族で公園一帯が埋め尽くされている。
「創業五十周年だからな。それに今日から社名も変える。再出発にはちょうどいい場所だろう?」
「この場所に何か意味があるんですか?」
そう尋ねると、社長は呆れたように笑った。
「木内君、二十年も清洲に通っておいて知らないのか。目の前の川の向こうに清洲城があるだろう」
「ありますね」
「あれは後世に造られたものだ。信長がいた頃の清洲城は、まさにこの辺りにあった」
「……ここなんですか」
思わず足元を見る。何の変哲もない公園にしか見えない。
「そう。そして桶狭間の戦いの時、信長は清洲城で敦盛を舞ってから出陣して今川義元を討った。それで敦盛だ」
社長が指差した舞台では、ちょうど一人の青年が扇を手に舞っている。
「なるほど。ようやく意味が分かりました」
「世界史ばかりじゃなく、日本史も勉強したほうがいいぞ」
「時間ができましたら、考えておきます」
「本当か?」
「善処します」
二人で笑った。
「まあ、今日は楽しんでいけ。ただ夕方から天気が崩れるらしい。降る前には帰れよ」
「ありがとうございます」
社長と別れた後も、亮治は長年付き合いのあった役員や社員へ挨拶して回った。気づけば二時間近くが過ぎ、後任の部下二人もそろそろ会社へ戻る時間になっていた。
「二人とも今日はありがとう。来週から先方との定例会も任せるからな。困ったら電話してくれ。引き継いだからといって、いきなり全部放り投げるつもりはない」
二人を送り出すと、肩の荷が下りたような感覚と同時に、少しばかり寂しさも覚えた。
これで本当に、自分の仕事が一つ終わる。
何となくスマートフォンを開くと、妻から新しいメッセージが届いていた。
『明日、久しぶりに美術館でも行く?』
「美術館か……」
亮治は顔を上げ、再び舞台へ目を向けた。
先ほどまでは仕事上の付き合いとして眺めていた敦盛だったが、改めて見てみると思いのほか美しい。扇を振る動きも、袖が揺れる様子も、一つ一つが妙に目を引いた。
芸術など、自分とは縁遠いものだと思っていた。休日にも仕事のメールを開き、移動中には資料を読み、旅行へ行っても顧客から電話が入ればホテルへ戻る。そんな生活を二十年以上続けてきた。
仕事は好きだったし、その人生を後悔しているわけでもない。ただ、人生にはもっと別の時間もあったのかもしれない。
『いいね。行こう。その後、夕飯でも食べよう』
そう返信してスマートフォンをしまうと、何となく気分が軽くなった。
明日は久しぶりに、何も仕事をしない日にしよう。
そう思って腰を上げた、その時だった。
凄まじい雷鳴とともに視界が真白になり、経験したことのない衝撃が全身を貫いた。
「――っ!」
身体が宙へ浮いたような感覚の後、手足から急速に力が失われていく。周囲から悲鳴が聞こえていたが、その声も次第に遠ざかり、視界の端から暗闇が広がり始めた。
亮治は反射的にスマートフォンへ手を伸ばそうとした。しかし指一本まともに動かない。
妻の顔が浮かんだ。
明日、美術館へ行くと言った。夕飯を食べると約束した。今日だって帰ると伝えたばかりだった。
――また、約束を守れないのか。
それが、木内亮治の人生で最後に浮かんだ思いだった。
意識を失ったはずなのに、奇妙なことに思考は途切れなかった。代わりに、これまで一度として経験したことのない記憶が頭の中へ流れ込んできた。
最初に見えたのは、田畑を耕す小柄な男だった。自分ではないはずなのに、鍬を握る手に残る土の感触も、傍らで笑う女の名が仲であることも、なぜか知っている。
その周囲には四人の子供がいた。
藤吉郎、小一郎、智、旭。
一度も会ったことがないはずなのに、名前だけでなく、それぞれがどんな時に笑い、どんなことで泣いたのかまで分かる。幼い藤吉郎を叱った記憶も、小一郎を肩車した時の重さも、自分自身が経験したことのように蘇った。
ところが、穏やかな記憶は長く続かなかった。
夜の屋敷へ忍び込み、密書を盗む。銭を渡して人を抱き込み、逆に弱みを握って脅す。標的の後を何日もつけ、情報を得るために人を騙し、ときには自らの手で命を奪う。
短刀が人の喉へ入る感触まで蘇った瞬間、亮治は吐き気を覚えた。
(なんだ……これは……)
自分の経験ではない。それでも、記憶の中では紛れもなく自分の手が人を殺していた。
