第5話 黒猫の策略
翌日の昼休み、アリアは人目を避けるようにして中庭の隅、大樹の陰のベンチに腰を下ろした。木漏れ日が地面にまだらな模様を描き、そよ風が心地よく頬を撫でていく。
「はぁ……今日はまだ、大きな失敗はしてないよね……」
膝の上の鞄からそっと顔を出したクロノに、小声で話しかける。
「うむ、今のところはな。だが油断は禁物だぞ」
「わかってる。わかってるけど……」
昨日一日で溜まった疲労が、まだ体の芯に残っていた。せめて昼休みくらいはゆっくりしたいと思っていたのだが。
ふと、視界の端に見覚えのある人影が映った。プラチナブロンドの髪。リアムだ。彼はまっすぐに、こちらへと歩いてくる。
(う、嘘、なんで……!)
逃げる間もなく、リアムはアリアの前で立ち止まった。真剣な面持ちで、いつもの快活さは鳴りを潜めている。
「アリア嬢。少し、話せるだろうか」
「は、はい……何でしょう」
声が上ずるのを、自分でもどうにもできなかった。リアムは少しの間、言葉を選ぶようにしてから、静かに切り出した。
「昨日の測定のことだ。石板の紋様が一瞬、大きく膨らんで見えた。あれは……」
心臓が、どくん、と大きく跳ねる。
(やっぱり、見られてた……!)
「あ、あれは、その、驚いてしまって……集中が乱れただけで」
「そうか。……いや、すまない。詮索するつもりはないんだ。ただ、あの輝き方が、少し気になっただけで」
リアムの空色の瞳が、まっすぐにアリアを見つめる。噓を見抜こうとしているのか、それとも単なる好奇心なのか、アリアには判断がつかなかった。その視線に射抜かれるように、アリアは俯くことしかできない。
(どうしよう、どうしよう……このままじゃ……)
膝の上の鞄が、もぞりと動いた。
「にゃあ」
場違いなほど呑気な鳴き声とともに、クロノがひょっこりと顔を出す。次の瞬間、彼は跳ねるようにベンチから飛び降り、リアムの足元に絡みついた。
「お、おい……?」
戸惑うリアムの足に、クロノはすりすりと体を擦りつける。普段の澄まし顔からは想像もつかない、愛想の良い猫の演技だった。尻尾をゆらゆらと揺らし、まるで構ってほしいとねだるかのように鳴き声を上げる。
「あ、あの、その子、人懐っこくて……すみません」
「いや、構わない。可愛らしい猫だ」
リアムがしゃがみ込み、クロノの背中にそっと手を伸ばした瞬間――クロノの金色の瞳が、ほんの一瞬だけ、ぎらりと妖しく光った。
アリアにしか見えない、ごく小さな変化。ふわりと、辺りの空気が微かに揺らいだような気がした。木々のざわめきさえ、その一瞬だけ、ぴたりと止んだように感じられた。
「……ん?」
リアムが、何かを思い出そうとするように、軽く眉を寄せる。
「……すまない、何の話をしていたか、忘れてしまった」
「え……あ、その」
「まあいい。妙なことを聞いて悪かった。気にしないでくれ」
リアムは小さく苦笑すると、軽く会釈をして踵を返した。遠ざかっていくその背中を、アリアは呆然と見送る。
しばらくして、我に返ったアリアは、膝の上に戻ってきたクロノを、恐る恐る見下ろした。
「……クロノ、今の、まさか」
「くふふ。少々、記憶に靄をかけさせてもらっただけよ。案ずるな、害はない。ただ、あの瞬間の記憶が、ほんの少しぼやけるだけのこと」
「そ、そんなことできたの……!?」
「儂を誰だと思っておる」
クロノは得意げに、ふさふさの尻尾をゆらりと揺らした。その仕草はいつも通り生意気だったが、アリアはふと、この黒猫の底知れなさを、改めて思い知らされた気がした。
「あ、ありがとう、クロノ。助かった……」
「礼はいらぬ。じゃが」
クロノの声が、ふと真剣な響きを帯びた。
「こういう小細工は、そう何度も使えるものではない。次からは、お前自身がもっと上手く立ち回れるようになるのだぞ」
