番外編2 リゼット、風邪をひく
その日、教室に現れたリゼットの様子は、明らかにいつもと違っていた。
「おはようございます、リゼットさん」
「……ええ、おはよう」
声に、いつもの張りがない。顔色も、心なしか青白い気がする。だが、リゼットは扇子で口元を隠し、いつも通りの澄ました表情を崩そうとはしなかった。
「リゼットさん、大丈夫ですか? なんだか、顔色が……」
「な、なんでもないわ。ただの、寝不足よ。実技の自主練習を、少し頑張りすぎただけ」
強がるようなその言葉に、アリアは思わず眉をひそめた。ここ数日、リゼットが放課後、一人で訓練場に残り、遅くまで魔法の練習をしている姿を、アリアは何度か見かけていた。総合実技での経験を糧に、応用力を鍛え直すのだと、以前、そう語っていたのを思い出す。
(無理、してるんじゃ……)
その日の授業中、リゼットは何度か小さく咳き込んでいた。休み時間になると、机に突っ伏すように座り込んでいる。
「リゼットさん、本当に大丈夫ですか?」
「し、心配しなくても、平気よ……。この程度、いつものことだわ」
言葉とは裏腹に、額には玉のような汗が浮かんでいた。心配した担任のエルザ先生に促され、リゼットは渋々といった様子で、早退することになった。
「まったく、たかが風邪くらいで、大袈裟な……」
悔しそうに呟きながら、リゼットは付き添いの侍女に連れられ、寮の自室へと戻っていった。その後ろ姿を見送りながら、アリアの胸には、じわじわと心配が募っていった。
放課後、図書委員の作業を終えたアリアは、迷った末に、リゼットの部屋を訪ねることにした。
「クロノ、どうしよう。リゼットさん、大丈夫かな」
「ふん、放っておけばよかろう。あの令嬢のことだ、侍女が大勢ついておる。お前が心配せずとも、どうにかなる」
「でも……。せっかく最近、仲良くなれた気がしてたのに、何もしないのは、なんだか嫌なの」
鞄の中から返ってきたのは、呆れたようなため息だった。
「まあ、好きにするがいい。お前が気に病むよりは、そちらの方が、まだ気が晴れよう」
クロノの許しを得て、アリアは寮の厨房を借り、故郷仕込みの薬草粥を作ることにした。薬草学の授業で習った、体を温め、消耗した魔力の回復を助ける薬草を選び、丁寧に下ごしらえをしていく。ついでに、あの裏庭の畑で採れた、まだほんの少しの若葉も加えることにした。
「これなら、少しは効くはず……」
念入りに味を整え、湯気の立つ器を手に、アリアはリゼットの部屋へと向かった。上級生用の寮とは違う、令嬢らしい豪華な扉の前で、アリアは少し緊張しながらノックをした。
「どちら様?」
「あ、アリアです。リゼットさんの、お見舞いに……」
少し間を置いて、扉が開かれる。中から現れたのは、リゼット付きの侍女だった。
「まあ、ローゼン様。わざわざ、ありがとうございます。お嬢様、少しお待ちを」
案内された部屋の中で、リゼットはベッドに横たわり、心なしか気まずそうな顔でアリアを見上げた。
「な、なんで、あなたが来るのよ……。こんな、みっともない姿を見せたくなかったのに」
「心配だったので、来ちゃいました。あの、これ、故郷仕込みの薬草粥なんです。よかったら」
器を差し出すと、リゼットは戸惑ったように視線を泳がせた。
「へ、平民の施しなんて、受け取れるわけ……」
「そんなこと言わずに。冷めないうちに、少しだけでも」
アリアの押しに、リゼットは渋々といった様子でスプーンを手に取った。恐る恐る一口すすると、その表情が、ふっと緩んだ。
「……美味しい」
「よかった。効くといいんですけど」
夢中で器の中身を食べ進めるリゼットの様子に、アリアは思わず微笑んだ。ものの数分もしないうちに、器はすっかり空になっていた。
「べ、別に、美味しかったわけじゃないんだからね! ただ、お腹が空いていただけで」
「ふふ、はい、わかりました」
わかりやすい強がりに、アリアは思わず笑ってしまった。すると、なぜか少しずつ、リゼットの顔に赤みが戻ってきているような気がした。
「なんだか、体が、じんわり温かくなってきたわ……。それに、頭も、少しはっきりしてきた気がする」
「よかった。ちゃんと、効いてるみたいですね」
実のところ、アリアの薬草粥には、ごくわずかに、治癒の魔力がにじんでいた。故郷の村で、風邪を引いた父にも同じものを作った経験がある。あの時は、まだ力の加減がわからず、翌朝には父がすっかり元気になりすぎて、村中を走り回っていたことを思い出し、アリアは内心ひやりとした。
(さすがに、今回は、抑えられたはず……)
効果が出るまでには、それなりの時間がかかったように見え、アリアはひとまず胸を撫で下ろした。
「あなた、故郷では、こういうことも、よくしていたの?」
「はい。父が、よく体調を崩す人だったので。薬草学は、故郷でずっと勉強してました」
「そう……。それにしても、こんなに手早く、しかも美味しいものが作れるなんて、意外だったわ」
リゼットの言葉には、いつもの棘がなかった。むしろ、素直な感心の色が滲んでいる。
「無理して、練習してたんですよね。総合実技の後から」
