第3話 初めての授業\水色の髪の少女
翌朝、アリアは寮の窓から差し込む眩しい光で目を覚ました。
一瞬、自分がどこにいるのか分からず、天井をぼんやり見つめる。見慣れない木目、見慣れない匂い。ああそうだ、私は王立マグノリア魔法学園に入学したんだった——そう思い出した途端、昨日の記憶が怒涛のように押し寄せてきた。
「……うう」
布団に潜り込み、しばし現実逃避を試みる。入学式での講堂の大騒動、クロノが暴れ回った一部始終、周囲の生徒たちの好奇の視線。思い出せば思い出すほど、羞恥心で顔が熱くなってくる。
「いつまで唸っておるのだ。朝食に遅れるぞ」
ベッドの隅からクロノの呆れた声。アリアはのろのろと起き上がり、寝癖を軽く整えると、備え付けのクローゼットから真新しい制服を取り出した。
「クロノは、いつも通り鞄の中?」
「うむ。今日も大人しくしておいてやろう……お前がまた粗相をしなければ、の話だがな」
「わ、私のせいじゃないもん! クロノが勝手に暴れたんでしょ!」
「昨日はいわば不可抗力よ。お前が変な悲鳴を上げるから、儂も驚いてしまったのだ」
軽口を叩き合いながらも、アリアの心には、昨日一日で少しだけクロノとの距離が縮まったような、不思議な安心感があった。まだ慣れない制服の襟元を直しながら、深呼吸を一つ。
(大丈夫。今日は「地味な生徒」として、静かにやり過ごすんだから)
固く決意して、部屋を出た。
食堂は、想像していたよりずっと賑やかだった。広い空間に長テーブルがいくつも並び、湯気の立つ料理と談笑の声で満ちている。焼きたてのパンの香ばしい匂い、果実を煮詰めたジャムの甘い香り、そしてどこからともなく漂う紅茶の芳香——それらが入り混じって、食欲をそそる空気を作り出していた。アリアは列の端で、なるべく目立たないようにトレーを受け取った。
空いている席を探して視線を彷徨わせていると——
「あの、よかったら、ここ座らない?」
声をかけてきたのは、栗色のふんわりした髪を、おさげにした少女だった。優しげな垂れ目が、こちらを窺うように見つめている。
「え、あ……はい、ありがとうございます」
アリアはおずおずと、示された席に腰を下ろした。
「わたし、メアリ・スミス。同じA組だよね? 講堂での……その、猫さんの件、覚えてる」
「うっ……は、はい。アリア・ローゼンです。あの、本当にご迷惑を……」
「ううん、面白かったよ! うちのクラス、ちょっと堅苦しい子が多いから、あれくらい賑やかな方が」
メアリはくすくすと笑った。屈託のないその笑顔に、アリアの強張っていた肩が、少しだけ緩む。
「メアリさんも、その……緊張してます?」
「もう、めちゃくちゃに。うち、パン屋の娘なの。貴族のご令嬢とかご令息とか、そういう方たちとどう接したらいいのか、さっぱりで」
「わ、私もです。田舎の薬草師の娘で……全然、この学園に馴染める気がしません」
境遇の近さに、二人は思わず顔を見合わせて笑った。この短いやり取りだけで、アリアの中に、ほんの小さな安堵が芽生える。
(この人となら、少しは……)
朝食を終え、連れ立って教室へ向かう道すがら、メアリが声を潜めて言った。
「今日、属性測定があるんだって。魔力の種類とか、量とかを調べる授業」
「ぞ、属性測定……」
アリアの喉が、ひゅっと鳴った。それこそが、この学園で最初に立ちはだかる最大の関門だと、クロノから散々聞かされていた。
「大丈夫? 顔、真っ青だよ」
「な、なんでもないです。ちょっと、緊張してるだけで……」
平静を装いながらも、内心は嵐のようだった。廊下を歩く生徒たちの間からも、ぽつぽつと「属性測定」という単語が聞こえてくる。期待に胸を膨らませる者、不安げな顔をする者——反応は様々だったが、アリアほど深刻な事情を抱えている生徒は、まずいないだろう。
