第2話 最悪の自己紹介
どれくらい時間が経ったのか、アリアにはよく分からなかった。
気づけば、講堂内は教師たちの慌ただしい指示でざわめいていた。壇上のリアムが素早くしゃがみ込み、まだ唸り合っている二匹の首根っこを、危なげなく片手ずつ摘み上げる。
「シルフィ、いい加減にしろ」
低く、静かな声だった。それだけで、あれほど暴れていたフクロウがピタリと大人しくなる。一方、クロノは涼しい顔で「フン、この程度で驚くとは、修行が足りんぞ小僧」などと減らず口を叩いていた。
「-皆、静粛に。座に戻りなさい」
学園長ヴォルグの、朗々とした声が講堂に響く。その一声で、ざわめきが潮のように引いていった。何事もなかったかのように、式は再開される。だが、講堂中の視線が、時折ちらちらと講堂後方 -アリアのいる柱の陰に向けられているのを、彼女は痛いほど感じていた。
(穴があったら入りたい。ううん、穴を掘って、そのまま国境まで逃げたい)
残りの式次第が、アリアの耳にはほとんど入ってこなかった。ただひたすら、早く終わってくれと祈り続けた。
ようやく閉式が告げられ、生徒たちがぞろぞろと講堂の外へ流れ出していく。アリアは人波に逆らうように壁際に張り付き、なるべく最後に出ようと試みた。だが。
「――君」
背後から、涼やかな声がかけられる。振り返らなくても、誰の声かは分かった。全身が一瞬で強張る。
「さ、さっきは、その、すみません……うちの、猫が……」
しどろもどろになりながら振り向くと、そこにはリアム・アークライトが立っていた。片腕には、すっかり大人しくなったシルフィを乗せている。間近で見る彼の瞳は、思っていたよりずっと澄んだ空の色をしていた。
「別に、君が謝ることではない。悪いのは、あの躾のなっていない黒猫の方だろう」
「にゃっ、聞こえておるぞ小僧」
アリアの足元のキャリーバッグから、くぐもった抗議の声が上がる。リアムは片眉を上げただけで、取り合わなかった。
「……名前は?」
「え、あ、アリア、です。アリア・ローゼン」
「リアム・アークライトだ。よろしく、アリア嬢」
差し出された手を、アリアはおそるおそる握り返した。手のひらから伝わる体温に、心臓がびっくりするくらい跳ねる。人と、こんなに近い距離で話すこと自体、彼女にとっては一大事だった。
「あの、その、フクロウさんは、大丈夫でしたか。うちのが、無理やり喧嘩を売ったみたいで……」
「シルフィなら平気だ。むしろ、いつもより機嫌がいいくらいだな。退屈しのぎになったんだろう」
「ホゥ(心外ですわ)」
シルフィが不服そうに鳴いた。その様子に、リアムがわずかに -本当にわずかにだが -口角を上げる。その表情に、アリアはなぜか少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。
「じゃあ、その、私、これで……」
これ以上、この完璧な貴公子の前にいたら心臓が持たない。アリアは逃げるようにその場を辞そうとした。
「アリア嬢」
呼び止められ、びくりと肩が跳ねる。
「同じ一年A組らしい。……また、よろしく」
「あ……は、はい。よろしくお願いします」
精一杯絞り出した声は、我ながら情けないほど上ずっていた。リアムはそんなアリアの様子に気づいているのかいないのか、小さく頷くと、シルフィの羽をそっと撫でた。
「シルフィも、悪気があったわけじゃないんだろう。……そちらの黒猫殿も、な」
「にゃ(当然であろう)」
キャリーバッグの中から、悪びれもしない返事が聞こえてくる。アリアは思わず顔を覆いたくなった。
それだけ言うと、リアムは踵を返し、講堂の出口へと歩いていった。すれ違う生徒たちが、彼に向けて羨望とも憧れともつかない視線を送るのが見える。
アリアはその後ろ姿を、しばらくぼうっと見送っていた。
「――で、腑抜けた顔をしておるが、どうした」
「し、してないもん」
キャリーバッグの中からクロノの声。アリアは慌てて表情を引き締め、講堂を後にした。
講堂を出ると、敷地の広さに改めて眩暈がした。石畳の中庭を囲むように並ぶ校舎はどれも荘厳な造りで、あちこちに設けられた噴水や彫像が、夕暮れの光を受けて金色に輝いている。すれ違う生徒たちは皆、着慣れた様子でローブを翻し、談笑しながら歩いていく。その誰もが、アリアより何倍も堂々として見えた。
(この人たち全員、私よりずっとすごい魔法使いなんだろうな……)
実際にはその逆であることなど知る由もなく、アリアはただただ、自分の場違いさを噛み締めながら人混みをすり抜けていった。
寮への帰り道、アリアはずっと俯いていた。
「なあクロノ。今日一日で、私の平穏な学園生活プラン、もう終わった気がするんだけど」
「終わってなどおらんわ。たかが猫とフクロウの喧嘩程度、明日には皆忘れておる」
「絶対忘れないよ......! 私、完璧に、公爵家の跡取り様に喧嘩を売った田舎者として認識されたよ……」
