第7話 実技授業意外な発見
風属性初級班、通称Dクラスの実技授業は、実技棟の一番端にある、こぢんまりとした演習場で行われていた。周囲を背の高い生垣に囲まれ、風がよく通る、いかにも風属性の練習にふさわしい場所だった。
「今日から実技指導を担当する、リタです。よろしくお願いします」
現れたのは、意外にも若い女性教師だった。ふわりとした亜麻色の髪を一つに結い、優しげな面差しをしている。年齢は二十代半ばほどだろうか、その若々しさに、生徒たちの間にも自然と親しみやすい空気が漂った。
「初級班とはいえ、侮らないでくださいね。基礎こそが、すべての土台になりますから」
リタの声は穏やかだったが、その言葉には確かな重みがあった。集まった十数名の生徒たち——トビアスの姿もある——が、真剣な面持ちで頷く。
「今日はまず、風を『感じる』練習から始めましょう。目を閉じて、自分の周りの空気の流れを意識してみてください」
アリアは言われるままに目を閉じた。最初は何も分からなかったが、次第に、頬をかすめる微かな空気の揺らぎ、遠くの木々のざわめきが、これまでとは違う解像度で感じられるようになってくる。
(あ……すごい。これが、風を感じるってことなんだ)
今まで、風は単なる「制御して抑え込むべき力」でしかなかった。けれど、こうして意識を澄ませてみると、それはまるで、生きて呼吸をしているかのような、豊かな存在に感じられた。
「感じられた人は、そっと手を挙げてみて」
周りを見回すと、意外にも、手を挙げているのはまだ数人だけだった。アリアもおずおずと手を挙げる。
「あら、ローゼンさん、早いですね。素晴らしいわ」
リタに褒められ、アリアは驚きと戸惑いで頬を赤らめた。
(え……私、褒められた……? しかも、こんなに早く……?)
思えば、初級班に配属されたのは、あくまで「出力を抑えていた結果」であって、風属性そのものへの感受性が低いわけではない。むしろ、常に精密なコントロールを強いられてきたアリアにとって、繊細な感覚を研ぎ澄ますことは、案外得意な部類だったのかもしれなかった。
「じゃあ、次は実際に、指先に小さな風の渦を作ってみましょう。無理に大きくしようとせず、まずは小指の先ほどの、ごく小さなものから」
周囲の生徒たちが、ぎこちなく手をかざし始める。トビアスなどは、盛大に空振りして苦笑していた。
「うーん、全然できないなあ……」
「トビアスくん、肩に力が入りすぎているわ。もっと、優しく」
リタは生徒たち一人一人の様子を丁寧に見て回りながら、的確なアドバイスを送っていく。その姿には、初級班を軽んじることのない、真摯な教師としての心構えが感じられた。
アリアはそっと自分の指先に意識を集中させた。昨日、放課後の練習で掴んだあの感覚――力を使わないのではなく、使いこなす、というあの感触を思い出しながら。
すると、指先に、ふわりと小さな風の渦が生まれた。危なげなく、安定した渦。まるで、小さな子猫がくるくると戯れているかのような、愛らしい動き。
「あら、ローゼンさん、もうできているじゃない。とても綺麗な制御ね」
リタが感心したように歩み寄ってくる。周囲の視線が、一斉にアリアへと集まった。
「え、あ……」
(目立たないようにって、決めてたのに……!)
冷や汗が背中を伝う。だが、周りの生徒たちの反応は、アリアが恐れていたものとは少し違っていた。
「すげー、アリアちゃんセンスあるじゃん!」
「私にもコツ教えて!」
トビアスをはじめ、クラスメイトたちが次々と声をかけてくる。悪意や嫉妬ではなく、素直な感心と好奇心。アリアは戸惑いながらも、初めて感じる種類の温かさに、少しだけ緊張が緩むのを感じた。
「あ、えっと……力を、こう、優しく撫でるみたいなイメージで……」
たどたどしく説明するアリアの周りに、いつの間にか小さな人だかりができていた。誰かに何かを教えるという経験も、これまでほとんどしたことがなかったアリアにとって、それは新鮮で、少し誇らしい感覚だった。
「なるほどなあ、撫でるみたいに、か。ちょっとやってみるわ」
トビアスが再び挑戦すると、先ほどよりも安定した、小さな風の粒が指先に生まれた。
「お、できた! できたぞ!」
興奮気味に声を上げるトビアスに、周囲から拍手が起こる。その和やかな空気の中に、アリアも自然と溶け込んでいた。
授業の終わり、リタがアリアのもとに近づいてきた。
「ローゼンさん、あなた、かなり筋がいいわ。もし良ければ、放課後、少し個別に指導してもいい?」
「え、えっと……」
断る理由もなく、かといって目立つのも怖い。アリアが返事に迷っていると、リタは優しく笑った。