教室に入ると、既に大半の生徒が席についていた。窓際の一角に、プラチナブロンドの髪が朝日を弾いて輝いているのが見える。リアムだ。彼の周りには、赤毛の快活そうな少年や、縦ロールの派手な金髪の令嬢が集まっていた。
(うわ、もう取り巻きが……)
アリアはできるだけ目立たない、教室の隅の席に滑り込んだ。メアリも隣に座ってくれる。
「――静粛に。ホームルームを始めます」
教壇に立ったのは、穏やかな雰囲気を纏った女性教師だった。柔らかく波打つ髪、優しい眼差し。
「担任のイライザ・マーリンです。精神属性を専門にしています。至らない点も多いと思いますが、一年間よろしくお願いしますね」
教室が、しん、と静まる。イライザの声には、不思議と場を和ませる力があった。
「早速ですが、一時間目は実技棟にて属性測定を行います。皆さんがどんな魔法属性を持っているか、正式に記録する大切な授業です。緊張している人もいるかもしれませんが、なるべくリラックスして臨んでくださいね」
その一言に、教室のあちこちからざわめきが起こる。「僕、絶対に火だと思う」「わたしは水属性がいいなあ」——期待に胸を膨らませる声が飛び交う中、アリアだけが、石のように固まっていた。
「アリアちゃん、大丈夫?」
「だ、大丈夫、です……」
大丈夫なわけがなかった。魔力を、完璧に、寸分の狂いなく、「弱い風」に見えるよう抑え込まなくてはならない。昨日のような不測の事態——使い魔の乱入のようなこと——は、もう二度と起こしてはならない。
(落ち着いて。落ち着いて、アリア。クロノに教わった通りに……)
膝の上で拳を握りしめ、深呼吸を繰り返す。鞄の隙間から、クロノがそっと囁きかけてきた。
「心配するな。昨夜も言った通り、呼吸を整え、心を凪がせるのだ。焦れば焦るほど、魔力は乱れる」
「うん……わかってる、けど」
分かっていても、体は正直だった。手のひらにじっとりと汗が滲む。
列を成して実技棟へ移動する道すがら、アリアの視界の端に、ふと見慣れた空色の瞳が映った。リアムが、こちらをちらりと見ていたのだ。目が合うと、彼はすぐに視線を逸らし、何事もなかったかのように前を向く。
(な、なんだろう……別に、何もないよね……?)
妙な胸のざわめきを覚えながらも、アリアはそれを深く考える余裕もなく、押し寄せる緊張の波に飲まれていった。
実技棟の入り口には、既に長い列ができていた。順番に、一人ずつ「測定の間」と呼ばれる部屋に入っていくらしい。列は思いのほか長く、なかなか進まない。待つ間、アリアは何度も深呼吸を繰り返し、心を落ち着けようと努めた。
列の少し先に、見慣れぬ生徒の姿があった。水色の、長い髪。他の生徒たちから少し離れた場所に一人で立ち、静かに順番を待っている。誰とも言葉を交わさず、しかしどこか泰然とした佇まいに、アリアは思わず目を引かれた。
(あの人、なんだか……浮いてる、というか)
周りの生徒たちが友人同士で談笑する中、その少女だけが、まるで違う時間の中にいるかのように静かだった。制服は同じはずなのに、纏う空気がどこか違う。
視線に気づいたのか、水色の髪の少女がふと振り返る。切れ長の瞳が、一瞬だけアリアを捉えた。感情の読めない、静かな目だった。アリアは慌てて視線を逸らす。
(今の、見られた……? なんだろう、あの人……)
妙に印象に残るその眼差しを振り払うように、アリアは前を向いた。列はようやく進み始め、アリアの番が近づいてくる。
「次、ローゼン」
呼ばれた名に、心臓が跳ね上がる。
アリアは、震える足を叱咤しながら、測定の間の扉に手をかけた。
(大丈夫。大丈夫。私は、ただの「弱い風使い」——)
自分にそう言い聞かせながら、アリアはゆっくりと扉を押し開けた。
