#3 信長という男
◾️永禄三年五月 尾張国 清洲城
「で…あるか」
俺の提案に対して、信長は表情を変えることなく、たった一言をつぶやいた。
若輩ながら魔王が如き気迫に、弱気になりそうな自分を思い留まらせる。これまでの社会人生活で何度も経験した経済界の大物との面会。提案に価値がないと判断すれば、話の途中で席を立つことだってあった。今回の場合で言えば、価値がないと判断されれば首を斬られる。
まだ信長は交渉のテーブルにいるはずだ。
「今回だけの話じゃない。織田家の東には、今川家以外にも甲斐の武田・相模の北条といった難敵がいる筈だ。奴らの諜報にも長けた今川家の透破の百名が織田家のために働くことはお主の役に立とう。」
なおも無言、瞬きひとつない。首に当てられた刀が少し食い込み、血が少し首筋から垂れるのを感じた。
「つまりだ。今回を皮切りに、我が力によって、尾張を東から狙う者から守ることができるということだ。」
――大丈夫だ。
誇張はしている。だが、嘘ではない。
遁尾衆は今でこそ織田家専門部隊であるが、今川家はもちろんのこと、今川領に面する武田家・北条家からも情報を仕入れるツテはある。尾張を狙う勢力はその三家だろう。
すぐに考えうる中で最大限の価値を信長に提示した。これで駄目なら、もはや覚悟を決めるしかない。
「ほう…。そなたを斬らずにおけば、義元の首が我が手に入り、今川は滅び、武田も北条にも手が打てる――この尾張に、もはや憂いなし。そう申すか。」
さらに誇張されたような気がするが、ここで否といえば死は免れないだろう。未来の様に保守的に契約書を結ぶことなどできない。言葉と覚悟だけが全てだ。
「その通り。この首ひとつに尾張の安寧がかかっていると思ってくれ。」
信長はしばし俺を見据え――やがて、刀を鞘に収めた。
刀は収められた。
それだけで、答えとしては十分だった。
信長は俺の腕を掴み、燃え盛る炎の中から一気に飛び出した。
◼︎永禄三年七月 尾張国 清洲城
信長は今川義元を討ち取った。
俺は清洲城の廊下を歩きながら、二か月前の桶狭間の戦いを回想していた。
俺との交渉を終えた信長は、家臣たちに熱田神宮に集まるように告げて数人で城を飛び出した。参拝をしている間に集まった家臣たちに、今川の諜報機関である遁尾衆が味方となり、勝利の道筋を伝えた。
家臣の中には、内応の約束をした者がいることを弥右衛門の記憶から理解できた。
彼らにとっては青天の霹靂だっただろう。自分たちに内応の誘いをしてきた透破たちが今川を裏切ったのだ。交渉していた相手がいなくなった事で、内応の褒美として約束していた地位や領土は不確かなものになった。
更に彼らにとって問題なのは、俺が裏切るつもりだったことを知っていること。信長の耳に入れば死は免れない。彼らは俺に目で何かを訴えながら、我先にと信長に先陣を買ってでた。
後は遁尾衆の情報を元に今川義元の本隊へ奇襲を仕掛けた。異常なしとの報告しか受けていない義元は、なす術なく討ち取られた。
河尻与四郎秀隆という男が自ら義元を討ち取った。それが史実通りか否かは一般教養程度にしか日本史を知らない俺には定かではない。
ちなみに、遁尾衆へは裏切ったことは伝えなかった。正確には弥右衛門の腹心である服部 勘十郎にのみ伝えた。
勘十郎は三河の忍びの一族に生まれ、弥右衛門がその才を見出して育てた男である。今川家そのものより、弥右衛門個人への忠誠が強い。
だからこそ、最初に打ち明ける相手として選び、戦の最中の情報は一度勘十郎へ集約させた。
正しい情報は弥右衛門を通して信長へ。
今川方へは、致命的なところだけ少し遅らせ、少しぼかした情報を流す。完全な嘘ばかりでは不自然になる。事実を混ぜながら、判断を誤らせる。亮治にとって、その発想自体は仕事と大きく変わらなかった。