「……ええ。あなたに、あと少しで抜かれかけたのが、悔しくて。もっと、確かな力をつけたいと思ったの」
その正直な告白に、アリアは少し驚いた。あのプライドの高いリゼットが、こうして素直に弱さを見せてくれるとは、思ってもみなかった。
「でも、無理しすぎたら、元も子もないですよ。また今度、一緒に練習しましょう。応用の練習、私も、まだまだですし」
「……そうね。今度は、無理のない範囲でやることにするわ」
リゼットは、ふっと小さく笑った。それは、いつもの取り澄ました微笑みとは違う、どこか無防備な、素の表情だった。
「ローゼンさん」
「はい?」
「その……ありがとう。わざわざ、来てくれて」
「いえ、これくらい、当然です。友達ですから」
その一言に、リゼットは一瞬、目を丸くした。それから、照れくさそうに視線を逸らす。
「友達、ね……。悪くない響きだわ」
しばらく他愛のない話をした後、リゼットがふと、遠くを見るような目をした。
「正直に言うとね、私、ずっと不安だったの。アークライト家やローゼン家の跡取りたちと違って、私は、次期当主にすらなれない、オルレアン家の三女なのよ。せめて、実力だけでも示さないと、誰にも見向きもされなくなってしまう」
思いがけない打ち明け話に、アリアは息を呑んだ。いつも堂々として見えるリゼットの裏に、そんな焦りが隠れていたとは、想像もしていなかった。
「そんなこと……。リゼットさんは、十分にすごい人だと思います。総合実技だって、二位だったじゃないですか」
「ふん、二位じゃ、駄目なのよ。一番でなければ、意味がない世界で、私は育ってきたんだから」
その口調には、以前のような余裕はなく、むき出しの本音がにじんでいた。アリアは、何と声をかければいいのか、しばらく言葉を探した。
「私は、一番とか、順位とか、正直よくわからないです。でも、リゼットさんが、一生懸命努力してる姿は、ずっと格好いいなって思ってました」
「……本当に、あなたって、変わってるわね」
リゼットは呆れたように、けれどどこか嬉しそうに笑った。
「でも、少しだけ、気が楽になった気がするわ。ありがとう」
「私も、リゼットさんの本音、聞けて嬉しかったです」
二人はしばし、静かに笑い合った。
その日の夕方、部屋を辞して寮の廊下を歩いていると、ちょうど見舞いに来たらしいリアムと鉢合わせした。
「アリア嬢、オルレアン嬢の様子は、どうだった?」
「だいぶ、元気になったみたいです。薬草粥を食べたら、顔色もよくなって」
「そうか、それは何よりだ。……君は、本当に、面倒見がいいな」
リアムの率直な言葉に、アリアは思わず頬を赤らめた。
「そ、そんなことないです。ただ、心配だっただけで……」
「その『ただ』が、なかなかできないものだと、私は思うがな」
穏やかな笑みを浮かべるリアムに、アリアはますます居た堪れなくなり、慌てて会釈をして自室へと逃げるように戻った。廊下を歩きながら、胸の高鳴りがなかなか収まらないのを感じていた。
寮の廊下を歩きながら、鞄の中のクロノに、今日の出来事を報告する。
「クロノ、リゼットさん、だいぶ元気になったみたい」
「ほう、それは重畳。まあ、お前の薬草粥の腕前は、わしも認めておるところだ」
「うん。それに、なんだか、前よりも、リゼットさんと仲良くなれた気がする」
「フン、良い傾向だ。……とはいえ、次は、もう少し慎重に力を加減することだな。あの令嬢、意外と鋭いところがある。今日は誤魔化せたようだが、次も同じとは限らんぞ」
クロノの忠告に、アリアは神妙な面持ちで頷いた。それでも、心の中には、温かな満足感が広がっていた。
「それにしても、リゼットさんが、あんな本音を話してくれるなんて、思わなかった」
「人というのは、弱っている時にこそ、本性が出るものよ。あの令嬢が、お前に心を許し始めた証だろう」
「うん……。なんだか、今までより、もっと仲良くなれた気がする」
「まあ、悪いことではあるまい。友というのは、多いに越したことはない――もっとも、その分、守るべきものも増えるがな」
クロノの言葉の端に滲む、いつもとは違う真剣な響きに、アリアは一瞬、首を傾げた。だが、クロノはそれ以上、多くを語ろうとはしなかった。
寮の部屋に戻ったアリアは、窓の外の月を見上げながら、静かに呟いた。
「これからも、こうやって、誰かの力になれたらいいな」
「フン、欲張りなことよ。だが、それも、悪くない望みだ」
クロノの言葉に、アリアは小さく微笑んだ。誰かに優しくすることの喜びを、アリアはまた一つ、この学園で学んでいた。
翌日、教室に姿を見せたリゼットは、すっかりいつもの調子を取り戻していた。だが、扇子の陰から向けられる視線には、以前にはなかった、どこか柔らかな親しみが込められていた。
「ローゼンさん、昨日の粥、もう一度食べたいくらいだったわ。今度、作り方を教えてもらえないかしら」
「あ、はい、もちろんです。今度、一緒に作りましょうか」
「ふふ、楽しみにしているわ」
教室の隅で交わされる、そんな他愛のないやり取りを、メアリが微笑ましそうに眺めていた。アリアの周りに、少しずつ、確かな絆が広がりつつあることを、誰もが感じ始めていた。