「案ずるな。あの小僧、悪い印象は持っておらんかったぞ。わしの観察眼に狂いはない」
その分析が慰めになっているのかいないのか、アリアには判断がつかなかった。
寮に到着すると、恰幅のいい中年女性が満面の笑みで新入生を出迎えていた。
「あらあら、いらっしゃい。寮母のエルミナよ。あなたが噂の……ふふ、講堂での一件、聞いてるわ」
開口一番それを言われ、アリアは今度こそ膝から崩れ落ちそうになった。
「も、もう噂に……」
「大丈夫、悪い意味じゃないわよ。動物に好かれる子は、いい子に決まってるもの」
エルミナの朗らかな笑い声に、アリアは救われたような、余計にいたたまれないような、複雑な気持ちになった。
案内された部屋は、簡素だが清潔な一人部屋だった。特待生には個室があてがわれるらしい。ベッド、机、小さな本棚。窓からは中庭の緑が見える。
「あの、寮母さん。他の生徒さんたちは、どんな部屋なんですか?」
「基本は二人部屋よ。特待生と一部の貴族の子だけ、個室になるの。羨ましがられちゃうかもしれないわねぇ」
エルミナの言葉に、アリアはまた新たな不安を覚えた。ただでさえ目立ってしまった初日に、部屋のことでも注目されるとは。
「い、以前の生徒みたいに、普通の部屋がよかったです……」
「あらあら、謙虚なのね。まあ、慣れたら快適だから、安心して」
からからと笑うエルミナに見送られ、アリアはようやく一人になった部屋の中で、深く息を吐いた。
荷ほどきもそこそこに、アリアはベッドに倒れ込んだ。
「疲れた……もう今日は何も起きないでほしい……」
「明日は授業初日だぞ。属性測定とやらもあるらしいな」
「うっ」
その一言で、また新たな不安が頭をもたげる。魔力を完璧に抑え込む。目立たない、ちょうどいい「弱さ」を演じる。今日の入学式の一件で、既に注目を集めてしまった今、それがどれだけ難しくなったか -考えるだけで胃が痛い。
「大丈夫だ、主よ。わしが仕込んだ抑制術、忘れたわけではあるまい」
「うん……分かってる、けど」
のろのろと起き上がり、荷物の整理を始める。着替え、筆記用具、そして故郷から持ってきた数少ない私物——その中に、擦り切れた表紙の一冊の本があった。
『風使いの楽しい家庭菜園』。
村の行商人から安く買ってもらった、可愛らしい野菜のイラストが表紙を飾る実用書だ。ページをめくると、「アブラムシさんだけを狙う優しい風」だとか、「お野菜への魔法のおまじない」だとか、素朴な言葉で綴られた父仕込みの知恵がそのまま並んでいる。読んでいるだけで、故郷の畑の土の匂いが蘇るようで、アリアの強張っていた肩が、少しだけ緩んだ。
「まだそれを後生大事に持っておったのか」
「だって、落ち着くんだもん。……今日みたいな日は、特に」
ベッドに腰掛け、膝の上で本を開く。第二章「風と虫さんのおはなし」。何度読んだか分からないくだりを、また一から目で追う。
「くだらん本だ。書いてあることの九割は、常人には再現不可能な高等技術だというのに」
「またそんなこと言う。ただの家庭菜園の本だよ、これは」
「フン……お前がそう思うておるなら、まあいい」
クロノは何か言いたげに一瞬言葉を切ったが、それ以上は続けなかった。丸くなってベッドの隅に収まると、金色の目を細めて窓の外を眺め始める。
しばらくの間、部屋には紙をめくる音だけが響いていた。
やがて本を閉じ、アリアは膝を抱えて呟く。
「……明日から、ちゃんとやろう。目立たないように、大人しく、平凡に」
「口で言うのは簡単だがな」
「分かってるよ、それくらい。でも、やるしかないもの」
窓の外はすっかり夕暮れに染まっていた。慣れない寮の匂い、慣れない静けさ。故郷の家とはまるで違う天井を見上げながら、アリアは小さくため息をついた。
(明日から、ちゃんと「地味な生徒」になろう。目立たない、平凡な、その他大勢の一人に)
その夜、アリアは結局、夕食の時間になっても食堂に顔を出す気になれず、エルミナが気を利かせて届けてくれたパンとスープを、部屋で一人静かに食べた。硬めのパンを咀嚼しながら、頭の中では今日一日の出来事が、何度も何度も再生される。
使い魔たちの大喧嘩。全校生徒の視線。そして -リアムの、あの静かな声。
(「また、よろしく」、か……)
思い出すと、なぜか耳の先が熱くなる。アリアは慌てて首を振り、その考えを追い払った。
「主よ、顔が赤いぞ」
「な、なんでもない! スープが熱かっただけ!」
「ほう。それは奇特なことだ、もうとっくに冷めておるというのに」
鋭い指摘に、アリアはぐうの音も出せず、布団に潜り込むことで抗議の意を示した。
明かりを消し、目を閉じる。今日一日で、どっと疲れが押し寄せてきた。明日こそは、平穏な一日になりますように——そう祈りながら、アリアは眠りに落ちていった。
そう固く決意する彼女は、まだ知らない。
その決意が、初日にしてすでに大きく揺らいでいることに。