木下弥右衛門。
竹阿弥。
今川。
透破。
遁尾衆。
百名を超える部下。
駿河、三河、尾張、織田。
次々と情報が押し寄せてくる。
単なる知識ではなかった。喜びも、恐怖も、怒りも、罪悪感もある。一人の男が四十年以上かけて生きてきた人生そのものが、木内亮治という人間の中へ流れ込んでいた。
(待て……待ってくれ)
処理しきれない。
目の前で部下を失った悲しみも、家族を置いて中村を去った日の後悔も、今川へ忠誠を誓った覚悟も、十年以上妻子に会わなかった寂しさも、すべてが自分自身の記憶のように感じられる。
そして最後に、雷に打たれ、清洲城の屋根裏から落ちた。
織田信長。
首筋に当てられた刀。
燃え広がる炎。
そこまで記憶がつながった時、亮治はようやく理解した。木下弥右衛門という男の身体の中へ、自分が入り込んでいる。
◼︎永禄三年五月 尾張国 清洲城
暗闇が少しずつ薄れ、ぼやけていた視界に焦点が戻っていく。目の前には若い男がいた。
刀を握り、炎を背負い、異様なほど鋭い目でこちらを見ている。初対面のはずだったが、先ほど流れ込んできた弥右衛門の記憶と、自分自身が持つわずかな日本史の知識が同時に一つの名前を示した。
「織田……信長……」
自分の声なのに、自分のものではない。低く、掠れた声だった。
そして弥右衛門の記憶の中にいた息子の名が浮かぶ。
「木下……藤吉郎……」
その名前なら、日本史に詳しくない亮治でも知っている。
木下藤吉郎。
後の豊臣秀吉。
二つの名前がつながった瞬間、思考が追いつくより先に言葉が漏れた。
「俺が……豊臣秀吉の父親……?」
信長の眉が動いた。
「わけの分からぬことを申すな。何者だと聞いておる」
首筋に当てられた刃がわずかに食い込み、痛みとともに血が流れる感触がした。
夢ではない。
その事実を認識した途端、急激に恐怖が押し寄せた。
つい先ほどまで清洲のイベント会場にいたはずなのに、今は戦国時代らしき場所で織田信長に刀を突きつけられている。しかも自分は雷に打たれて一度死んだはずなのに、このままでは今度は首を斬られて死ぬ。
呼吸が浅くなり、頭がまともに働かなくなる。
だが、その時、二十年以上にわたる仕事で染みついた習慣が、半ば反射的に思考を動かした。
――整理しろ。
突然の経営危機。役員会での想定外の質問。数字の前提が崩れ、一晩で計画を作り直したこともある。追い詰められた時ほど、事実と仮説を分け、選択肢を並べ、最優先の目的を決める。それが自分の仕事だった。
今の最優先は、生きること。
亮治は震える息をゆっくり吐きながら、頭の中で状況を整理した。
自分の身体は木下弥右衛門。今川家に仕える透破の頭領であり、目の前の織田信長にとっては明確な敵である。信長はすでに抜刀しており、周囲では火が燃え広がっている。落雷を受けた身体で戦うことも、逃げることも現実的ではない。
ならば、生き残る方法は一つしかない。
自分を殺すより、生かしたほうが得だと信長に思わせる。
(俺が、この男に売れるものは何だ)
未来の知識――最初に思いついたのはそれだった。
しかし、すぐに使い物にならないと気づく。
亮治は日本史に詳しくない。織田信長が桶狭間で今川義元を破ったことも、木下藤吉郎が後の豊臣秀吉であることも知っている。だが、いつ、どこで、誰が、どのように義元を討ったのかと問われれば答えられない。
未来の知識だけを頼るのは危険だった。
その代わり、今の自分には木下弥右衛門の記憶がある。
今川軍の動き。尾張各地に潜伏する遁尾衆。内応を持ちかけた織田家臣。今川方の情報伝達経路。そして、今川が今この瞬間に何を知り、何を知らないのか。
こちらなら使える。
さらに亮治には、歴史の細部を知らなくても一つだけ確信できることがあった。
この戦で、今川義元は死ぬ。
誰が殺すのかも、どこで死ぬのかも知らない。それでも桶狭間で義元が討たれ、信長が勝者になるという結果だけは知っている。
ならば、その未来に自分の価値を組み込めばいい。
本来の信長がどうやって勝つのか分からない以上、下手に未来知識で戦い方を変えさせるべきではない。むしろ今川側の情報を遮断し、弥右衛門が持つ現在の情報を信長へ渡す。
遁尾衆は百名余。
今川方にとっては、尾張を見る目であり、声を聞く耳である。
