番外編1 裏庭の開墾、始まる
中間試験が終わり、結果発表からも数日が過ぎた、とある休日の午後。アリアは、寮の裏手にある、誰も使っていない小さな空き地の前に立っていた。
雑草が生い茂り、隅には壊れた木箱がいくつか放置されているだけの、殺風景な一角だ。だが、アリアの目には、そこがまるで宝物のように映っていた。
(誰も、使ってないみたい……。ここなら、きっと)
鞄の中から、クロノがひょっこりと顔を出す。
「ほう。こんな場末で、何をするつもりだ」
「クロノ、見て。ここ、誰も使ってないみたいなの。もしかしたら、少しくらい借りても、怒られないんじゃないかなって」
「フン、それで?」
「私、ここに、薬草畑を作りたいの。故郷でお父さんと育ててたみたいに」
アリアの声には、隠しきれない期待がにじんでいた。寮の食事も悪くはないが、故郷の村で嗅いでいた土と薬草の匂いが、時々、無性に恋しくなる。それに、休日にやることがないというのも、正直な理由の一つだった。
「まあ、悪くない暇つぶしだ。……だが、あの本の通りにやるつもりなら、少しは加減せんとな」
「あの本?」
「お前が寮の部屋に隠している、あの怪しい家庭菜園の本よ。中身は、まともな農業書というより、ほとんど魔術書だったではないか」
図星を突かれ、アリアは思わず頬を赤らめた。『風使いの楽しい家庭菜園』――故郷の村で、行商人から安値で買った、一風変わった一冊だ。表向きは素朴な家庭菜園の指南書だが、中身には「風による害虫の選別的排除」だとか「土壌魔力の均一化」だとか、専門家でも首をかしげるような技法が、事もなげに書かれていた。
「で、でも、あの本のおかげで、故郷の畑は村で一番の収穫量だったんだから」
「その結果、村の連中に『ローゼン家の畑は何かがおかしい』と噂されておったのを、忘れたか」
「うっ……」
痛いところを突かれ、アリアは言葉に詰まった。だが、今のアリアは、あの頃よりも、ずっと力の制御が上達している。少しくらいなら、大丈夫なはずだ――そう自分に言い聞かせ、アリアは早速、作業に取り掛かることにした。
まずは、雑草の除去からだ。教科書通りの手作業でやるつもりだったが、ふと、本の一節を思い出す。「風の魔法で、根から優しく引き抜くべし」――。
「見えざる指先よ、地の底まで潜り、絡まる根を、そっと解け――」
小さく詠唱すると、地面に細い風の渦がいくつも生まれ、雑草の根元に絡みついた。ゆっくりと、けれど確実に、雑草が土から浮き上がっていく。あっという間に、空き地はすっかり更地になった。
「わ……! すごい、思ったより上手くいった」
「フン、当然だ。お前の魔力量からすれば、この程度の作業、瞬き一つでも終わる」
クロノの言葉に、アリアは少し照れくさくなった。次は、土づくりだ。故郷の畑と違い、この空き地の土は、何年も手入れされていないせいか、硬くひび割れていた。
「これは……ちょっと、土を柔らかくしないと」
アリアは膝をつき、そっと土に手を当てた。かすかな魔力を流し込み、土の中の水分と養分の巡りを整えていく。本来なら、ごく微量の魔力で行うべき作業だったが、集中するあまり、アリアの手のひらから、ほんのりと淡い光が漏れ出していることに、本人は気づいていなかった。
(このくらいの土なら、育ちやすくなるはず……)
しばらくすると、ひび割れていた土は、しっとりとした、黒々とした理想的な土壌へと姿を変えていた。まるで、何年も丁寧に手入れされてきたかのような、驚くほどの変わりようだった。
「アリア、そこまでにしておけ」
「え? もう終わり?」
「もう十分すぎるほどだ、というより、やりすぎだ。お前、今、無意識に光の魔力を混ぜておったぞ」
その指摘に、アリアはハッと自分の手を見た。慌てて魔力を引っ込めるが、時すでに遅く、目の前の土は、他のどこの畑とも比べ物にならないほど、豊かな土壌に生まれ変わってしまっていた。
「ど、どうしよう……。これ、見た人が変に思わないかな」
「まあ、単なる空き地の土いじりだ。誰も、いちいち気にはすまいよ。……とはいえ、今後は、もう少し力を抑えることだな」
クロノの忠告に、アリアは深く頷いた。せっかく育て始めた畑が、変な噂の種になってしまっては、元も子もない。
土づくりが終わると、次は種まきだ。アリアは、故郷から持ってきていた、いくつかの薬草の種を、大切そうに鞄から取り出した。カモミールに似た鎮静効果のある花、傷の治りを早める薬草、それに、風邪に効くとされるハーブ――どれも、故郷の村では欠かせない、生活に密着した薬草たちだ。
「ちゃんと、育ってね」
種を丁寧に土に埋めながら、アリアは小さく呟いた。作業を終えた頃には、すっかり日が傾き始めていた。額に滲んだ汗を拭い、アリアは満足げに、出来上がったばかりの小さな畑を見つめた。
「クロノ、見て。ちゃんと畑らしくなった」
「うむ、悪くない出来だ。……だが、この分だと、収穫まで、そう時間はかからんかもしれんな」
「そうだといいな。早く、みんなに食べてもらいたい」
その時、背後から声をかけられ、アリアは飛び上がりそうになった。
「アリアちゃん? こんなところで、何してるの?」
振り返ると、メアリが不思議そうな顔で立っていた。
