#1 秀吉の父だった男の桶狭間
初投稿になります。
秀吉の弟が注目される2026年に、秀吉の父に関する物語を書きたいと思い執筆しました。
それではご拝読ください。
◼︎永禄三年五月 尾張国 清洲城
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり――」
織田信長が敦盛を舞っていた。
その真上、清洲城の屋根裏には、一人の小柄な男が息を殺して潜んでいる。名を木下弥右衛門。表向きは尾張国中村に家族を残す百姓であり、裏では竹阿弥と名乗って今川家に仕え、尾張の内情を探ってきた透破である。
今川家が尾張への侵攻を本格化させてから十余年。対織田のために組織された透破集団――遁尾衆の頭領として、弥右衛門は百名余の忍びを尾張各地へ潜ませてきた。
城の守りや兵の数だけではない。街道を行き交う荷、蔵へ集まる兵糧、織田家臣たちの不満、銭に困る者、今川へ靡きそうな者。拾い上げた無数の情報を駿河へ送り、ときには自ら織田方の者へ近づいて、今川への内応を持ちかけた。
十年を費やして張り巡らせた網は、今や尾張そのものを包みつつある。
総大将・今川義元率いる大軍はすでに尾張へ入り、織田方の城を次々と脅かしていた。織田家中にも今川へ通じる者がいる。あとは信長がこの窮地でどう動くのか。それさえ掴めば、弥右衛門の長い務めにもようやく終わりが見える。
――これが最後の仕事になる。
そう思うと、梁の隙間から信長を見下ろす目にも、知らず力が入った。
尾張が今川のものとなれば、十余年にわたる働きに対して相応の褒美も得られるだろう。そうなれば駿河へ戻る必要もなくなり、中村へ帰ることを許されるかもしれない。
妻の仲。そして藤吉郎、小一郎、智、旭。
家族には、とうの昔に死んだ男と思われている。智と藤吉郎はすでに二十を越え、小一郎も立派な若者になっているはずだ。旭に至っては、最後に見た頃にはまだ幼かった。今さら父親だと名乗ったところで、果たして自分の顔を覚えているのだろうか。
胸の奥に浮かんだ思いを振り払うように、弥右衛門は再び眼下へ意識を集中させた。
やがて敦盛を舞い終えた信長は扇を閉じ、小姓へ向き直った。
「出るぞ」
短い一言で、城内の空気が変わった。
小姓が駆け出し、廊下の向こうから次々と声が上がる。先ほどまで静まり返っていた清洲城が目を覚ましたように騒がしくなり、出陣の支度をする者たちの足音が城内を駆け巡った。
「清洲にて座して待てば、義元に呑まれるだけよ。ならば、こちらから行く」
その言葉を聞いた瞬間、弥右衛門の目が細くなった。
籠城ではない。信長は自ら兵を率いて今川勢へ向かうつもりだ。
これを義元へ知らせればいい。織田勢が城外へ出ると分かっていれば、今川方も相応の備えができる。大軍を擁する今川が警戒を強めれば、織田方に付け入る隙などほとんど残らないだろう。
十余年。長かった。本当に長かった。
だが、これで終わる。
弥右衛門は音を立てぬよう、ゆっくりと腰を浮かせた。
今川が勝てば中村へ帰ろう。仲に詫び、藤吉郎にも小一郎にも父として頭を下げよう。智と旭にも会いたい。許してもらえるかは分からない。それでも残った人生くらいは、家族のために使いたい。
そう思った、その時だった。
轟音とともに、世界が真白になった。
「――っ!」
声を上げる暇さえなかった。経験したことのない衝撃が全身を貫き、手も足も言うことを利かなくなる。鼻を突く焦げ臭さを感じた直後、忍んでいた梁が裂け、屋根板が大きな音を立てて崩れた。
弥右衛門の小さな身体は木材とともに屋根裏から投げ出され、床へ強かに背中を打ちつけた。肺から空気が押し出され、何が起こったのかも理解できぬまま顔を上げると、冷たい刃が首筋に触れた。
「……お主、何者だ」
織田信長が立っていた。
つい先ほどまで眼下で敦盛を舞っていた男である。まだ若い。それでも真正面から向けられた眼光に、弥右衛門は身体の芯を冷たくさせた。
義元を遠目に見たことはある。駿河、遠江、三河を束ねる大大名だけあって、そこにいるだけで周囲の人間を従わせるような威厳があった。
だが、信長は違う。
こちらは抜き身の刃物だった。少しでも妙な動きをすれば、本当に首を落とされる。そんな確信を抱かせる目をしている。
「……」
答えようとしたが、声が出ない。
雷が落ちた場所から火が上がり、乾いた木へ瞬く間に燃え広がっていた。煙が喉を焼き、炎の熱が頬へ届く。逃げようにも目の前には刀を構えた信長がおり、身体は落雷の衝撃でまともに動かない。
弥右衛門は悟った。
ここで死ぬ。
家族に会えぬまま。
そう思った途端、仲、藤吉郎、小一郎、智、旭の顔が次々と浮かんだ。
もっと早く帰ればよかった。
