第28話 月光花と魔獣の影
張り詰めた空気の中、五人はしばらくの間、身動きせずに周囲を窺っていた。だが、いくら待っても、これといった異変は起こらない。
「……気のせい、だったのかもしれないな」
リアムが、緊張を解くように、小さく息を吐いた。
「まあ、用心するに越したことはないでしょう。とはいえ、そろそろ集合時間も近いですし、そろそろ戻った方がいいのでは」
リゼットの提案に、アリアも心のどこかでは同意していた。だが、もう少しだけ、月光花を探してみたいという気持ちも、捨てきれずにいた。
「あと少しだけ、探してみてもいいですか? せっかく、ここまで来たので」
「まあ、もう少しくらいなら。……ただし、無理はしないように」
リアムの許可を得て、五人は慎重に、さらに数歩、森の奥へと足を進めた。木々の隙間から差し込む光は、ますます弱まり、辺りは薄暗い、幻想的な雰囲気に包まれていく。
「本当に、こんなところに、あの花があるんでしょうか」
トビアスが、不安げに周囲を見回しながら呟いた。
「本には、木々が特に密集した、日光の届きにくい場所を好むって書いてありました。この辺りなら、条件に合いそうです」
アリアは、そう言いながら、地面や木の根元を、丁寧に観察して回った。慣れた手つきで、落ち葉をかき分け、湿った土の匂いを確かめる。その様子を、リアムはどこか感心したように見つめていた。
「皆、少し静かに。……何か、水音が聞こえる気がする」
リゼットの言葉に、耳を澄ませると、確かに、かすかなせせらぎの音が聞こえてきた。
「小川が近くにあるのかもしれません。月光花は、湿った環境も好むはずなので、近くにあるかも」
アリアの推測に従い、五人はさらに数歩、音のする方向へと進んだ。すると、目の前が、ふいに開けた。
「あ……! 見て、あそこ!」
メアリが、興奮した様子で、少し先の茂みを指差した。木々の隙間、日の当たらない薄暗い一角に、淡く発光する花が、ひっそりと咲いていた。小川のせせらぎの音が、すぐ近くから聞こえてくる。
「あれ、もしかして……」
アリアは思わず駆け寄りかけたが、途中で足を止め、慎重に近づいていった。花弁は、月明かりを溜め込んだかのように、うっすらとした銀色の光を放っている。
「間違いない、月光花だ」
リアムも、感嘆の声を漏らした。
「本当に見つかるなんて……! すごい、アリアちゃん!」
興奮するメアリの様子に、アリアも胸が高鳴るのを感じた。故郷でも見たことのない、幻のような美しさを持つ花だった。
「気をつけて。急に引き抜くと、魔力が急激に放出されるって、図鑑に書いてありました」
アリアは、皆に注意を促しながら、そっと花に近づいた。膝をつき、花の根元を確認する。
「見えざる指先よ、この根を、そっと包み、傷つけぬまま、解き放て――」
ごく小さく詠唱し、慎重に、時間をかけて土をほぐしていく。急がず、丁寧に。故郷で幾度となく繰り返してきた、薬草採取の基本の手順だった。
「わあ……綺麗……」
しばらくして、月光花は、根を傷つけることなく、無事に土から離れた。手のひらに乗せると、淡い光が、アリアの指先を優しく照らし出す。近くで見ると、花弁の一枚一枚が、まるで細かな星屑をちりばめたように、きらきらと瞬いていた。
「本に書いてあった通りの姿だ……。実物は、想像以上に綺麗ですね」
アリアは、思わずうっとりと花を見つめた。故郷の図鑑の挿絵では伝わらなかった、生きた花の持つ、静かな輝きがそこにはあった。
「見事な手際だ。教本通りのやり方とは、また違う繊細さだったな」
リアムの称賛に、アリアは照れくさそうに微笑んだ。
「こんなに立派なものが見つかるなんて、思ってもみなかったわ」
リゼットも、興味深そうに月光花を覗き込んだ。その時だった。
「――ッ!」
突然、離れた茂みから、低い唸り声が響いた。皆が、一斉にその方向へ視線を向ける。
「なんだ、あれは……!」
トビアスの震える声とともに、茂みの奥から、巨大な影がゆっくりと姿を現した。全身を覆う黒い体毛、爛々と光る赤い瞳――狼にも似た姿をしているが、その体躯は、普通の獣を遥かに凌駕していた。
「あれは……ブラックファング種か。この辺りに、生息しているという報告はなかったはずだが」
リアムが、緊張した面持ちで、腰の剣に手をかけた。額に、じんわりと冷や汗が滲む。
「ブラックファング種って、確か、上級生でも苦戦するって聞いたことが……」
リゼットが、震える声で呟いた。魔獣は、獲物を品定めするように、赤い瞳をゆっくりと動かし、五人の姿を舐めるように見渡している。
「落ち着け。慌てて動けば、かえって刺激することになる」
リアムの声にも、隠しきれない緊張がにじんでいた。手にした剣の柄を、強く握りしめる。
「ぐ、群れは、いないよな……?」
トビアスの問いに答える間もなく、魔獣は、低い唸り声とともに、じりじりと距離を詰めてきた。
「皆、下がって! 私が時間を稼ぐ!」
リアムが、素早く結界を展開し、魔獣の前に立ちはだかった。透明な壁が、獣の突進を、ぎりぎりのところで受け止める。
「くっ……! 想定していたより、力が強い……!」
結界に、ひび割れるような音が走る。アリアは、鞄の中のクロノに、震える声で問いかけた。
「クロノ、どうしよう……!」
「落ち着け。あの程度の個体、お前ならば瞬時に無力化できよう。だが――」
クロノの声は、いつになく真剣だった。
「今、この場で、それをやれば、間違いなく目立つ。判断は、お前に任せる」
クロノの言葉に、アリアの胸に、迷いが渦巻いた。仲間たちの命が、目の前で脅かされている。だが、ここで本気の力を見せてしまえば――。今まで積み重ねてきた「平凡な生徒」という仮面が、一瞬にして崩れ去ってしまう。
(でも、そんなこと言ってる場合じゃ……!)