こうして、百名余の情報網は知らぬまま信長の勝利に貢献した。
そして、今日はその褒美を清洲城に貰いにきた。
信長の私室で二人きりでの面会を希望した所、意外なことに了承されたので、小姓にしたがって彼の私室までの廊下を歩いている。
「殿、木下弥右衛門が参りました。」
部屋に着くと、小姓が室内の信長に報告する。
入室の許可の声が部屋の中から聞こえると、小姓が襖を開ける。部屋の中に人はいない。予め人払いをしているようだ。
「よく来た。先の合戦、そなたの言葉に違わず、義元の首は確かに取れた。見事というほかあるまい。」
部屋に入るなり、信長は俺を褒めた。そしてニヤリと笑い話を続けた。
「弥右衛門。そなたの倅、我が家臣におるな。名は木下藤吉郎。そのほかの妻子も、清洲の南――中村に居を構えておる。相違あるまい。」
断定するように、俺の家族に関する情報を口にした。当たり前だが、織田家にも情報網があるようだ。
「左様にございます。木下家は、足軽として信秀様に仕えていた先代の頃より尾張に住み、今川へ内々に情報を流しておりました。もっとも、その件につきましては、すでに家族とは縁を切っております。藤吉郎らは、何一つ存じておりませぬ。」
一瞬、家族を人質に脅される。そんな最悪の想定をしたが、そんな脳内を知るかのように信長は笑う。
「案ずるな。藤吉郎には、何一つ手出しはしておらぬ。この前など、我が草履を尻で温めておったが、あれも罰は与えておらぬ。尾張の安寧を背負うそなたの倅――無下にはせぬわ。」
半分、皮肉だな。この首ひとつに尾張の安寧がかかっていると宣言したことをイジっているのだ。
「さて、弥右衛門。本題に入ろうぞ。先の合戦、そなたの働きは上々であった。織田にとって、欠くべからざる駒と見た。
そなたの申す通り、尾張を今川や武田から守るため、そなたと、その配下の透破ども――存分に使わせてもらう。
我は天下を取る。そのためには、京を真っ先に押さえねばならぬ。その折に、東を気に掛けるは愚。そう判断した。
ゆえに、そなたへの恩賞を、首を斬らずに済ませたことだけに留める気はない。尾張に安寧を齎すために要るもの、そなたが思うすべてを申せ。恩賞として、与えよう。」
俺の提案の合理性をしっかりと理解し、信長の天下取りのために最適な使い方を検討している。信長という男、やはり有能だ。
せっかく評価してもらえたのだ。ここは、信長から貰えるだけ貰いたい。今後の動向を想定し必要な恩賞を考え、口にし始めた。
「かようなお言葉、誠に光栄に存じます。恐れながら、恩賞を三つ、願い出てもよろしいでしょうか。」
「――申せ。」
「まず一つ目、領地を賜りたく存じます。
我ら遁尾衆は、今は一つに纏まっておりますが、もとは今川に仕えていた者ども。離反の芽を断つには、織田家より地を賜り、忠義を篤くするのが効果的と考えます。」
現実解としては、扶持――つまり給料を与えられる形で召し抱えられるだろうが、まずは土地を要求した。
下賎の者と世間に蔑まれる透破たちにとって、土地を与えて武士に近い扱いすれば、今川へ戻る者は格段に減るはずだ。
「二つ目、木下家を武家として認めていただきたく。
私や藤吉郎は農民、武士ではありませぬ。武家として認めてもらうことでできることの範囲が広がりまする。」
これは裏腹の考えもある。
藤吉郎――のちの秀吉の出世スピードを早めることだ。
太閤秀吉が農民から成り上がったことは歴史として知っていたが、この時期はまだ農民の身分で地位が低かった。何もせずとも藤吉郎は成果をだして武士階級になるだろうが、前倒しすることに損はないはずだ。
