第1話 望まぬ入学式と黒猫の策略
春。
雪解け水が小川のせせらぎを勢いづかせ、フキノトウが柔らかな土を押し上げて顔を出す季節。王都から馬車で三日はかかる田舎、ローゼン村は、今日も穏やかな陽気に包まれていた。
「……ん、と。これは『陽だまり草』。こっちは『夜露の雫』。あ、よかった。『風切り羽』もちゃんと生えてる」
村はずれの小さな丘で、一人の少女がしゃがみ込み、熱心に薬草を摘んでいた。
アリア・ローゼン。十六歳。亜麻色の髪を緩く三つ編みにし、そばかすの散った頬にはまだ幼さが残っている。服装は、村の娘が着るような洗いざらしのワンピースだ。
彼女にとって、この時間は何よりも代えがたい「平穏」だった。指先に触れるひんやりとした土の感触。若草と陽光の混じった匂い。遠くで鳥が鳴き、葉が擦れる音がする。
ここには、自分をじろじろ見る他人の視線も、息苦しい喧騒もない。ただ、ありのままの自分でいることを許してくれる世界が広がっている。
アリアは、人に見られるのが苦手だった。注目されると、冷たい手で心臓を掴まれたように呼吸が浅くなる。だから、この誰にも邪魔されない丘の上は、彼女にとって唯一の聖域だった。
「……ふぅ」
薬草でいっぱいの籠を隣に置き、大きく背伸びをする。傍らには、一匹の黒猫が丸くなっていた。陽光に艶やかに光る毛並みとは裏腹に、その態度はひどく尊大だった。
「アリアよ。いつまでそのような雑草を摘んでおるのだ。わしは退屈で死にそうだぞ」
猫が、喋った。それも、老練な賢者のような重々しいテノールで。
「雑草じゃありません。これは解熱剤になる、大事な薬草です、クロノ」
「フン。そのようなもの、お前の魔力で『熱よ去れ』と一言命じれば済む話であろうに。効率というものを知らんのか、主は」
黒猫——クロノは、大きなあくびをしながら前足で顔を洗った。この猫は、アリアが五歳の頃に森で拾った(ということになっている)使い魔だ。以来、アリアの一番の話し相手であり、師であり、そして何より頭の上がらない存在だった。彼女が土・水・火・風だけでなく、極めて希少な「光」の魔法まで使えることを知る、唯一の存在でもある。
「村のみんなは、私が魔法を使えるなんて知らないもの。お父さんの薬草師のお仕事、私だって手伝いたいし」
「お父さん、お父さん、か。あのアランも人が良すぎる。お前のその規格外の才能を、こんな片田舎で埋もれさせようとは。宝の持ち腐れとはこのことだ」
「才能なんかじゃ……ないよ」
アリアは、籠の中の陽だまり草を指でなぞりながら、小さく呟いた。彼女にとって自分の中の莫大な魔力は「才能」ではなく、「呪い」に近いものだった。大きすぎて制御が効かない。幼い頃、大きなくしゃみをしただけで納屋の屋根が丸ごと吹き飛んだことがある。あの一件以来、アリアは自分の力の暴発を恐れるようになった。クロノに(罵倒されながら)制御を叩き込まれ、今では完璧に抑え込めるようになったが、それは常に力の大部分を封印し続ける、息苦しい作業の連続だった。
「私は、この村が好きだよ。静かだし、誰も私のことなんて気にしてないし」
「フン。世間を知らん田舎者の戯言だ。その才能があれば、王宮魔術師どころか、大陸全土に——」
「いらない!」
アリアは、少し強い声でクロノの言葉を遮った。
「名誉も、お金も、いらない。私は……ここで、お父さんと、クロノと、静かに暮らせるなら、それでいいの」
その切実な声に、クロノはふいと顔をそむけた。
「……まったく。これだから子供は。現実というものが見えておらん」
そんな軽口を叩き合いながら、アリアは薬草の籠を抱え上げた。
(今日も平和だなあ)
この穏やかな日常が、ずっと続けばいい。アリアは心からそう願っていた。
しかし、彼女のささやかな願いは、この日の午後、無慈悲な形で打ち砕かれることになる。
「——というわけで、アリアよ。王都に行く準備をせい」
昼食後、自宅の居間で父アランと三人(二人と一匹)でハーブティーを飲んでいた時だった。クロノがテーブルの中央に陣取り、毛繕いでもするかのような気軽さでそう宣言した。
