第9話 個別指導
放課後の実技棟、人気の少ない小演習場で、アリアはリタとの初めての個別指導を受けていた。夕方の柔らかな光が、演習場の白い壁をほんのりと橙色に染めている。
「では、さっき図書館で見つけたという『心象風景法』、試してみましょうか」
「は、はい……」
「緊張しなくて大丈夫よ。まずは、深呼吸から始めましょう」
リタに促され、アリアは大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。肩の力が、少しずつ抜けていくのが分かる。
「目を閉じて。そして、あなたにとって一番安らげる場所を思い浮かべてみて」
リタに促され、アリアは目を閉じた。本で読んだ通り、心の中に、静かで安らかな場所を思い描く。
(静かな場所……)
思い浮かんだのは、故郷の薬草畑だった。朝露に濡れた葉、遠くの山並み、母が鼻歌交じりに薬草を摘む後ろ姿。あの穏やかな時間が、アリアにとって最も「静かな場所」だった。風が畑を撫でる音、土の匂い、遠くで鳴く鳥の声――記憶の中の光景は、驚くほど鮮明に蘇ってきた。
心の中にその光景を広げていくと、不思議なことに、体の奥でざわめいていた莫大な魔力が、すうっと凪いでいくのを感じた。
「……あ」
「どう? 何か変化はあった?」
「はい……なんだか、いつもより、ずっと落ち着いてる気がします」
リタは満足げに頷いた。
「それが心象風景法の効果よ。自分だけの『静かな場所』を持っていると、感情が乱れた時でも、魔力を安定させる助けになるの。人によって、思い浮かべる景色は様々よ。海辺だったり、暖炉の前だったり」
「先生の『静かな場所』は、どんな景色なんですか?」
ふと気になって尋ねると、リタは少し照れくさそうに微笑んだ。
「私の場合は、子供の頃によく遊んだ、古い教会の鐘楼ね。今でも、目を閉じるとあの鐘の音が聞こえてくるの」
「素敵な景色ですね……」
「ふふ、ありがとう。さあ、今度はあなたの番。もう一度、薬草畑の景色を思い浮かべながら、指先に意識を集中してみて」
そんな他愛のない会話を交わしながら、アリアは実際に指先で小さな風を生み出してみた。いつもより格段に制御しやすく、危うさのない、澄んだ渦を作ることができた。
「わあ……いつもより、ずっと安定してる」
「素晴らしいわ。じゃあ、次は少し応用してみましょう。その渦を、ゆっくりと二つに分けてみて」
「二つに……? そんなこと、できるんでしょうか」
「大丈夫、焦らなくていいから、少しずつね」
言われた通り、アリアは慎重に意識を割り振っていく。最初はうまくいかず、渦が一つに戻ってしまったが、何度か試すうち、指先に、小さな二つの風の粒がふわりと生まれた。
「できた……! 先生、できました!」
「見事だわ。初めてでここまでできる子、本当に珍しいのよ」
リタの惜しみない賞賛に、アリアは頬を紅潮させながら、素直な喜びを噛みしめていた。
「素晴らしいわ。もう、初級班の域を超えているんじゃないかしら」
「そ、そんな……! まだまだです」
慌てて謙遜するアリアに、リタはくすりと笑った。
「謙虚なのはいいことだけれど、自分の成長は、もっと素直に喜んでもいいと思うわよ」
その言葉に、アリアは少しだけ照れくさそうに俯いた。それから小一時間ほど、リタは風の渦の大きさを段階的に変える練習や、複数の渦を同時に操る簡単な応用まで、丁寧に指導してくれた。失敗しても決して咎めず、むしろ「今のは惜しかったわね」と、前向きな言葉をかけ続けてくれるリタの指導は、アリアにとって、これまでにない安心できる時間だった。
途中、汗を拭うアリアに、リタは涼やかな飲み物を差し入れてくれた。
「はい、水分補給も大事よ。魔力を使うと、思った以上に体力を消耗するから」
「ありがとうございます……。あの、先生は、いつからこの学園で教えてらっしゃるんですか?」
「もう五年になるかしら。私自身、この学園の卒業生でね。恩師に憧れて、教師になったの」
リタは懐かしそうに目を細めながら、少しだけ昔話をしてくれた。学生時代、彼女もまた、風属性の制御に苦労した時期があったのだという。
「だから、あなたの気持ち、少しは分かるつもりよ。焦らなくていいの。一歩ずつでいいから」
その言葉が、アリアの胸に静かに染み込んでいった。
指導の終わり際、リタはふと、思い出したように尋ねた。
「そういえば、ローゼンさんは、なぜ風属性の中でも、そんなに『弱く』見せようとしているのかしら?」
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
(な、なんで、そんなこと……!)
