第2話:鎖なんて、もうない
水を飲み、パンを二つ食べたところで、ようやく落ち着いた。
葬儀は当然ながら中止になった。
医師が呼ばれ、マリアの身体を調べたが、異常は見つからなかった。
「奇跡です……!」
医師は涙ぐんでいた。
死んだ人間が棺桶から出てきたのだから、奇跡と呼びたくなるのも無理はない。
マリア自身は、自分の身体に違和感を覚えっぱなしだった。
目覚めてからずっと、身体の奥の温かいものが、勝手に全身を巡っている。
閉め忘れた蛇口から、水が流れ続けているような感覚だった。
(あとで、ちゃんと調べないとな)
「それで」
応接室の椅子に座り、マリアは父を見た。
「私の荷物は、どこにある?」
「……荷物?」
「服と金だ。家を出るからな」
父の顔が赤くなった。
「馬鹿なことを言うな! お前は伯爵家の娘だぞ!」
「らしいな」
「ならば、父親の命令に従え!」
「なぜだ?」
父が固まった。
隣に座っていたイザベラも、目を丸くしている。
「お、お姉様……? どうして、そんな話し方を……」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
マリアは妹を眺めた。
この娘が、自分を突き飛ばした。
その結果、マリアは死んだ。
「それより、お前」
「ひっ……!」
「私を突き飛ばしたよな」
「ち、違うわ! ちょっと押しただけで……!」
「葬式でも、そう叫んでたな。参列者全員の前で」
イザベラの顔から、血の気が引いた。
「まあ、私にとっては関係ないことだ」
「え……?」
父が机を叩く。
「いい加減にしろ! 家族に心配をかけておいて、その態度は何だ!」
「心配?」
マリアは首をかしげた。
「いや、お前、ホントに心配してたのか? こいつの婚約者を奪っておいて?」
マリアは親指で自分の胸を指した。
父は黙った。
代わりに、イザベラが立ち上がった。
「出ていきたいなら、出ていけばいいのよ! お姉様なんか、どうせ誰にも必要とされていないんだから! レオン様だって、私を選んだのよ!」
「レオン?」
マリアは記憶をたどった。
金髪で、いつも妹のほうばかり見ていた男。
そういえば、葬儀の席にもあの顔はなかった。
「……ああ、あのキザで薄情そうな男か」
少し考えてから、うなずく。
「いいんじゃないか」
「……は?」
「欲しかったんだろ? とりあえずとっとけよ」
イザベラの口が、ぱくぱくと動いた。
奪ったはずのものを、相手は拾いもしない。
それがどういうことなのか、彼女にはうまく呑み込めないようだった。
マリアは立ち上がった。
「荷物をまとめてくる」
「待て! お前など、一人で生きていけるものか!」
「だったらほっといてくれ」
父が使用人に目配せした。
二人の男が扉の前に立つ。
「お嬢様。お部屋へお戻りください」
「いや、荷物を取りに行くんだが」
「旦那様のご命令ですので……」
「なら、ちょっと失礼」
マリアは二人の間を抜けようとした。
一人が腕をつかんでくる。
反射的に、その手首を取った。
軽くひねる。
「うわっ!?」
男が床に膝をついた。
もう一人が慌てて近づいてきたので、肩を押して距離を取る。
それだけで、男は数歩後ろによろめいた。
「……あれ?」
力を込めたつもりはなかった。
垂れ流しの魔力が、勝手に腕を強くしているらしい。
「すまん。痛かったか?」
「い、いえ……」
「ならいい」
マリアは扉を開けた。
背後で父が怒鳴っていたが、聞く必要はなかった。
◇
自室に戻り、荷物をまとめた。
服が数着。古い靴。小さな鞄。
そして、銀貨が七枚と、銅貨が十数枚。
「……少ないな」
伯爵令嬢の財布とは思えない。
だが、当面の食費くらいにはなるだろう。
机の引き出しの底を探ると、布に包まれた銀の髪留めが出てきた。
亡き母の形見だった。
これだけは、置いていけない。
マリアの記憶が、そう言っていた。
埋葬衣を脱ぎ、手持ちの服に着替える。
白い布を外し、長い髪を後ろで束ねて、母の髪留めで留めた。
鏡の前に立つ。
十八歳の少女が映っていた。
細い肩。青白い顔。
そして、妙に怯えたような目。
この娘は、ずっと怖かったのだろう。
何をしても怒られる。逆らえば叱られる。逃げようとしても、どうせ無理だと思い込んでいた。
ふと、前世で聞いた話を思い出した。
幼い象を鎖につないでおくと、成長して鎖を引きちぎれるほどの力を得ても、逃げようとしなくなるという。
学習性無力感。
何度も失敗を経験するうちに、状況を変えようとする意欲そのものが失われる。
マリアも、そうだったのかもしれない。
魔力はある。屋敷じゅうの魔道具を、たった一人で動かせるほどに。
それなのに、自分には何もできないと思い込んでいた。
「……馬鹿馬鹿しい」
マリアは鞄を肩にかけた。
「鎖なんて、もうないじゃないか」
部屋を出る。
廊下には、イザベラが立っていた。
さっきまでの勢いは消え、目に涙を浮かべている。
「お姉様……私、本当に、死んじゃうなんて思わなかったの……!」
「だろうな」
マリアは妹の横を通り過ぎた。
「次から気をつけろ。人間、頭の打ちどころが悪ければ死ぬんだ」
イザベラが息をのんだ。
「まあ、私は運がよかったらしいが」
それだけ言って、歩き出す。
イザベラは追ってこなかった。
屋敷の門を出るとき、マリアは一度も振り返らなかった。




