第4話 風の刻印
測定の間を出たあと、アリアとメアリは他の生徒たちに混じって、隣接する演習場へと案内された。一時間目は座学ではなく、いきなりの実技授業だという。
「え、もう魔法使うの……?」
「みたいだね。まだ制御の仕方も教わってないのに」
二人が小声で言い合っていると、演習場の中央に、先ほどの担任イライザとは別の、鋭い目つきの男性教師が立った。がっしりとした体格に、短く刈り込んだ髪。歴戦の戦士のような雰囲気を漂わせている。
「実技担当のガイウスだ。今日は基礎の『風の刻印』を刻む。各自、渡された石板に触れ、己の魔力属性を象る紋様を定着させろ。……緊張するな。これはただの記録作業だ、失敗しても死にはせん」
教師の冗談めいた一言に、教室から乾いた笑いが漏れる。アリアだけは笑えなかった。
生徒たちは一人ずつ、小さな石板を手渡されていく。石板は魔力に応じて紋様を浮かび上がらせる仕組みらしく、火属性なら燃えるような渦、水属性なら流れるような波紋が刻まれるという。
(つまり……私の場合は)
風属性、それも弱々しいものとして。昨日から何度も繰り返してきた「抑え込み」を、また今からやらなければならない。
列に並びながら、アリアはちらりと前方を窺った。リアムの番が来ると、石板は淡い光を放ち、繊細で幾何学的な紋様がくっきりと浮かび上がった。風の渦のような流線と、その中心に輝く、光の粒のような紋様。
「さすがリアム様……」
「風と光、両方の紋様が出るなんて、聞いたことないわ」
周囲がどよめく。アリアは思わず息を呑んだ。
(風と、光……?)
もちろん本物の「光」ではないだろう——多分、単に彼の魔力の質がそう見えているだけだ。そう自分に言い聞かせながらも、アリアの心臓は嫌な速さで鳴っていた。リアム自身は、その紋様を静かに見つめたあと、どこか複雑そうな表情を浮かべて、そっと石板を教師に返していた。
「次、ローゼン」
名前を呼ばれ、アリアは覚悟を決めて石板に手を置いた。
(弱く、弱く……昨日と同じように……)
慎重に、慎重に力を絞り出す。石板がぼんやりと発光し、頼りなく揺れる風の紋様がゆっくりと浮かび上がった——はずだった。
だが、その瞬間。
「――ッ」
教室の後方で、甲高い悲鳴が上がった。縦ロールの金髪をした令嬢が、隣の生徒とぶつかり、盛大に転倒したのだ。とっさに驚いたアリアの集中が、ほんの一瞬だけ乱れる。
石板の紋様が、ぶわりと大きく膨らんだ。
(しまっ……!)
慌てて力を押し戻す。紋様は一瞬だけ眩しいほどの輝きを見せたあと、すぐにしゅるしゅると萎み、いつもの頼りない薄い光に収まった。
「……ふむ。出力が不安定だな。緊張のせいか?」
ガイウス教師は特に疑う様子もなく、淡々と記録していく。アリアは詰めていた息を、そっと吐き出した。
(危なかった……本当に、危なかった……)
冷や汗が背中を伝う。だが、その一瞬の輝きを、確かに見ていた者がいた。
振り返ると、リアムがこちらをじっと見つめていた。何か言いたげに、けれど言葉にはせず、彼はすぐに視線を逸らして自分の順番の列に戻っていく。
(見られた……? いや、まさか、気のせいよね……?)
自分に言い聞かせながらも、アリアの胸には、拭いきれない不安が残った。
一方、先ほど転倒した令嬢——後で聞いた名は、リゼット・アンバートンといった——は、周囲の手を借りて立ち上がると、なぜかまっすぐアリアの方へ視線を向けた。
「……あなた、講堂で猫を暴れさせた子よね」
「え、あ……申し訳ございません、あの節は」
「別に謝罪は求めていないわ。ただ——」
リゼットは形の良い眉を、ほんの少しだけ吊り上げた。
「リアム様が、あなたのこと、気にかけてらっしゃるようだから。何をしたのかしら、と思っただけ」
その声には、隠しきれない棘があった。アリアは背筋が凍る思いがした。
(な、何、この空気……)
「わ、私は何も……ただの平民です。リアム様とは、何の関係もありません」
必死に取り繕う言葉に、リゼットは小さく鼻を鳴らしただけで、それ以上は何も言わずに踵を返した。取り巻きらしき令嬢たちを連れて、足早に去っていく。
「な、なんだったの、今の……」
メアリが青ざめた顔で駆け寄ってくる。
「わ、私にも分かりません……」
力なく答えながら、アリアは深いため息をついた。目立たないように、目立たないように——そう心に決めていたはずなのに、初日からすでに、不穏な視線をいくつも集めてしまっている気がしてならなかった。
実技の授業が終わったあと、教室に戻る道すがら、アリアはトビアスという赤毛の少年に声をかけられた。
「なあ、大丈夫か? さっき、リゼット嬢に絡まれてたろ」
「あ、はい……大丈夫です」
「あの人、代々光属性の名家の娘でさ、結構プライド高いんだよ。あんまり気にしない方がいいぜ」
