第20話 積み重ねた日々の先に
特別書庫への立ち入りを許されてから、アリアとリアムは、放課後の時間の多くを、あの静謐な空間で過ごすようになっていた。リアムは祖先アルキメナスの著書を、少しずつ読み解く作業に没頭し、アリアは、その傍らで蔵書整理を手伝いながら、時折、気になる本にそっと目を通す日々を送っていた。
「今日も、あまり進まなかったな」
書見台に広げた『結界術原論』を前に、リアムが小さくため息をついた。
「難しい本、なんですね」
「ああ。専門用語も独特だし、何より、アルキメナス様の筆致は、癖が強い。だが……解けそうで解けない、この感じが、なんだか悪くない」
困り顔をしながらも、どこか楽しげなリアムの様子に、アリアは思わず微笑んだ。
「今日はどこまで読めたんですか?」
「第三章の途中だ。空間を定義する術式の基礎、というところまでは理解できたが……ここから先、応用の部分になると、途端に難解になる」
リアムは開いたページを指でなぞりながら、眉間に皺を寄せた。
「この図形、何かの結界の見取り図のようですね」
「ああ。おそらく、境界を幾重にも重ねることで、より強固な結界を築く術式なんだろう。だが、その重ね方の理論が、どうにも掴みきれない」
真剣に本と向き合うリアムの横顔を、アリアはそっと見つめた。普段の凛とした佇まいとはまた違う、真摯な探究心に満ちたその表情には、不思議な魅力があった。
「私も、何かお手伝いできることがあれば、いいんですけど」
「十分、助けてもらっているさ。こうして、隣で付き合ってくれているだけでも」
その率直な言葉に、アリアの頬がほんのりと熱くなった。こうした何気ない時間が、アリアにとって、いつのまにか、かけがえのないものになっていた。
作業を続けていると、書庫の入り口の方から、聞き慣れない足音が近づいてきた。振り返ると、そこには、見覚えのない女性教師が立っていた。鋭い目つきと、纏う空気のどこか冷ややかな雰囲気に、アリアは思わず身構えた。
「……こんなところに、生徒が?」
低く、抑揚の乏しい声だった。ソフィアが、すぐに歩み寄る。
「ヘレナ先生。彼らは、正式に許可を得た図書委員です」
「そう。……随分と、早熟な生徒たちね」
ヘレナと呼ばれたその教師は、値踏みするような視線を、アリアとリアムに向けた。全身が、ひやりと冷たくなるような感覚に、アリアは思わず息を呑んだ。
「アリア・ローゼン、だったかしら。噂は、聞いているわ」
「……!」
自分の名前を知られていたことに、アリアは驚きを隠せなかった。
「噂、ですか?」
「初級班から、週間成長賞を獲ったそうね。それに、あの入学式での、使い魔の一件も」
ヘレナの口元に、微かな笑みが浮かんだ。だが、その笑みには、どこか刺すような冷たさが滲んでいた。
「面白い生徒がいるものだと、思っていただけよ。それだけのこと」
ヘレナの視線が、一瞬、アリアの奥底を見透かすように、じっと注がれた。まるで、皮膚の下に隠された何かを探るような、そんな眼差しだった。
「……ふぅん。案外、面白いものを隠していそうね、あなた」
「な、何のことでしょうか」
思わず声が上ずる。ヘレナは、それ以上追及することなく、ただ小さく肩をすくめた。
「さあ、何のことかしら。……気のせいかもしれないわ」
それだけ言うと、ヘレナは踵を返し、禁書庫へと続く、さらに奥まった扉の方へと歩いていった。その後ろ姿が完全に見えなくなるまで、アリアはしばらく、息をひそめていた。
「……今の方は?」
「魔法薬学と、高等魔導理論の教官だ。……厳格な方だとは聞いていたが、あそこまで、独特な雰囲気の人だとは思わなかったな」
リアムの言葉に、ソフィアが静かに補足した。
「ヘレナ先生は、禁書庫の管理も任されている方です。……あまり、関わる機会は多くないと思いますが、念のため、心に留めておいてくださいね」
その言葉には、単なる紹介以上の、何か含みのある響きが感じられた。アリアは、先ほどのヘレナの視線を思い出し、小さな胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。
「ソフィア先生は、ヘレナ先生と、親しくされているんですか?」
思い切って尋ねると、ソフィアはわずかに視線を伏せた。
「同僚として、それなりに長い付き合いです。……ただ、あの方の専門とする分野は、私たち司書が触れる領域とは、また少し違いますから」
「禁書庫、というのは、特別書庫よりも、さらに厳重に管理されているんですか?」
「ええ。あそこに収められている書物の多くは、扱い方を誤れば、人の命に関わるようなものばかりです。学園長と、ごく一部の教師にしか、立ち入りは許されていません」
その説明に、アリアは思わず身震いした。特別書庫でさえ、あれほどの緊張感に満ちていたというのに、そのさらに奥には、一体何が眠っているというのだろう。