リアムの結界に、さらに大きなひびが走った。今にも砕け散りそうな、危うい音が響く。
「くっ……! もう、保たない……!」
リアムの悲痛な声が響いた瞬間、魔獣が大きく身を沈め、跳躍の体勢に入った。アリアの視界の中で、全てがスローモーションのように流れていく。
「アリアちゃん、危ない……!」
メアリの悲鳴が響く。魔獣が、リアムの結界の隙間を縫うように、大きく跳躍した。その爪が、逃げ遅れたトビアスへと迫る。
(考えてる、暇なんてない……!)
アリアは、迷いを振り切り、咄嗟に手を伸ばした。だが、その瞬間――。
凍てつくような、鋭い水の刃が、どこからともなく飛来し、魔獣の側面を薙ぎ払った。
「ぐるるぁあッ!」
魔獣が、苦悶の声を上げながら、大きくよろめく。突然のことに、その場にいた全員が、呆然とその光景を見つめた。
「危なかったねぇ、坊っちゃんお嬢さんたち」
軽やかな、どこか飄々とした声が、木々の間から響いてきた。振り返ると、水色の髪をした、飄々とした雰囲気の青年が、悠然とした足取りで姿を現した。
「一体、あなたは……!」
リアムが、警戒しながら剣を構え直す。だが、青年は、まったく意に介した様子もなく、軽く手を振ってみせた。
「まあまあ、そう構えないでよ。ただの通りすがりの調査員さ。……それより、そっちの黒いのが、少々厄介そうだね」
青年は、そう言いながら、指先で軽く円を描いた。途端、地面から幾筋もの水の刃が立ち上り、傷を負った魔獣を、あっという間に包囲する。
「悪いけど、退場願おうかな」
軽い口調とは裏腹に、放たれた水の奔流は、圧倒的な精度と力を持っていた。傷一つ負わせず、けれど確実に意識を刈り取る、驚くほど繊細な制御。魔獣は、抵抗する間もなく、水の膜に絡め取られ、そのまま気を失うように地面に沈んだ。
「な……! 今の魔法は……!」
リアムが、驚愕の表情を浮かべる。ものの数秒で、危険な魔獣を、まったくの無傷で無力化してみせた、その圧倒的な実力に、五人は言葉を失っていた。
「す、すごい……。あんな魔法、見たことない……」
メアリが、放心したように呟く。トビアスも、へなへなとその場に座り込みそうになりながら、何度も瞬きを繰り返していた。
「今の一瞬で、あれだけの精度の水魔法を……。並の魔術師では、到底なし得ない業だわ」
リゼットも、驚愕を隠しきれない様子で、青年の後ろ姿を見つめている。突然の出来事に、誰もが呆気に取られ、しばしその場に立ち尽くしていた。
青年は、気絶した魔獣の様子を確認すると、満足げに頷いた。年齢は、二十歳を少し過ぎたあたりだろうか。飄々とした佇まいながら、その身のこなしには、隙というものが一切感じられなかった。
「一応、聞いておくけど、誰も怪我はしてないかな?」
青年の問いに、リアムが呆然としたまま、辛うじて頷いた。
「あ、ああ……。全員、無事だ。……だが、あなたは、一体」
「調査員、で通しておこうかな。……この辺り、最近ちょっと魔力の流れが不安定でね。見回りをしていたんだ」
軽い口調で答えながらも、青年の視線は、油断なく周囲を確認していた。まるで、他に潜んでいる危険がないかを見極めるような、鋭い眼差しだった。それから、ゆっくりと視線をアリアの方へと向ける。
「やあ、久しぶり――」
その一言に、アリアの心臓が、大きく跳ねた。青年の瞳に浮かぶ、あの懐かしい、いたずらっぽい光。まさか、こんな場所で。
「――アリア」