気さくに励ましてくれるトビアスに、アリアは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。この学園には、意地悪な人ばかりではないのだと、改めて実感する。
「そういえば、お前、リアム様と知り合いなのか? さっき、ずっとこっち見てたみたいだけど」
「え、そ、そんなことないと思います……ただの、偶然だと思います」
「ふーん、まあいいけどさ。リアム様、ああ見えて結構、人の観察眼が鋭いから、気をつけた方がいいぜ」
トビアスの何気ない一言に、アリアの胸がまたちくりと痛んだ。リアムに何かを気づかれているかもしれないという不安は、そう簡単に消えてくれそうになかった。
放課後、寮の部屋に戻るなり、アリアはベッドに突っ伏した。
「はぁ……もう、今日だけで一生分疲れた気がする……」
「情けない声を出すでない。まだ入学二日目だぞ」
クロノが呆れたように、机の上から見下ろしてくる。
「クロノ、聞いて。測定のとき、一瞬だけ抑えが利かなくて……リアム様に見られたかもしれないの」
「ほう」
クロノの金色の瞳が、わずかに細められた。何かを考え込むような、いつもとは違う静かな声。
「……まあ、案ずるな。何かあれば、儂が何とかしてやる」
「え? 何とかって、一体――」
だが、クロノはそれ以上答えず、するりと寝台の下に潜り込んでしまった。残されたアリアは、言いようのない胸騒ぎを覚えながら、窓の外に沈んでいく夕日をぼんやりと見つめていた。
夕食の時間、メアリが向かいの席に座るなり、ぐったりとテーブルに突っ伏した。
「もうだめ……リゼット様のあの視線、思い出しただけで胃が痛い」
「メアリさんまで、ごめんなさい……私のせいで」
「アリアちゃんのせいじゃないよ! でも……正直、ちょっと心配。あの人、貴族の中でも結構、影響力ある家の子らしいから」
メアリは声を潜め、周囲を気にしながら続けた。
「リアム様に近づく女の子には、結構厳しいって噂。去年の上級生も、何人か……その、大変な目に遭ったとか、遭わないとか」
「わ、私は近づいてなんて……!」
「うん、分かってる分かってる。でも向こうがそう思っちゃったら、意味ないもんね……」
力なく笑いながら、メアリはスープをすくった。アリアはその横顔を見つめながら、胸の奥に小さな澱が沈んでいくのを感じていた。
(目立たないように、地味に、平穏に……それだけが、私の望みなのに)
窓の外はすっかり暗くなっていた。遠くの塔で、夜を告げる鐘が静かに鳴り響く。アリアは重い息を吐き、残りの夕食に、あまり味のしないまま箸を進めた。
部屋に戻る前、アリアはふと思い立って、中庭に立ち寄った。誰もいない静かな空間で、一人、今日の出来事を反芻したかったのだ。
石段に腰掛け、夜空を見上げる。二つの月が、静かに輝いていた。
「はぁ……」
思わず漏れたため息に、隣に座り込んだクロノが応じる。いつの間にか、鞄から抜け出していたらしい。
「そんなに気に病むでない。誰しも、最初の一週間はそういうものよ」
「でも……このままじゃ、いつかボロが出そうで怖いの」
「案ずるな。お前には儂がついておる。そう簡単に、事は露見せぬ」
クロノの言葉に、アリアは少しだけ安堵の息をついた。完全に不安が消えたわけではなかったが、この小さな相棒の存在が、確かに支えになっていることを、改めて実感する夜だった。
「ねえ、クロノ」
「なんだ」
「クロノって、いつから私のそばにいるの? 契約したのは物心つく前だって聞いてるけど……」
ふと湧いた素朴な疑問を口にすると、クロノは珍しく、少しの間、沈黙した。夜風が中庭の木々を揺らし、葉擦れの音だけが静かに響く。
「……随分と昔のことよ。お前がまだ、言葉もろくに話せぬ赤子であった頃からだ」
「そんなに前から……。じゃあ、クロノは私のこと、赤ちゃんの頃から知ってるんだ」
「うむ。もっとも、当時のお前は、ただ泣いてばかりの、手のかかる小さな生き物であったがな」
「も、もう、それは仕方ないでしょ!」
思わず頬を膨らませるアリアに、クロノはくつくつと喉を鳴らして笑った。その笑い方には、どこか慈しむような響きがあった。
「まあ、良い。お前がどれだけ成長しようと、儂がそばにいることに変わりはない。それだけは、忘れるでないぞ」
その言葉に、アリアの胸がじんわりと温かくなる。今日一日で溜め込んだ不安や緊張が、少しずつ解けていくような感覚だった。
「うん……ありがとう、クロノ」
夜空に浮かぶ二つの月を見上げながら、アリアはそっと目を閉じた。まだ始まったばかりの学園生活には、不安の種が尽きない。けれど、こうして支えてくれる存在がいる限り、きっと乗り越えていけるはずだと、根拠のない、けれど確かな予感が胸に灯っていた。
しばらくして、二人はゆっくりと立ち上がり、寮の部屋へと戻っていった。明日もまた、慌ただしい一日が待っている。それでも今は、この静かな夜のひとときを、大切に胸にしまっておきたいと、アリアは思った。