「あなたたちには、まだ縁のない場所です。……もっとも、この学園には、思いがけない縁というものが、時折起こるものですけれどね」
ソフィアの意味深な言葉に、アリアはなんとも言えない胸騒ぎを覚えながらも、それ以上は尋ねなかった。
その日の作業を終え、図書館を出ると、外はすっかり夕暮れに染まっていた。
「なんだか、今日は、色々な意味で刺激的な一日だったな」
「はい……。ヘレナ先生、少し、怖い方でしたね」
「ああ。だが、気にしすぎることもないだろう。……それより、来月には、実技の中間試験がある。そろそろ、対策を考えておかないとな」
「中間試験……そうでした、忘れかけてました」
思いがけない話題転換に、アリアは思わず頬を引きつらせた。図書委員としての日々に夢中になるあまり、目前に迫った試験のことを、すっかり意識の外に追いやっていた。
「実技か……私、うまくできるかな」
「大丈夫だろう。ここまでの君を見ていれば、心配はいらないと思うが」
リアムの励ましに、アリアは少しだけ肩の力を抜いた。
「リアム様は、剣術も魔術も得意そうですし、心配なさそうですね」
「いや、そう単純な話でもない。実技試験は、剣術、結界術、そして属性魔法の三種目に加え、総合評価もある。どれか一つでも著しく劣っていれば、良い成績は望めない」
「そうなんですね……」
「まあ、お互い、苦手分野を補い合えるといい。私は結界術には自信があるが、繊細な調合作業は、正直、少し苦手だからな」
「そういえば、薬草学の授業でも、水の計量に苦戦されてましたね」
「うっ……その話は、あまり蒸し返さないでくれ」
珍しく狼狽えるリアムの様子に、アリアは思わずくすりと笑った。こうした気安いやり取りができるようになったことも、この一月あまりで得られた、大切な変化の一つだった。
寮への帰り道、鞄の中からクロノの声が聞こえてきた。
「今日は、また新たな顔と出会ったようだな」
「うん……ヘレナ先生。なんだか、背筋がぞくっとするような方だった」
「ほう。……禁書庫の管理者、か。ふむ、覚えておくとしよう」
クロノの声には、いつもの軽さの中に、微かな緊張のようなものが滲んでいた。
「クロノ、あの人のこと、何か知ってるの?」
「いいや、何も。ただの勘よ。長く生きておると、そういう気配には、自然と敏感になるものでな」
はぐらかすような答えに、アリアはそれ以上追及しなかった。だが、胸の奥にわずかに残る違和感は、なかなか拭い去れなかった。
「それより、試験の話だったな。実技、か」
「うん……薬草学は自信あるけど、他の実技は、ちょっと不安かも」
「フン、今更何を怖じ気づいておる。お前は、わしが仕込んだ抑制術も、初級魔法の制御も、地道に積み重ねてきたではないか」
「そうだけど……実技って、みんなの前でやるものでしょ。失敗したらどうしようって、つい考えちゃって」
「失敗を恐れて何もせぬより、挑んで転ぶ方が、よほど価値がある。それに――」
クロノは、そこで一度言葉を切ってから、続けた。
「案ずるな。お前には、わしがついておる。それに、あの小僧も、それなりに頼りになるようだからな」
クロノの素っ気ない激励に、アリアは思わず笑みをこぼした。
「クロノも、リアム様のこと、ちゃんと認めてるんだね」
「フン、調子に乗るでない」
いつもの軽口に、アリアの心は温かくなった。ベッドに腰掛け、窓の外を見つめながら、アリアはこの一月あまりの日々を、ゆっくりと振り返った。
図書委員の活動を始めた日、右も左も分からずに緊張していた自分。夜の図書館でエレノアと出会い、初めて自分の力で誰かを救えたと感じたあの夜。開かずの音楽室で、少女の想いに寄り添ったこと。そして、ついに辿り着いた特別書庫と、リアムの祖先の書との出会い。
(本当に、色んなことがあったなあ……)
数えきれないほどの出会いと、小さな成長に満ちた日々だった。目立たず静かに過ごしたいという当初の願いは、いつのまにか、少しずつ違う形へと姿を変えていた。それでも、アリアの心には、後悔よりも、確かな充実感が満ちていた。
「なあ、クロノ。私、この学園に来て、本当に良かったのかな」
「何を今更。決まっておろう」
クロノは即答すると、丸くなったまま、金色の瞳だけをこちらに向けた。
「お前は、この一月で、随分と変わった。臆病だった小娘が、こうして誰かのために力を使えるようになった。それは、誇るべきことだ」
「クロノ……」
「まあ、これからも、色々あるだろうがな。案ずるな、わしがついておる限り、大抵のことは何とかなるものよ」
その素っ気ない、けれど確かな励ましに、アリアの胸には、じんわりとした温かさが広がった。友を得て、居場所を得て、少しずつ、この学園に根を張り始めている自分を、アリアは、静かに誇らしく思っていた。
窓の外、二つの月が、今夜も穏やかに輝いている。図書委員としての日々が積み重なったその先に、次なる試練――実技の中間試験という、新たな挑戦が、アリアを待っていた。




