番外編3 マンドラゴラ
その日の魔法薬学の授業は、朝から教室中がざわついていた。
「今日は、実技を伴う調理実習を行います。……題材は、マンドラゴラの鎮静スープです」
担当のアルベール教官が、そう告げた瞬間、教室のあちこちから小さな悲鳴が上がった。
「マ、マンドラゴラって、あの、引き抜くと悲鳴を上げるっていう……?」
「うわあ、俺、絶対失神する自信あるぞ」
メアリとトビアスが、揃って青ざめた顔を見合わせている。アリアも、話には聞いていたものの、実際に扱うのは初めてのことだった。
「マンドラゴラの悲鳴は、軽度の精神汚染を引き起こします。長時間近づきすぎると、めまいや吐き気を催すことがあるので、各自、十分注意するように」
アルベール教官の淡々とした説明に、教室の緊張は一気に高まった。厳格で気難しいことで有名なこの教官の授業は、失敗すれば容赦なく減点される。生徒たちは、それぞれの作業台に運ばれてきた、しなびた根のような姿の植物――マンドラゴラを前に、戦々恐々としていた。
「まずは、土から丁寧に引き抜きなさい。急に引くと、悲鳴が大きくなり、精神汚染も強まります」
教官の指示のもと、各テーブルで、恐る恐る作業が始まった。
「い、いくよ、トビアス……」
「お、おう。せーの……!」
メアリとトビアスが、ペアでマンドラゴラの根元を掴み、そっと引き抜こうとした瞬間、教室中に、耳をつんざくような甲高い悲鳴が響き渡った。
「ぎゃああああああ!」
「うわああ、耳がっ……! 頭が、くらくらする……!」
二人とも、悲鳴と共に椅子ごとひっくり返りそうになっている。教室のあちこちで、似たような悲鳴と混乱が巻き起こった。
「くっ……耳鳴りが……」
「私、もう駄目、目が回る……」
リゼットも、上級生らしいプライドを保とうと必死な様子だったが、その顔色は明らかに悪くなっていた。
一方、アリアは、自分の作業台の前で、少し困った顔をしていた。実は、故郷の村で、薬草学の師でもあった父から、マンドラゴラの扱い方を教わったことがあったのだ。
(確か、これを持ってれば、悲鳴が軽くなるはず……)
アリアは、鞄の中に忍ばせていた、乾燥させた特製のハーブを取り出した。マンドラゴラの悲鳴――正確には精神への干渉波――を中和する効果があると、故郷では言い伝えられていたものだ。それを軽く握りしめながら、アリアは静かにマンドラゴラの根元に手をかけた。
「見えざる風の膜よ、この叫びを、優しく包み込め――」
ごく小さく、聞き取れないほどの声で詠唱を紡ぎ、アリアはそっとマンドラゴラを引き抜いた。上がった悲鳴は、他の生徒たちのものと比べ、驚くほど小さく、まるで子猫の鳴き声のようだった。
周囲が悲鳴と混乱に包まれる中、アリアだけが、平然とした顔で作業を進めていた。その様子に、隣の作業台のリアムが、思わず目を見張る。
「アリア嬢、君は、平気なのか?」
「あ、はい。実は、故郷で、コツを教わったことがあって……」
「なるほど、さすがだな。私は、この悲鳴に、少々参っている」
珍しく弱音を吐くリアムの様子に、アリアは思わず微笑んだ。リアムの手元では、マンドラゴラがまだ小刻みに震え、時折小さな悲鳴を漏らしている。彼自身は、あの強力な結界術で全身を覆い、悲鳴の影響を最小限に抑えているようだったが、それでも顔色は少し優れないようだった。
「よろしければ、私のハーブ、少し分けましょうか。悲鳴を和らげる効果があるので」
「ありがたい。助かる」
アリアが小さな包みを手渡すと、リアムはそれを鼻先に近づけ、ふっと表情を緩めた。
「これは……。確かに、悲鳴が和らいだ気がする。一体、どこで、こんなものを?」
「故郷の村では、みんな普通に使ってました。マンドラゴラ、薬の材料としてよく育ててたので」
「そうか。……本当に、君は、時々途方もない知識を持っているな」
感心したように呟くリアムに、アリアは内心、ひやりとした。田舎育ちにしては博識すぎる、と思われては困る。
「た、たまたまです! 田舎だと、こういう知識、意外と役に立つので」
慌てて誤魔化すアリアの様子に、リアムは特に深く追及することなく、小さく笑うだけだった。
その後、マンドラゴラの引き抜き作業を終えると、いよいよスープの調理に取り掛かる段階になった。マンドラゴラの根を丁寧に刻み、鎮静効果のある薬草と共に、じっくりと煮込んでいく。火加減が、味と効能を大きく左右する、繊細な工程だ。
「弱火で、ゆっくりと、魔力を込めながら加熱すること。……焦らずに、丁寧に」
アルベール教官の指示に従い、アリアは鍋の前に座り込んだ。火魔法の《加熱》を使い、じわじわと鍋の中身を温めていく。故郷で何度もやった作業だ。手つきに迷いはなかった。
(このくらいの火加減で……)
集中しすぎたせいか、アリアの《加熱》は、教本に書かれている基準よりも、遥かに精密に、そして均一に鍋全体を温めていた。ぐつぐつと、理想的な泡立ちで煮え立つスープからは、得も言われぬ香ばしい香りが漂い始める。