「え、えっと、それは……」
しどろもどろになるアリアを見て、リタは慌てたように手を振った。
「ああ、ごめんなさい、詮索するつもりじゃなかったの。ただ、あなたの魔力の『質』そのものは、決して弱くないように感じたものだから」
「そ、それは……気のせいだと思います、多分……」
しどろもどろになりながら誤魔化すアリアに、リタはそれ以上追及することなく、穏やかに微笑んだ。
「まあ、人にはそれぞれ事情があるものね。無理に聞き出すつもりはないわ。ただ——」
リタの声が、ふと優しさを増した。
「もし、いつか話したくなったら、いつでも聞くから。私はあなたの味方よ」
その言葉に、アリアの胸の奥が、じんわりと温かくなった。秘密を抱えたまま生きることに慣れてしまっていたけれど、こうして味方だと言ってくれる大人がいるということが、こんなにも心強いのだと、初めて実感した気がした。
「……ありがとうございます、リタ先生」
「どういたしまして。さ、今日はここまでにしましょう。頑張りすぎず、ゆっくりね」
リタは道具をまとめながら、最後にもう一言、付け加えた。
「それと、次回はもう少し実践的な演習も取り入れてみましょうか。あなたなら、きっとすぐに慣れると思うから」
「は、はい、頑張ります」
少し緊張しつつも、期待に胸を膨らませながら、アリアは頷いた。
演習場を出て、夕暮れの回廊を歩きながら、アリアは今日の出来事を反芻していた。心象風景法、リタの優しさ、そして「味方」という言葉。
鞄の中から、クロノの小さな声が聞こえた。
「良い先生に出会えたようだな」
「うん……なんか、今日はすごく、心が軽い気がする」
「その調子でいい。無理に一人で抱え込む必要はないのだぞ」
クロノの珍しく優しい言葉に、アリアは小さく頷いた。空を見上げると、茜色の夕焼けが、少しずつ藍色へと移り変わろうとしていた。
寮の入り口の少し手前で、アリアはふと、噴水の縁に腰掛けている人影に気づいた。プラチナブロンドの髪――リアムだった。彼は本を片手に、誰かを待つでもなく、ただぼんやりと空を見上げている。
(あ……)
気づかれないうちに通り過ぎようとしたが、間の悪いことに、リアムの方が先にこちらを向いた。
「アリア嬢。奇遇だな」
「あ……こ、こんばんは」
気まずさを押し殺しながら、アリアは小さく会釈をした。リアムは本を閉じ、少し考えるような間を置いてから、静かに口を開いた。
「この間は、変なことを聞いて悪かった。それに、放課後の中庭でも……見るつもりはなかったんだが、つい」
「い、いえ、そんな……」
「ただ」
リアムの空色の瞳が、まっすぐにアリアを捉えた。
「君は、いつも何かを隠しているように見える。無理に聞き出すつもりはないが……もし困ったことがあれば、遠慮なく言ってほしい。曲がりなりにも、同じクラスの仲間だ」
その言葉に他意はないようだった。ただ純粋な、気遣いの言葉。アリアは思わず言葉に詰まった。
「……ありがとう、ございます」
それだけを返すのが、精一杯だった。リアムは小さく頷くと、それ以上は何も聞かず、静かに立ち上がった。夜風が、彼のプラチナブロンドの髪を優しく揺らす。
「では、また授業で」
そう言い残し、リアムは去っていった。残されたアリアは、しばらくその場に立ち尽くしていた。優しさと不安が入り混じった、複雑な感情が胸の中で渦を巻いている。
(リアム様……本当に、何も知らないよね……? それとも……)
答えの出ない問いを抱えたまま、アリアはゆっくりと寮への階段を上っていった。部屋に戻り、窓辺に立って夜空を見上げると、二つの月が、今夜も静かに輝いていた。
夕食を終え、自室に戻ったアリアは、寝台に腰掛けて、鞄からするりと抜け出したクロノに、今日一日の出来事を振り返って話した。
「クロノ、聞いて。リタ先生に、心象風景法をすごく褒めてもらえたの。それに、応用の練習も、思ったよりうまくできて」
「ほう。それは重畳。お前の努力が、少しずつ形になっておるということだろう」
「うん……。でも、リアム様に、変なこと聞かれちゃった。何か隠してるみたいだ、って」
クロノは金色の瞳をわずかに細め、しばし黙り込んだ。
「……あの小僧、存外、鋭いところがあるな。じゃが、案ずるな。あの言葉には、悪意も企みもなかったように儂には感じられた」
「そう、なのかな……」
「うむ。ただの、素朴な気遣いよ。無論、油断は禁物だがな」
クロノの言葉に、アリアは少しだけ肩の力を抜いた。今日一日で得た、心象風景法という新しい術と、リタやリアムから向けられた思いがけない優しさ――それらを胸に抱きながら、アリアは小さく息をついた。
「ねえ、クロノ。私、最初は目立たないように、地味に過ごすことばかり考えてたけど……最近、ちょっとずつ、色んな人と関わることが増えてきた気がする」
「うむ、確かにな」
「これって……悪いことなのかな」
クロノは、ふさふさの尻尾でアリアの手をぽんと叩いた。
「悪いことなど、あろうはずがない。むしろ、お前がそうして少しずつ心を開いていく様は、見ていて悪くないものだ」
その素っ気ない、けれどどこか優しい言葉に、アリアはくすりと笑った。窓の外、二つの月が、いつもより一層柔らかく輝いているように見えた。
「……明日も、頑張ろう」
誰に言うでもなく呟いたその言葉には、これまでにない、確かな前向きさが滲んでいた。心象風景法という新しい支えと、リタやリアム、そしてクロノという味方を胸に、アリアの学園生活は、少しずつ、けれど確かに、豊かな色彩を帯び始めていた。




