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風読みの魔女は静かに過ごしたい  作者: おおりく
1章 新天地への旅立ち

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第5話 黒猫の策略

翌日の昼休み、アリアは人目を避けるようにして中庭の隅、大樹の陰のベンチに腰を下ろした。木漏れ日が地面にまだらな模様を描き、そよ風が心地よく頬を撫でていく。


「はぁ……今日はまだ、大きな失敗はしてないよね……」


膝の上の鞄からそっと顔を出したクロノに、小声で話しかける。


「うむ、今のところはな。だが油断は禁物だぞ」


「わかってる。わかってるけど……」


昨日一日で溜まった疲労が、まだ体の芯に残っていた。せめて昼休みくらいはゆっくりしたいと思っていたのだが。


ふと、視界の端に見覚えのある人影が映った。プラチナブロンドの髪。リアムだ。彼はまっすぐに、こちらへと歩いてくる。


(う、嘘、なんで……!)


逃げる間もなく、リアムはアリアの前で立ち止まった。真剣な面持ちで、いつもの快活さは鳴りを潜めている。


「アリア嬢。少し、話せるだろうか」


「は、はい……何でしょう」


声が上ずるのを、自分でもどうにもできなかった。リアムは少しの間、言葉を選ぶようにしてから、静かに切り出した。


「昨日の測定のことだ。石板の紋様が一瞬、大きく膨らんで見えた。あれは……」


心臓が、どくん、と大きく跳ねる。


(やっぱり、見られてた……!)


「あ、あれは、その、驚いてしまって……集中が乱れただけで」


「そうか。……いや、すまない。詮索するつもりはないんだ。ただ、あの輝き方が、少し気になっただけで」


リアムの空色の瞳が、まっすぐにアリアを見つめる。噓を見抜こうとしているのか、それとも単なる好奇心なのか、アリアには判断がつかなかった。その視線に射抜かれるように、アリアは俯くことしかできない。


(どうしよう、どうしよう……このままじゃ……)


膝の上の鞄が、もぞりと動いた。


「にゃあ」


場違いなほど呑気な鳴き声とともに、クロノがひょっこりと顔を出す。次の瞬間、彼は跳ねるようにベンチから飛び降り、リアムの足元に絡みついた。


「お、おい……?」


戸惑うリアムの足に、クロノはすりすりと体を擦りつける。普段の澄まし顔からは想像もつかない、愛想の良い猫の演技だった。尻尾をゆらゆらと揺らし、まるで構ってほしいとねだるかのように鳴き声を上げる。


