第8話 迷子の初級魔導書
放課後、アリアはリタの個別指導の誘いを結局受けることにした。そのための予習として、メアリと連れ立って、初めて学園の図書館を訪れることになった。
「図書館なんて、入学式の日にちらっと見ただけだよね」
「うん、私も。ちょっと緊張するな」
放課後の廊下は、部活動や委員会に向かう生徒たちで賑わっていた。すれ違う上級生たちの制服の色が、学年ごとに微妙に異なることに、アリアは今更ながら気づく。
「あ、あの襟の色、二年生かな」
「みたいだね。三年生になると、また違う色になるんだって。メアリの先輩が言ってた」
他愛のない話をしながら、二人は連れ立って、学園の中央に位置する荘厳な建物へと向かった。近づくにつれ、石造りの重厚な外観が、次第にその全貌を現していく。塔のように高くそびえる尖塔には、蔦植物が絡みつき、長い年月を感じさせる風格を漂わせていた。
「なんか、お城みたいだね」
「うん……。こんな立派な建物、故郷の村には一つもなかったな」
アリアは思わず足を止め、見上げた。石造りのアーチを描く正面玄関には、精緻な彫刻が施され、そこに描かれているのは、本を抱えた古の賢者の姿だという。学園の創設者の一人を象ったものらしい、とメアリが教えてくれた。
王立マグノリア魔法学園の図書館は、噂に違わぬ威容だった。天井まで届く本棚がいくつも連なり、宙に浮かぶ小さな光球がふわふわと通路を照らしている。革張りの古い本の匂いと、どこかひんやりとした空気が、独特の静謐さを醸し出していた。
「わあ……」
メアリが感嘆の声を漏らす。アリアもまた、その壮大さに思わず立ち尽くした。
「こんなにたくさんの本、一生かかっても読み切れないよね……」
見上げれば、天井近くまで届く本棚には、梯子のような可動式の階段が備え付けられており、時折、上級生らしき生徒がするすると器用に上り下りしている姿が見えた。奥の方には、閲覧席がいくつも並び、静かにペンを走らせる生徒や、分厚い書物に没頭する生徒の姿もちらほらと見受けられる。
「なんか、空気まで違う気がする」
「うん……不思議と、しんとしてるのに、居心地いいね」
二人でひそひそと囁き合いながら、目当ての棚を探して歩き回る。案内板には属性ごとに区分けされた分類記号が記されていたが、初めて見る記号の羅列に、二人はすぐに迷子になりかけた。
「えっと、風属性は……『F』の棚、だよね? でも、F棚がどこにあるのか分からない……」
「本当だね……。えっと、初級の制御についての本は、どこにあるんだろう」
二人がきょろきょろと辺りを見回していると、案内板の近くに座っていた司書の女性が、静かに顔を上げた。
「お探しの本があるなら、お手伝いしますよ」
落ち着いた声の主は、眼鏡をかけた、物静かな雰囲気の女性だった。年齢は判然としないが、どこか達観したような、不思議な佇まいを纏っている。
「ソフィア、と申します。図書館の司書を務めています」
「あ、ありがとうございます。えっと、風属性の出力制御について書かれた、初級者向けの本を探しているんですが……」
「ふむ。それでしたら、こちらの棚がよろしいかと」
ソフィアは静かに立ち上がると、迷いのない足取りで、奥まった棚の一角へと二人を案内した。長い廊下のような通路を抜けるたび、光球の光がふわりと揺れ、まるで道案内をしてくれているかのようだった。
「この学園の図書館は、開設から二百年以上の歴史があります。歴代の卒業生たちが遺した研究資料も、数多く収められているんですよ」
「に、二百年……!」
「ええ。中には、今ではもう存在しない属性の研究記録なども、眠っているとか、いないとか」
意味深に微笑むソフィアに、アリアとメアリは顔を見合わせた。今ではもう存在しない属性——それがどういう意味なのか、二人にはまだ知る由もなかった。
ソフィアに案内され、目当ての本を見つけたアリアとメアリは、近くの閲覧席に腰を下ろした。分厚い本のページを繰りながら、アリアは夢中になって文字を追いかけた。
「見て見て、ここに『心象風景法』っていう制御法が書いてある。心の中に静かな場所をイメージすることで、魔力を安定させるんだって」
「へえ、面白そう。アリアちゃん、試してみる?」
「うん、やってみたい」
二人で本を読み進めていると、ふと、少し離れた棚の陰から、押し殺したような小さな声が聞こえてきた。
「……っ、く……」
誰かが泣いているような、苦しんでいるような声。アリアとメアリは顔を見合わせ、そっとその方向に足を向けた。
棚の隙間に、しゃがみ込んでいる小柄な女子生徒の姿があった。床には、開いたままの本が数冊散らばっている。
「あの、大丈夫ですか?」
声をかけると、女子生徒はびくりと肩を震わせ、慌てて顔を上げた。眼鏡の奥の目に、涙が滲んでいる。
「あ……ご、ごめんなさい、お見苦しいところを……」
「いえ、そんな。何かあったんですか?」
女子生徒――名を聞けば、一年生の図書委員だというクララは、しゃくりあげながら事情を話し始めた。