「う、うん……努力する」
しょんぼりと肩を落とすアリアに、クロノは呆れたようにひと鳴きすると、丸くなって膝の上に収まった。
午後の授業――薬草学の座学――では、グレタ先生が植物の生態について熱心に語っていたが、アリアはどこか上の空だった。先ほどのリアムとのやり取りが、頭から離れない。
(本当に、忘れてくれたのかな……。もし覚えてたら……)
不安が完全に拭えたわけではなかったが、それでも今は、クロノの機転に感謝するしかなかった。
授業を終え、寮の部屋に戻る頃には、外はすっかり茜色に染まっていた。窓辺に座り、今日一日の出来事を振り返りながら、アリアはぽつりと呟く。
「入学して、まだ二日なのに……こんなに色々あるなんて、思わなかったな」
メアリという友達ができたこと。リゼットという、得体の知れない棘を持つ令嬢に目をつけられたこと。そして、リアムに――何か、気づかれかけたこと。
(でも、クロノがいてくれるから……大丈夫、だよね)
寝台の隅で丸くなっている黒猫を見つめながら、アリアはそっと微笑んだ。地味に、目立たずに過ごすという当初の決意は早くも綻びかけていたが、それでも、味方がいるという事実だけが、今のアリアの心をわずかに軽くしてくれていた。
夕食の席では、メアリが今日あった些細な出来事――水属性の授業でうまく水球を作れず、先生に褒められて舞い上がったこと――を、目を輝かせながら話してくれた。アリアはそれを聞きながら、自然と頬が緩むのを感じた。こうした何気ない日常の積み重ねこそが、今のアリアにとって、何よりも大切な支えになっているのかもしれなかった。
夕食を終えたあと、アリアとメアリは連れ立って、寮の談話室に立ち寄った。暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる音を聞きながら、二人はソファに並んで腰掛ける。
「ねえ、アリアちゃん。週末、街に出てみない? 学園のすぐ近くに、可愛い雑貨屋さんがあるんだって」
「街に……? わ、私、行ったことないかも」
「私も! せっかくだから、探検してみようよ」
メアリの提案に、アリアは少し迷いながらも頷いた。目立たないように過ごすという決意はあったが、友人との外出まで拒む理由はない。むしろ、こうした何気ない誘いを断らずにいられることが、今のアリアにとっては小さな進歩でもあった。
「うん、行こう。楽しみ」
「やった! じゃあ、土曜日ね」
二人で予定を立てながら、他愛のない話に花を咲かせる。学園の噂話、授業の感想、故郷の思い出——話題は尽きることなく、気づけば夜はすっかり更けていた。
「そろそろ戻ろっか。明日も授業だし」
「うん、そうだね」
談話室を出て、それぞれの部屋へと向かう廊下で、アリアはふと足を止めた。窓の外、二つの月が静かに輝いている。
(今日も、なんとか乗り切れたな……)
振り返れば、綱渡りのような一日だった。それでも、メアリという友人との温かい時間が、その緊張を優しく溶かしてくれている。
自室に戻り、寝支度を整えながら、アリアは鞄からするりと出てきたクロノに、今日一日の感謝を伝えた。
「クロノ、今日は本当にありがとう。おかげで、大変なことにならずに済んだ」
「なに、当然のことをしたまでよ」
「それでも……ありがとう」
素直な感謝の言葉に、クロノは珍しく、少しだけ照れたように視線を逸らした。
「……ふん。礼を言われるようなことでもない。さあ、早く休め。明日も早い」
いつも通りの素っ気なさに、アリアはくすりと笑った。窓の外、二つの月が静かに輝きはじめている。王立マグノリア魔法学園での、慌ただしい一週間が、こうして幕を開けようとしていた。