その組織を丸ごと信長へ差し出す。
今川の目を塞ぎ、織田の目になる。
そうすれば、少なくとも殺すには惜しい人間になれる。
信長と視線がぶつかった。
怖くないわけではない。それでも、生き残るための道筋が一つ見えたことで、先ほどまでの混乱はわずかに収まっていた。
「我が名は、木下弥右衛門。今川に仕えし透破の頭領よ」
弥右衛門の身体に残る記憶へ従い、亮治は声を出した。
信長の目がわずかに細くなった。
少なくとも、透破の頭領という肩書きには興味を持った。
「我が力をお主に貸そう」
口にした瞬間、自分でも無茶な提案だと思った。今川方の忍びが突然現れ、今日から寝返ると言っている。信長からすれば、信用する理由など一つもない。
だからこそ、最大の札を切る必要がある。
「交渉次第では――今川義元を討つ機会を、約束してやる」
信長の表情が初めて変わった。
ほんのわずかだったが、確かに目の色が変わった。
少なくとも、すぐに斬られることはないかもしれない。
そう思った瞬間、頭の奥から何かが抜け落ちていくような感覚がした。
弥右衛門だった。
木下弥右衛門自身の意識が急速に薄くなっている。
これまで頭の中には二つの存在があった。亮治と弥右衛門。互いの記憶は混じり始めているが、意識そのものは別々に存在していた。
その片方が消えようとしている。
(待て)
理由も分からないし、止め方も分からない。
ただ、弥右衛門が消えていくのと同時に、強烈な感情が亮治へ流れ込んできた。
後悔だった。
仲、藤吉郎、小一郎、智、旭。
家族への思いが胸を締めつける。
他人の感情のはずなのに、亮治には痛いほど理解できた。
仕事だから。
責任があるから。
今が踏ん張りどころだから。
そう言って、大切な人との時間を後回しにする。
亮治自身、つい先ほどまで同じことをしていた。
妻へ最後に送った言葉が蘇る。
『明日はどこか出かけようか』
その明日は、もう来ない。
弥右衛門も同じだった。
いつか帰る。仕事が終われば。今川が勝てば。
そう思い続けて十年以上が過ぎ、結局、家族に会えないまま死のうとしている。
そのあまりにも似た後悔に触れたことで、亮治は消えゆく男へ自然と問いかけていた。
(思い残すことはないか?)
返事の代わりに、弥右衛門の記憶が次々と蘇った。
仲の笑顔。幼い藤吉郎。小一郎を肩車した時の重さ。泣きながら父へ手を伸ばす智。指一本を小さな手で握っていた旭。
やがて、その記憶の奥から弥右衛門の声が届いた。
(私の家族を、この世で一番幸せにしてくれないか。皆が、生きていてよかったと思えるように)
昨日までなら、知らない家族だと答えたかもしれない。
だが今の亮治は、仲を知っている。藤吉郎も、小一郎も、智も旭も知っている。弥右衛門が彼らをどれほど愛し、それでも仕事を理由に離れ続けてしまったのかも知っている。
そして、自分自身はもう妻のもとへ帰れない。
守りたかった人を守ることも、明日の約束を果たすこともできない。
ならばせめて、この男が最後に託した家族だけは、今度こそ後回しにしたくなかった。
(わかった。あとは任せておけ)
そう答えると、弥右衛門から安堵の感情が伝わってきた。
そして、静かに消えた。
不思議なことに記憶は何一つ失われていない。仲の顔も、藤吉郎の幼い頃も、今川家に仕えた十余年も、弥右衛門が殺した人間の顔さえ残っている。
ただ、木下弥右衛門という一人の男の意識だけが、そこにはなかった。
亮治はゆっくりと目を開いた。
目の前では、織田信長が刀を握ったままこちらを見ている。何一つ解決していない。むしろ、ここからだった。
妻との約束を守れなかった男が、死にゆく別の男から家族を託された。そして、その家族を守るための第一歩として、今から織田信長を説得して生き延びなければならない。
木内亮治――否、木下弥右衛門は、首筋に当てられた刃を意識しながら静かに息を吐いた。
今度こそ、大切なものを仕事の後回しにはしない。
それが、二度目の人生で最初に決めたことだった。
次でプロローグはラストです。
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信長との会話が加熱する第3話は明日(1/5)に投稿予定です。