「メ、メアリ! び、びっくりした……」
「ごめんね、驚かせちゃって。寮の裏、あまり人が来ないから、誰かいるなんて思わなくて」
「あ、えっと、実は、こっそり薬草畑を作ろうと思って……。故郷でも、よくやってたから」
「へえ、薬草畑! いいね、素敵じゃない」
メアリは、興味津々といった様子で、出来立ての畑を覗き込んだ。
「これ、種を蒔いたばかりなんだよね? なんだか、土がすごく、しっとりしてる気がする」
「そ、そうかな。ただの、普通の土だと思うけど」
内心冷や汗をかきながら、アリアは何とか誤魔化した。メアリは特に疑う様子もなく、しゃがみ込んで土を触っている。
「私も、たまに手伝っていい? 一人でお世話するの、大変でしょう」
「う、うん! もちろん。一緒にやってくれたら、すごく嬉しい」
思いがけない申し出に、アリアは顔を輝かせた。誰かと一緒に、畑の世話をする――それは、故郷にいた頃には想像もしなかった、新しい楽しみだった。
「じゃあ、これからは、放課後にちょくちょく様子を見に来ようかな」
「うん、待ってる。あ、でも、あんまり大っぴらにはしないでね。勝手に使ってる場所だから」
「わかった、内緒にしとくね。二人だけの秘密の畑、ってことで」
メアリの悪戯っぽい笑みに、アリアも思わず笑みをこぼした。
翌朝、授業前に様子を見に行こうと、アリアは早起きして裏庭へと向かった。だが、畑の前に立った瞬間、思わず息を呑む。
「え……嘘、でしょう……」
昨日、種を蒔いたばかりだったはずの土から、すでに小さな双葉が、いくつも顔を出していた。しかも、その葉の色は、教本の挿絵で見るよりも遥かに濃く、生き生きとしている。
(一晩で、こんなに……)
慌てて鞄からクロノを取り出し、事の次第を報告する。
「クロノ、大変! もう芽が出てるの、こんなに早く!」
「フン、当然の結果よ。昨日、あれだけ濃密な魔力を土に混ぜ込んでおいて、普通の成長速度を期待する方が、どうかしておる」
「ど、どうしよう。誰かに、見られたら……」
「案ずるな。多少成長が早いくらい、目端の利かん者には、ただの豊作にしか映らん。……ただし、これ以上、無意識に力を垂れ流すのだけは、慎むことだ」
クロノの忠告に、アリアは何度も頷いた。幸い、朝早い時間帯とあって、周囲に人影はない。アリアは、胸を撫で下ろしながら、慎重に水やりを済ませ、急いで教室へと向かった。
その日の放課後、図書委員の作業を終えたアリアが裏庭に立ち寄ると、思いがけない人物と鉢合わせした。
「アリア嬢? こんなところで、何を?」
リアムだった。書庫への近道として、この裏手を通りかかったらしい。
「あ、リ、リアム様……! こ、これは、その……」
しどろもどろになりながら、アリアは慌てて畑の前に立ち塞がった。リアムは、少し不思議そうな表情を浮かべながらも、深く追及することはなかった。
「ここに、畑があったのか。……なるほど、故郷を思い出す、というわけだな」
「は、はい。少しだけ、寂しくなることがあって……。それで、こっそり」
「別に、咎めるつもりはない。使われていない土地を、有効に活用しているだけだろう。それに――」
リアムは、ふと畑の方に視線を落とし、わずかに目を細めた。
「随分と、生育の良い土のようだな。この時期にしては、芽の出が早い気がする」
その一言に、アリアの心臓が跳ねた。だが、リアムはそれ以上深くは触れず、静かに微笑んだ。
「まあ、良い趣味だと思う。何か困ったことがあれば、遠慮なく言ってくれ」
「あ、ありがとうございます……」
リアムが立ち去った後、アリアはその場にへたり込みそうになった。鞄の中から、クロノの呆れたような声が聞こえてくる。
「危なかったな。あの小僧、意外と目端が利く」
「う、うん……。次からは、もっと気をつける」
その日の夜、寮の部屋に戻ったアリアは、鞄から出てきたクロノに、今日の出来事を報告した。
「というわけで、メアリも手伝ってくれることになったの」
「ほう、それは重畳。まあ、一人でこっそりやるより、目撃者が最初から味方についておる方が、都合がいいこともあろう」
「クロノ、それ、褒めてるの? けなしてるの?」
「さてな。ただ、しばらくは、あの調子で力を抑えて世話をするのだぞ。でなければ、収穫の頃には、王宮に献上されるほどの代物になりかねん」
「さ、さすがに、そこまでは……」
クロノの脅すような物言いに、アリアは苦笑いを浮かべた。だが、内心では、少しだけ不安もあった。故郷の畑がそうだったように、今度もまた、思わぬ形で目立ってしまうのではないか――。
「まあ、案ずるな。今のお前なら、昔よりずっと、力の加減を心得ておる。多少の失敗があっても、それもまた、良い経験というものよ」
クロノの、いつになく優しい言葉に、アリアは頬を緩めた。
「うん。明日から、ちゃんと様子を見に行くね」
「うむ、励むがよい」
窓の外、二つの月が、今夜も静かに輝いている。誰にも知られていない、小さな裏庭の畑には、これから芽吹くはずの薬草の種と、アリアの新しい日常の楽しみが、静かに眠っていた。それが、後にどれほどの噂を呼ぶことになるのか――この時のアリアは、まだ知る由もなかった。