部屋の中央には、大人の背丈ほどもある水晶の柱が据えられていた。淡く発光するそれは、触れた者の魔力の質と量を色と輝きで示す「測定石」だという。傍らには白髪の老教師が一人、書類を手に佇んでいる。
「アリア・ローゼン、だね。緊張せずともよい。石に、そっと手を触れるだけだ」
促されるまま、アリアは測定石に右手を伸ばした。指先が冷たい水晶の表面に触れた瞬間——ぞわり、と全身の産毛が逆立つ感覚があった。
(今だ。抑えて、抑えて……クロノに教わった通り……)
体の奥から溢れ出そうになる莫大な魔力を、アリアは歯を食いしばって押し留める。まるで、堤防の決壊寸前の水を、指一本で堰き止めているような感覚だった。額に、じわりと汗が滲む。
測定石が、ゆっくりと色を変え始めた。白、そして淡い緑がかった、頼りない薄水色。老教師は書類に視線を落としたまま、特に驚いた様子もなく記録していく。
「ふむ……風属性、それも並より控えめな出力だな。だが安定はしている。悪くない」
「あ、ありがとうございます……」
内心、安堵のあまり膝から崩れ落ちそうになった。抑え込みは、なんとか成功したらしい。
「以上で測定は終了だ。廊下から、まっすぐ教室に戻りなさい」
一礼して部屋を出る。扉が閉まった途端、アリアはその場にへたり込みそうになるのを、壁に手をついてどうにか堪えた。
「……はあああ……」
長く、長く息を吐き出す。全身が汗ばみ、指先はまだ小さく震えていた。緊張の糸が切れた反動で、膝の力が抜けそうになる。
廊下の先で、メアリが心配そうな顔でこちらを覗き込んでいるのが見えた。
「アリアちゃん、顔色すごいよ! 大丈夫?」
「だ、大丈夫です……ちょっと、疲れただけで」
力なく笑ってみせながら、アリアは思う。この学園にいる限り、こんな綱渡りが、何度も何度も繰り返されるのだろうか、と。
ふと視線を上げると、廊下の向こうを、水色の髪の少女がひとり静かに歩いていくのが見えた。誰とも連れ立たず、振り返りもせず、ただまっすぐに。
(あの人も、測定を終えたのかな……)
名前も知らないその後ろ姿を、アリアはなぜか、しばらく目で追い続けていた。不思議な既視感のような、それでいて確かな初対面の緊張のような、名状しがたい感覚が胸の奥に残る。
教室に戻ると、既に測定を終えた生徒たちが、それぞれの結果について興奮気味に語り合っていた。
「俺、やっぱり火属性だったよ! しかも結構強いって!」
「わたしは水属性の中級だったの。嬉しいなあ」
トビアスをはじめとした生徒たちの明るい声を聞きながら、アリアは静かに自分の席についた。目立たず、平穏に――それだけを願って挑んだ測定は、なんとか無事に乗り切ることができたらしい。だが、心のどこかに、まだ拭いきれない緊張の残滓が漂っていた。
昼休み、中庭のベンチで一人、昼食を食べていると、鞄の中からクロノがそっと顔を出した。
「うまく凌いだようだな」
「うん……本当に、ドキドキした。もう少しで、バレるところだったかも」
「ふむ。まあ、初日にしては上出来よ。これからも、この調子で気を抜くでないぞ」
「わかってる。でも……」
アリアはふと、廊下で見かけた水色の髪の少女のことを思い出していた。
「ねえクロノ、水色の髪の、すごく静かな雰囲気の生徒さん、知ってる?」
クロノは金色の瞳をわずかに細め、しばし考え込むような間を置いた。
「……さあな。この学園には、儂の知らぬ者も多い。だが」
「だが?」
「妙に印象に残る者というのは、大抵、何かしらの理由があるものよ。深入りは、程々にな」
どこか意味深なその言葉に、アリアは小さく首を傾げたが、それ以上追及することはしなかった。午後の授業を告げる鐘の音が、静かに校舎に響き渡っていた。