「なんだか、アリアちゃんのところから、すごくいい匂いがしてきた……」
隣の作業台のメアリが、羨ましそうに鼻をひくつかせた。他のテーブルからも、次第に視線が集まり始める。
「おい、あそこの鍋、なんか様子が違わないか?」
「本当だ、色つやが、全然違う……」
周囲のざわめきに、アリアは慌てて火加減を弱めようとしたが、時すでに遅かった。味見の時間になり、アルベール教官が教室を巡回してくる。
「では、順番に味見をします。……次、ローゼン」
名前を呼ばれ、アリアは緊張しながらスプーンを差し出した。教官は、無言でスープを一口すすると、一瞬、目を見開いた。
「……むぅ」
厳しいことで有名なアルベール教官の反応に、教室中が静まり返る。
「これは……。火加減、薬草の配合、共に完璧だ。まるで、熟練の薬師が仕上げたような味わいだな。……ローゼン、故郷では、こういった調理を、よくしていたのか」
「あ、はい。父が、薬草師をしていたので、その手伝いを、よく……」
「なるほど、道理でな。……これは、今学期、最も見事な出来だ」
教官の淡々とした、しかし確かな称賛の言葉に、教室中がどよめいた。
「え、アリアちゃん、教官に褒められるとか、すごすぎない?」
「マジかよ、あの気難しいアルベール先生が……」
周囲からの驚きの声に、アリアは思わず身を縮めた。目立つことは、何よりも避けたかったはずなのに、また、こうして注目を浴びてしまう。
(また、やっちゃった……)
顔を赤くして俯くアリアの隣で、リアムが、どこか楽しそうに口元を緩めていた。
「見事だったな、アリア嬢。まさか、料理の腕まで、これほどとは思わなかった」
「そ、そんな、たまたまです……。本当に、たまたま……」
「謙遜も、そこまでいくと、いっそ清々しいな」
からかうようなリアムの言葉に、アリアはますます居た堪れなくなった。だが、心のどこかでは、誰かに認めてもらえたことへの、静かな喜びも感じていた。
授業の後、寮の部屋に戻ったアリアは、鞄から出てきたクロノに、今日の出来事を報告した。
「クロノ、また、目立っちゃった……」
「フン、当然の結果よ。お前が本気で作れば、市井の一流料理人ですら、裸足で逃げ出すような出来になるのは、わかりきったことだ」
「うう……。もっと、手加減しないと駄目だってわかってるんだけど、つい、集中しちゃうと……」
「まあ、料理くらいで大騒ぎされる程度なら、可愛いものよ。……とはいえ、次からは、少し手を抜くことも覚えるがよい」
クロノの言葉に、アリアは深く頷いた。それでも、あのアルベール教官の、驚いたような表情を思い出すと、なんだか少し誇らしいような、くすぐったいような気持ちになるのだった。
「今度、機会があったら、また作ってあげたいな。みんなに」
「フン、お前らしい望みだ。まあ、ほどほどにな」
その夜遅く、寮の談話室では、メアリとトビアス、それにクララが集まり、昼間の一件について盛り上がっていた。
「今日のアリアちゃん、本当にすごかったね。あのアルベール先生が、あんな顔するの、初めて見た」
「マンドラゴラの悲鳴も、全然平気そうだったしな。あいつ、いったい何者なんだ」
トビアスの何気ない一言に、クララが興味津々といった様子で身を乗り出した。
「アリアさんって、本当に、色々なことを知ってますよね。図書委員としても、いつも助かってます」
「まあ、田舎育ちだからな。色々と鍛えられたんだろ」
メアリが、そう言って笑うと、皆も納得したように頷いた。当の本人が聞いたら、複雑な顔をしそうな会話だったが、幸い、アリアはすでに自室で休んでおり、その内容を知る由もなかった。
翌日の授業では、アルベール教官が、珍しく笑みを浮かべながら、こんなことを言った。
「昨日のマンドラゴラのスープ、実は職員室でも、話題になっていてな。……ローゼン、もし興味があれば、今度、上級生向けの薬草学の補習に、助手として顔を出してみないか」
思いがけない提案に、アリアは目を丸くした。
「わ、私が、ですか?」
「ああ。君の腕前は、一年生にしておくには惜しい。もちろん、無理にとは言わないが」
「あ、ありがとうございます……! 少し、考えさせてください」
嬉しさと戸惑いの入り混じった表情で、アリアはそう答えた。放課後、クロノにその話をすると、意外にも肯定的な反応が返ってきた。
「ほう、悪くない話ではないか。人に教えるということは、お前自身の技術を、より確かなものにする。それに、目立ちすぎることを恐れて、殻に閉じこもるよりは、よほど健全だ」
「そう、なのかな……」
「うむ。まあ、無理のない範囲で、やってみるがよい。案ずるな、少々目立ったところで、お前が思うほど、世界は崩れはせぬ」
クロノの言葉に、アリアは少しだけ、肩の力が抜けるのを感じた。すぐには決められなかったが、心のどこかでは、その提案に、確かな興味を感じ始めていた。