「え? 王都? なんで?」
「わしが、お前の入学手続きをしておいた。王立マグノリア魔法学園。大陸最高峰の学び舎だ。このわしのコネ——いや、厳正なる審査の結果、特待生としての入学が許可された。光栄に思うがよい」
ガシャン。アリアの手から、ティーカップが滑り落ちた。
「ま、待って! 何それ! 私、願書なんて出してないよ!」
「わしが出しておいた」
「なんで! 私、そんなの絶対無理!」
アリアは真っ青になって立ち上がった。マグノリア魔法学園。その名前が意味するものを、田舎者の彼女でも知っていた。国中の才能あるエリートが集まる場所。それは、アリアが最も恐れる「他人の視線」が、何百と集まる場所だ。想像しただけで息が詰まる。
「無理無理無理! 私、村から出たくない!」
「ほう。行かぬ、と申すか。……ならば、仕方あるまい。このままお前がその莫大な魔力を制御できぬままこの村に居座るというのなら、いずれその魔力は暴発する。くしゃみ一つで家が吹き飛ぶ。転んだ衝撃で、この村一帯がクレーターになる。まあ、それも一興か」
「そ、そんな大袈裟な……」
だが、クロノの目が本気だということが分かってしまう。先月、納屋の屋根が吹き飛んだ時の悪寒と共に、体内の魔力が奔流のように溢れ出した、あの感覚。それは、脅しではなかった。
「……学園に行けば、それが、治るの?」
「治る、のではない。制御する方法を学ぶのだ。それとも、試してみるか? この村が、お前自身の手で更地になるのを」
アリアは息を呑んだ。村がなくなる。私のせいで。それだけは、絶対に嫌だ。
「アリア」
父アランが、そっと娘の肩に手を置いた。
「お父さんは、お前が行きたいところに行くのが一番だと思う。だが……クロノの言うことも、分かる気がする。お前の力は、お父さんには手に余る」
その困ったような笑顔が、アリアの最後の抵抗を打ち砕いた。逃げ道は、もうどこにもなかった。
「……ひどい。クロノの馬鹿。詐欺猫……」
「何とでも申せ。さ、荷物をまとめろ。出発は明後日だ」
「早すぎるっ!」
アリアの絶叫は、春の空に虚しく響き渡った。
泣き腫らした目でアランに見送られ、キャリーバッグに(自ら入った)クロノを詰め込み、王都行きの乗合馬車に揺られること三日。アリアは、地獄のような時間を過ごしていた。同乗した商人たちの大きな話し声。時折向けられる視線。そのすべてが神経をすり減らしていく。
そして王都に到着した時、アリアは本気で眩暈を起こした。どこまでも続く白い城壁。天を突くような尖塔。何より、人の数。音。匂い。声。情報の洪水が、五感を殴りつける。
(だめだ……。目が回る。帰りたい)
王立マグノリア魔法学園は、王都の北区画、その大半を占める広大な敷地に鎮座していた。城壁よりも高い、荘厳な鉄の門。あまりの規模感に、アリアは完全に気圧されていた。
幸い、寮の部屋は一人部屋だった。ドアを閉め、鍵をかけた瞬間、アリアはその場に崩れ落ちた。
「……もうやだ。帰りたい……」
「ぐー。うるさいぞアリア。わしは疲れておるのだ」
「誰のせいだと!」
冷たいシーツの匂いだけが、ここが自分の居場所ではないことを、残酷なまでに教えてくれる。
そして、運命の入学式当日。
アリアは、配布された新品のローブに袖を通し、絶望的な気分で講堂に向かった。講堂は、王宮の謁見ホールもかくやというほど巨大で豪華絢爛だった。高い天井のシャンデリア、壁には歴代の魔法使いの肖像画。その目が、一斉に自分を見下ろしているような錯覚に陥る。
(だめだだめだ……。目立っちゃだめ。隅っこに行かないと)
きらびやかな貴族の令息令嬢たち。真新しいローブに緊張した平民の生徒たち。その誰もが自信に満ち、輝いて見えた。アリアは、その全てから逃げるように、壁際の一番後ろ、太い柱の陰になる席に滑り込んだ。キャリーバッグは、クロノごと足元に隠すように置く。
(よし。完璧な布陣。これなら卒業まで誰にも気づかれない)