「あ、あの、その子、人懐っこくて……すみません」


「いや、構わない。可愛らしい猫だ」


リアムがしゃがみ込み、クロノの背中にそっと手を伸ばした瞬間――クロノの金色の瞳が、ほんの一瞬だけ、ぎらりと妖しく光った。


アリアにしか見えない、ごく小さな変化。ふわりと、辺りの空気が微かに揺らいだような気がした。木々のざわめきさえ、その一瞬だけ、ぴたりと止んだように感じられた。


「……ん?」


リアムが、何かを思い出そうとするように、軽く眉を寄せる。


「……すまない、何の話をしていたか、忘れてしまった」


「え……あ、その」


「まあいい。妙なことを聞いて悪かった。気にしないでくれ」


リアムは小さく苦笑すると、軽く会釈をして踵を返した。遠ざかっていくその背中を、アリアは呆然と見送る。


しばらくして、我に返ったアリアは、膝の上に戻ってきたクロノを、恐る恐る見下ろした。


「……クロノ、今の、まさか」


「くふふ。少々、記憶に靄をかけさせてもらっただけよ。案ずるな、害はない。ただ、あの瞬間の記憶が、ほんの少しぼやけるだけのこと」


「そ、そんなことできたの……!?」


「儂を誰だと思っておる」


クロノは得意げに、ふさふさの尻尾をゆらりと揺らした。その仕草はいつも通り生意気だったが、アリアはふと、この黒猫の底知れなさを、改めて思い知らされた気がした。


「あ、ありがとう、クロノ。助かった……」


「礼はいらぬ。じゃが」


クロノの声が、ふと真剣な響きを帯びた。


「こういう小細工は、そう何度も使えるものではない。次からは、お前自身がもっと上手く立ち回れるようになるのだぞ」


「う、うん……努力する」


しょんぼりと肩を落とすアリアに、クロノは呆れたようにひと鳴きすると、丸くなって膝の上に収まった。


午後の授業――薬草学の座学――では、グレタ先生が植物の生態について熱心に語っていたが、アリアはどこか上の空だった。先ほどのリアムとのやり取りが、頭から離れない。


(本当に、忘れてくれたのかな……。もし覚えてたら……)


不安が完全に拭えたわけではなかったが、それでも今は、クロノの機転に感謝するしかなかった。


授業を終え、寮の部屋に戻る頃には、外はすっかり茜色に染まっていた。窓辺に座り、今日一日の出来事を振り返りながら、アリアはぽつりと呟く。


「入学して、まだ二日なのに……こんなに色々あるなんて、思わなかったな」


メアリという友達ができたこと。リゼットという、得体の知れない棘を持つ令嬢に目をつけられたこと。そして、リアムに――何か、気づかれかけたこと。


(でも、クロノがいてくれるから……大丈夫、だよね)


寝台の隅で丸くなっている黒猫を見つめながら、アリアはそっと微笑んだ。地味に、目立たずに過ごすという当初の決意は早くも綻びかけていたが、それでも、味方がいるという事実だけが、今のアリアの心をわずかに軽くしてくれていた。


夕食の席では、メアリが今日あった些細な出来事――水属性の授業でうまく水球を作れず、先生に褒められて舞い上がったこと――を、目を輝かせながら話してくれた。アリアはそれを聞きながら、自然と頬が緩むのを感じた。こうした何気ない日常の積み重ねこそが、今のアリアにとって、何よりも大切な支えになっているのかもしれなかった。


夕食を終えたあと、アリアとメアリは連れ立って、寮の談話室に立ち寄った。暖炉の火がぱちぱちと爆ぜる音を聞きながら、二人はソファに並んで腰掛ける。


「ねえ、アリアちゃん。週末、街に出てみない? 学園のすぐ近くに、可愛い雑貨屋さんがあるんだって」


「街に……? わ、私、行ったことないかも」


「私も! せっかくだから、探検してみようよ」


メアリの提案に、アリアは少し迷いながらも頷いた。目立たないように過ごすという決意はあったが、友人との外出まで拒む理由はない。むしろ、こうした何気ない誘いを断らずにいられることが、今のアリアにとっては小さな進歩でもあった。


「うん、行こう。楽しみ」


「やった! じゃあ、土曜日ね」


二人で予定を立てながら、他愛のない話に花を咲かせる。学園の噂話、授業の感想、故郷の思い出——話題は尽きることなく、気づけば夜はすっかり更けていた。


「そろそろ戻ろっか。明日も授業だし」


「うん、そうだね」


談話室を出て、それぞれの部屋へと向かう廊下で、アリアはふと足を止めた。窓の外、二つの月が静かに輝いている。


(今日も、なんとか乗り切れたな……)


振り返れば、綱渡りのような一日だった。それでも、メアリという友人との温かい時間が、その緊張を優しく溶かしてくれている。


自室に戻り、寝支度を整えながら、アリアは鞄からするりと出てきたクロノに、今日一日の感謝を伝えた。


「クロノ、今日は本当にありがとう。おかげで、大変なことにならずに済んだ」


「なに、当然のことをしたまでよ」


「それでも……ありがとう」


素直な感謝の言葉に、クロノは珍しく、少しだけ照れたように視線を逸らした。


「……ふん。礼を言われるようなことでもない。さあ、早く休め。明日も早い」


いつも通りの素っ気なさに、アリアはくすりと笑った。窓の外、二つの月が静かに輝きはじめている。王立マグノリア魔法学園での、慌ただしい一週間が、こうして幕を開けようとしていた。



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