今川のためだ、家族を守るためだと言い聞かせ、気づけば十年以上が過ぎていた。尾張を今川のものにすることが自分の務めであり、それを果たせば家族のもとへ帰れるのだと信じ続けてきた。
だが、本当にそうだったのだろうか。
仲が一人で四人の子を育てている間、自分は何をしていた。藤吉郎が成人するまでの年月を何一つ見ていない。小一郎がどんな男になったのかも知らず、娘たちが笑う顔すら幼い頃のものしか思い出せない。
今川が勝つか、織田が勝つか。
そんなことより、もっと大切なものがあったのではないか。
死を前にして、ようやく気づいた。
――馬鹿な男だ。
その時、記憶の中に見知らぬ女の顔が浮かんだ。
「……?」
仲ではない。
見たこともない装いをした、自分より背の高い女だった。弥右衛門が戸惑う間もなく、その女と過ごしたらしい情景が次々と押し寄せてくる。
天を突くほど高い建物。石でも木でもない平らな道。馬も牛も引いていないのに凄まじい速さで走る鉄の箱。夜だというのに昼のように明るい町。そして、手の中に収まる薄い板を誰もが当たり前のように操っている。
「ぐ……ぁ……」
弥右衛門は頭を押さえた。
知らない。どれも一度として見たことがない。それなのに、なぜか名前が分かる。
鉄の箱は車。天を突く建物はビル。手の中の板はスマートフォン。
知らない言葉の意味が、知らない人生の記憶とともに頭の中へ流れ込んでくる。
「織田……信長……」
自分の意思とは関係なく、口が動いた。
信長の眉がわずかに動く。
「何?」
さらにもう一つ、よく知る名が浮かんだ。
「木下……藤吉郎……」
そこまでは分かる。自分の息子だ。
だが、その後に続いた名前を弥右衛門は知らなかった。
「豊臣……秀吉……?」
豊臣。聞いたこともない姓である。
ところが、その名とともに途方もなく巨大な城が浮かび、金色に輝く広間で無数の武士を従える一人の男が見えた。年老いてはいるが、幼い頃の藤吉郎にどこか面影がある。
「俺が……豊臣秀吉の父親……?」
また、自分ではない言葉が口から漏れた。
その瞬間、弥右衛門はようやく理解した。
誰かがいる。
自分の中に、自分ではない何者かが入り込んでいる。
「わけの分からぬことを申すな。何者だと聞いておる」
信長の刃が首筋へわずかに食い込んだ。周囲では炎が大きく爆ぜ、死が刻一刻と近づいている。
それなのに、弥右衛門の身体は不意に落ち着きを取り戻し始めた。
自分ではない。
中に入ってきた何者かが、恐怖に呑まれかけた思考を立て直そうとしている。
織田信長、今川義元、桶狭間、透破、遁尾衆、情報、生き残る方法。断片的な思考が流れ込んできたかと思うと、弥右衛門の口が再び開いた。
「我が名は、木下弥右衛門。今川に仕えし透破の頭領よ」
先ほどまでとは違い、声には震えがなかった。信長がわずかに目を細める。
「我が力をお主に貸そう。交渉次第では――今川義元を討つ機会を、約束してやる」
自分なら絶対に言わない言葉だった。
十余年仕えた主を売り、それを命を拾うための札として切る。だが、不思議と怒りは湧かなかった。弥右衛門にはもう、自分の身体を動かす力すら残っていなかったからだ。
意識が少しずつ薄れていく一方で、自分の中に入り込んだ何者かの存在は逆に濃くなっていく。
そこで、ようやく理解した。
――自分は、ここまでなのだ。
その時、頭の中に自分のものではない声が響いた。
(思い残すことはないか?)
弥右衛門は笑ったつもりだった。実際に身体が笑えたかどうかは分からない。
思い残すことなど、いくらでもある。
仲に謝りたい。藤吉郎がどんな男になったのか、この目で見たい。小一郎と酒を酌み交わしてみたい。智と旭が嫁いでいく姿も見たかった。
だが、もう叶わない。
ならばせめて、最後に一つだけ。
(私の家族を、この世で一番幸せにしてくれないか)
少し間を置き、弥右衛門はもう一つだけ願いを加えた。
(皆が、生きていてよかったと思えるように)
返事はすぐに来た。
(わかった。あとは任せておけ)
力強い声だった。
その言葉を聞いた瞬間、不思議なほど心が軽くなった。
十余年も家族を置き去りにした男が、最後の最後になってその行く末を他人へ託す。あまりにも勝手な願いだとは分かっている。
それでも、なぜだろう。
この男なら、何とかしてくれるような気がした。
仲。藤吉郎。小一郎。智。旭。
――すまなかった。
そして、どうか幸せに。
それを最後に、木下弥右衛門の意識は静かに闇へ沈んでいった。
秀吉の父に関する事はほぼ分かっていないので、そこを創作で補っていきます。生年は不明のため、1516年(永正13年)生まれで、物語開始時点は44歳という設定です。
3話までは本作のプロローグになります。
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