「わ、私、司書見習いをしているんですけど……蔵書整理を任された初級魔導書を、一冊、失くしてしまって……。見習いになって初めての大仕事だったのに……」
クララの話によれば、貴重な初級魔導書――基礎魔法の解説が詰まった、入学生にとって欠かせない一冊――が、書架のどこにも見当たらないのだという。
「探しても探しても見つからなくて……。このままじゃ、先輩方に合わせる顔がありません……」
「わ、私たちも一緒に探します! ね、アリアちゃん」
「うん、もちろん!」
「その本、どんな見た目をしているんですか?」
アリアが尋ねると、クララは涙を拭いながら、しゃくりあげるように答えた。
「え、えっと……焦げ茶色の表紙で、背表紙に『初級魔導基礎』って金の文字が入ってて……結構、使い込まれてて、角が少しすり減ってるんです」
「分かりました。私たちも、その特徴を頭に入れて探しますね」
三人で手分けをして、周辺の棚を探し始める。アリアは慎重に、本の背表紙を一つひとつ確認していった。棚の隙間や、机の下、返却待ちの台車の陰まで、思いつく限りの場所を探し回る。
(迷子の本、か……。図書館って、思ったより奥が深いんだなあ)
メアリは、近くの生徒に「焦げ茶色の表紙の本、見ませんでしたか?」と声をかけて回っていた。人懐っこいメアリの性格が、こういう時に頼もしく感じられる。
「うーん、見てないなあ。でも、探すの手伝おうか?」
声をかけられた上級生の男子生徒が、気軽にそう申し出てくれた。図書館という静かな空間の中で、思いがけず輪が広がっていくのを、アリアは少し不思議な気持ちで眺めていた。
しばらく探し回るうち、アリアはふと、返却棚の一番下、他の本の陰に隠れるようにして置かれた、薄汚れた表紙の本に目を留めた。
「あ、これかも……?」
拾い上げて確認すると、まさにクララが探していた初級魔導書だった。おそらく、誰かが返却する際に、棚を間違えてしまったのだろう。
「あった、あったよ、クララさん!」
「え……! ほ、本当に……!」
クララは本を受け取ると、まるで宝物のようにぎゅっと抱きしめ、大粒の涙をこぼした。
「あ、ありがとうございます、本当に、ありがとうございます……!」
その様子を、少し離れた場所から、静かに見つめる人物がいた。司書のソフィアだった。彼女は眼鏡の奥で、わずかに目を細める。
「……あなたたち、なかなか良い心がけをお持ちのようですね」
「え?」
「いえ、独り言です。……この図書館には、時々、変わったものが眠っているものですよ。もし気が向いたら、また覗いてみるといいでしょう」
どこか意味深なその言葉を残し、ソフィアはするりとその場を離れていった。アリアとメアリは顔を見合わせ、首を傾げる。
「なんか、意味深な言い方だったね……」
「うん……気になるけど、今日はもう帰ろっか」
クララは何度も何度も頭を下げながら、お礼にと、アリアたちに使いやすい参考書を何冊か見繕ってくれた。
「これ、初級者向けにすごく分かりやすくまとめられてるので、良かったら」
「わあ、ありがとうございます!」
思いがけない収穫に、二人は顔を見合わせて笑った。手伝ってくれた上級生の男子生徒にも、クララは深々と頭を下げてお礼を言っていた。
「本当にありがとうございました。皆さんのおかげで、先輩方に合わせる顔ができました」
「いえいえ、大変でしたね。無事に見つかって良かったです」
「あの、もし良ければなんですけど……今度、何か分からないことがあったら、いつでも聞いてください。司書見習いとして、少しはお役に立てると思うので」
クララははにかみながら、そう申し出てくれた。アリアとメアリは顔を見合わせ、思わず笑みをこぼす。
「ありがとうございます、心強いです」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
こうして、思いがけない形で、図書館にもう一人、心強い顔なじみができたのだった。
帰り道、夕暮れの回廊を歩きながら、メアリがぽつりと呟いた。
「今日、図書館に来てよかったね。本も借りられたし、クララさんとも仲良くなれたし」
「うん、本当に。それに——」
アリアはふと、ソフィアの意味深な言葉を思い出していた。
(変わったものが眠っている、か……。何のことだろう)
好奇心が疼いたが、今日のところは深く考えないことにした。借りた制御法の本を大切に抱えながら、アリアは静かに、けれど確かな高揚感を胸に、寮への道を歩いていった。
夜、部屋に戻ったアリアは、早速借りてきた本を開き、『心象風景法』についてのページを熟読した。鞄から出てきたクロノも、興味深げにページを覗き込む。
「ほう、こういう手法もあったか。悪くなかろう」
「今度、リタ先生との個別指導で試してみようと思って」
「うむ、良い心がけだ。だが、本に頼りすぎず、実践の中で己の感覚を磨くことも忘れるでないぞ」
クロノの助言に頷きながら、アリアは静かに本を閉じた。窓の外、二つの月が今夜も優しく輝いていた。図書館での新しい出会いと発見を胸に、アリアの学園生活は、また一つ、豊かな彩りを増していた。