「無理にとは言わないわ。でも、あなたのその制御力、きちんと伸ばせば、きっと素敵な武器になると思うの」
その言葉が、アリアの胸に静かに残った。今まで「抑えること」ばかりを考えてきたけれど、この繊細な制御力そのものが、実は自分だけの強みなのかもしれない——そんな、これまで思いもよらなかった視点が、ふと芽生え始めていた。
夕食の席で、アリアは興奮気味にその日のことをメアリに話した。
「リタ先生に褒められたの。制御が綺麗だって」
「わあ、すごいじゃん! アリアちゃん、実はすごい才能あるんじゃない?」
「そ、そんな大げさな……ただ、抑えるのが得意なだけで」
「それだって立派な才能だよ! 私なんて、まだ全然、水の玉ひとつ作れないもん」
メアリは唇を尖らせながらも、心から嬉しそうにアリアの手を取った。二人でそんな他愛のない話に花を咲かせる時間が、アリアにとってはかけがえのないものになりつつあった。
「そういえば、水属性の授業ってどんな感じなの?」
「うーんとね、水を『感じる』ところから始まるのは同じなんだけど、風と違って、目に見える形が変わりやすいから、コントロールがすごく難しいの。すぐ形が崩れちゃって」
「なるほどね……属性によって、コツも全然違うんだね」
二人であれこれと授業の内容を比べ合いながら、食後のデザートをゆっくりと楽しんだ。
夜、部屋に戻ったアリアは、寝台の縁に腰掛けたクロノに、今日の出来事を報告した。
「クロノ、聞いて。リタ先生が、個別指導してくれるって言ってくれたの」
「ほう。それは重畳」
「でも、目立つの怖いから、どうしようか迷ってて……」
クロノは金色の瞳を細め、しばし考え込むように黙った。
「……アリアよ。儂の見立てでは、お前はもう十分に『目立って』おる。今さら少々の個別指導ごときで、状況が大きく変わるとは思えん」
「え、それって……」
「ならば、隠すことに汲々とするより、伸ばせるものは伸ばしておいた方が、いざという時の備えになろう。それに」
クロノはふさふさの尻尾で、軽くアリアの手を叩いた。
「お前が楽しそうにしておるのは、悪いことではないぞ」
その素っ気ない、けれどどこか優しい言葉に、アリアはくすりと笑った。
「……うん。ちょっと、考えてみる」
窓の外では、今日も静かに二つの月が輝いていた。目立たずに過ごすという最初の決意は、少しずつ形を変えながらも、アリアの新しい学園生活の中で、着実に色づき始めていた。
翌日の放課後、アリアは結局、リタの個別指導を受けることに決めた。迷いに迷った末の決断だったが、クロノの後押しが、最後の一歩を踏み出す勇気をくれたのだった。
実技棟の小さな演習場で、リタが穏やかに微笑みながら待っていた。
「来てくれて嬉しいわ。無理をさせるつもりはないから、気楽にね」
「よ、よろしくお願いします」
緊張気味に頭を下げるアリアに、リタは笑いかけると、まずは軽いストレッチのような動作から指導を始めた。体の力を抜き、風の流れを感じ取るための準備運動だという。
「風属性の制御で大事なのは、力そのものよりも、意識の向け方なの。あなたはもう、その感覚を掴みかけているみたいだけど」
「そう、なんでしょうか……」
「ええ。今日の授業でも、みんなが苦戦している中、あなただけは、まるで最初から風と友達だったみたいに、自然に扱っていたもの」
その言葉に、アリアは思わず頬を緩めた。自分では気づいていなかった長所を、こうして丁寧に言葉にしてもらえることが、こんなにも嬉しいことだとは知らなかった。
「じゃあ、次は少し応用に挑戦してみましょうか。小さな風の渦を、今度は思い通りの方向に動かしてみて」
言われた通り、アリアは指先に生み出した風の渦を、ゆっくりと右へ、左へと動かしてみる。最初はぎこちなかったが、次第に滑らかな軌道を描けるようになっていった。
「素晴らしいわ! 初級班の生徒で、ここまでできる子は、正直あまり見たことがないの」
リタの惜しみない賞賛に、アリアは照れくさそうに俯いた。
「あ、ありがとうございます……」
「謙遜しなくていいのよ。あなたには、確かな才能がある。それをちゃんと、自分でも認めてあげてね」
その言葉は、アリアの胸の奥深くに、静かに、けれど確かに染み込んでいった。今まで「目立たないように」と自分の力を否定し続けてきたけれど、認めてもらえることの喜びを、初めて実感した瞬間だった。
個別指導が終わり、演習場を後にするアリアの足取りは、来た時よりもずっと軽やかだった。夕暮れの空を見上げながら、アリアは小さく呟いた。
「私、意外と……頑張れるのかもしれない」
その独り言は、誰に聞かせるでもなく、けれど確かな決意を込めて、静かな校庭に溶けていった。