そんな非現実的な希望を抱いていると、荘厳なパイプオルガンの音と共に式が始まった。学園長——ヴォルグ・マクシマスと名乗った、鷹のように鋭い目をした老魔術師——の挨拶が終わると、司会が高らかに告げた。
「——次に、新入生代表挨拶。リアム・アークライト」
名前が呼ばれ、最前列の席から一人の男子生徒が立ち上がった。講堂中が、ため息とも感嘆ともつかない声で、わずかにどよめいた。
アリアも、柱の陰からそっと彼を見た。
(うわあ……)
陽光を反射して輝くプラチナブロンドの髪。彫刻のように整った顔立ち。背筋はピンと伸び、立ち居振る舞いに一切の無駄がない。眩しかった。同じ人間とは思えなかった。
(アークライト……って、確か公爵家。宰相のところの……)
住む世界が違いすぎる。アリアは、自分が場違いな場所に迷い込んでしまったことを、改めて痛感した。
リアム・アークライトは壇上に上がると、朗々とした声で挨拶を始めた。
「我ら新入生一同は、マグノリア魔法学園の栄誉ある生徒として——」
その声、その態度、すべてが完璧だった。アリアは(すごいなあ。私とは大違いだ)と、他人事のように感心していた。
——その時だった。
アリアの足元に置かれたキャリーバッグが、ガタガタと激しく揺れ始めた。
(え? なに? クロノ?)
「静かにしてて」と小声で囁いた、その瞬間。バッグのファスナーが、アリアの意志とは無関係に、魔法の力でこじ開けられた。
そして、黒い弾丸——クロノが飛び出した。
「にゃああああお(下等な毛玉の匂いがする)!」
(——あ)
アリアの思考が、凍り付いた。
クロノは、アリアの制止も聞かず、講堂の中央を突っ切って、壇上に向かって飛んでいく。講堂中が、騒然となった。
「な、なんだ?」「黒猫?」
(やめて)
声が出ない。そして、事態はさらに悪化する。壇上で挨拶をしていたリアム・アークライト。彼の肩の上には、いつの間にか、一羽の純白のフクロウが止まっていた。そのフクロウが、クロノを睨みつけ、威嚇するように翼を広げる。
「ホーーーウ(この下賤な泥棒猫めが)!」
「にゃごごご(王の御前であるぞ、この焼き鳥が)!」
次の瞬間、二匹の使い魔は、新入生と教師陣の頭上で激しい空中戦を開始した。クロノからは小さな黒い魔力の矢が、フクロウからは鋭い風の刃が放たれる。
「なっ……シルフィ! 戻れ!」
リアムが、完璧な表情を初めて崩し、焦った声でフクロウを呼ぶ。
「こらー! クロノ! 戻ってきなさい!」
アリアも、柱の陰から蚊の鳴くような声(しかし必死)で猫を呼んだ。だが、興奮した二匹が止まるはずもない。シャンデリアの周りを旋回し、魔力の火花が散る。
「「そこをどけ、この毛玉!」」
「「お前こそ失せろ、この駄猫!」」
完璧だったはずの入学式は、完全にカオスと化した。教師たちが慌てて結界を張ろうとするが、二匹の動きが速すぎて追いつかない。
(どうしようどうしようどうしよう)
アリアの頭の中は、その言葉だけで埋め尽くされた。血の気が足元からサーッと引いていく。
やがてクロノがフクロウの羽をかじり、フクロウがクロノの尻尾を掴んだまま、二匹はもつれ合い、壇上——リアム・アークライトの足元に、ドサッと墜落した。
講堂が、水を打ったように静まり返った。
リアムは、足元の二匹(まだ唸り合っている)と、講堂の後ろの隅で顔面蒼白になり柱に張り付いているアリアを、交互に見た。
全校生徒の視線。教師たちの視線。壇上の学園長の視線。そして、あの完璧な貴公子の、驚きと戸惑いに満ちた視線。そのすべてが、アリアという「一点」に集中した。
アリアは、息ができなかった。心臓が痛くて、冷たくて、まるで誰かに握り潰されそうだ。
プラチナブロンドの貴公子と、そばかすの田舎娘。その視線が、バチッと交差する。
(ああ、終わった)
アリアは、その場で気を失わなかった自分を褒めてやりたかった。
王立マグノリア魔法学園での初日は、こうして、アリアにとって史上最悪の一日として幕を開けたのだった。