「三つ目、家臣を一人、お預けいただきたく存じます。
我らは長年の諜報により織田家のことは把握しておりますが、家中との確かな繋がりを持つことが、務めを果たす上で肝要と考えます。」
有能な織田家臣団の中から部下が欲しいのが本音ではあるが、信長以外に織田家との繋がりがない俺には必要だと思った。藤吉郎はまだ身分が低すぎて役に立たない。
また、後世の創作によるイメージかもしれないが信長は癇癪を起こす印象がある。あらぬ疑いを持たれぬためにも信長に俺の行動を報告してくれる人が居る事は重要だ。
三つの願いを聞き終えると、信長は少し黙った。机の上に広げられていた地図へ目を落とし、顎に手を当てる。
弥右衛門は待った。
現代の仕事でも、相手が考えている最中に余計な言葉を挟むと、話が悪い方向へ転ぶことがある。
一分ほど経っただろうか。
信長が顔を上げた。
「相分かった。その三つ、すべて聞き届けよう。木下家は、今日より武家と認める。また、我が家臣を一人、後日そなたのもとへ遣わす。家中との繋ぎとせよ。」
「ありがたき幸せにございます」
「それと、土地が欲しいのであろう」
「……はい」
「ならば、城をくれてやる」
予想外の言葉だった。
弥右衛門は一瞬、聞き間違えたかと思った。
「城……にございますか」
「西尾城だ。そなたを西尾城主として認める。」
満額、いやそれ以上の回答だ。心の中で拳を握ろうとした時、弥右衛門の記憶から違和感を感じた。
西尾城は三河国にある。――織田の支配地域ではなく、今川の城である。もちろん、信長に任命権はない。
「……恐れながら。西尾城は、現時点では殿の御支配ではございませぬ」
信長は口元を歪めた。
「知っておる」
「……」
「ゆえに、取ってこい」
弥右衛門は言葉を失った。
信長は平然と続ける。
「三河の安定なくして、尾張の安寧はあり得ぬ。松平にも望みはかけておるが、今の三河は燃えさかる火のごとく乱れ切っておる。何が起きても不思議ではない。ゆえに――織田の名は出すな。三河に介入したと見られれば、さらに油を注ぐことになろう。そなたは今川を離れた透破の頭領として勝手に動き、西尾城を今川より奪い取れ。尾張の安寧を約した以上、これは願いではない。命である。否とは言わせぬ。」
油断ならぬ男とは思っていたが、とんでもない事を言い出した。だが、言葉の通り否とは言えない。
天下人・豊臣秀吉の父親になった。
最初にその事実を知った時、亮治はどこかで安心していた。未来の天下人が息子なら、少なくともその後ろについていけば生きていけるのではないか。
そんな甘い考えが、わずかにあった。
だが、その考えは二か月も持たなかった。
百名余の透破を率いて、今川方の城を奪う。
しかも織田家の名は使えない。どう考えても、楽な第二の人生ではない。
弥右衛門が言葉を失っている間に、信長は筆を取り、紙へ何かを書き始めた。
やがて、その紙をこちらへ向ける。
そこには二文字が書かれていた。
【吉成】
「武家として、また一城の主として認める以上、そなたに諱を与えねばなるまい。
吉成――だ。
息子の藤吉郎の「吉」は、縁起の良き字。そして先の合戦で、身一つから武家へと成り上がったそなたに相応しい。織田の名を出さずに活動させるゆえ、あえて偏諱は与えぬ。
これよりは、木下弥右衛門吉成と名乗れ。」
――戦国武将 木下吉成
後世の研究家は、彼をこう表した。
表裏比興の者。
そんな彼の第二の人生は、信長の無茶振りから始まった。
ご拝読いただきありがとうございます。
以上が本作のプロローグになります。
次回以降の西尾城攻略編をお楽しみに。
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