第19話 特別書庫への扉
開かずの音楽室の一件から一週間が経った、ある放課後のこと。アリアとリアムが図書委員の作業室に入ると、ソフィアがすでに二人を待ち構えていた。
「アリアさん、アークライト様。少し、お話があります」
いつもより改まった口調に、アリアは思わず背筋を伸ばした。隣のリアムも、緊張した面持ちで頷く。
「お二人が、この一月あまりで積み重ねてきたもの――エレノアの一件、そして開かずの音楽室の一件。どちらも、誠実に、そして真摯に向き合ってくれました」
ソフィアは眼鏡の位置を直しながら、静かに続けた。
「図書委員の実績として、十分なものだと、私は判断しています。それに――マーゴットをはじめ、他の委員たちからの信頼も厚い。地道な蔵書整理も、決して手を抜くことなくこなしてくれましたね」
「あ、ありがとうございます……」
思いがけない評価に、アリアは頬を紅潮させた。
「そこで、です」
ソフィアは、腰につけた鍵の束から、一本の古めかしい鍵を取り出した。装飾の施された、重厚な意匠の鍵だった。
「特別書庫への立ち入りを、正式に許可します。今日から、お二人にも鍵の使用を認めましょう」
その言葉に、アリアとリアムは、思わず顔を見合わせた。
「本当に、よろしいんですか」
「ええ。ただし――」
ソフィアの声が、わずかに厳しさを帯びた。
「特別書庫の本は、どれも貴重で、時に危険を伴うものもあります。持ち出しは厳禁。閲覧は、必ず司書の立ち会いのもとで。そして、そこで目にしたことは、みだりに口外しないこと。この三つを、必ず守ってください」
「はい、必ず守ります」
「もちろんだ」
二人の真剣な返事に、ソフィアはわずかに口角を上げた。
「結構。……正直に言えば、こんなにも早く、この日を迎えるとは思っていませんでした。歴代の委員でも、半年、一年とかかる者がほとんどですから」
「そんなに、早かったんですね……」
「ええ。それだけ、お二人の働きぶりが、目に留まったということです。誇ってよいことですよ」
ソフィアの珍しい称賛に、アリアは面映ゆさと誇らしさが入り混じった、なんとも言えない気持ちになった。隣のリアムも、どこか嬉しそうに口元を緩めている。
「では、早速、ご案内しましょう」
案内されたのは、図書館の最奥、一般の生徒はまず立ち入ることのない、重厚な扉の前だった。扉の表面には、精緻な紋様が彫り込まれている。ソフィアが鍵を差し込むと、かちり、という重い音とともに、扉がゆっくりと開いていった。
「……すごい」
思わず、アリアの口からそんな言葉が漏れた。天井まで届く高い書架が、幾重にも連なっている。空気そのものが、どこか一般書架とは違う、静謐な重みを纏っているように感じられた。
「この書庫には、術式書や、稀覯本、貴重な研究記録などが収められています。歴史的な価値だけでなく、中には、まだ解明されていない魔法理論が記された本もあります」
ソフィアの説明を聞きながら、二人はゆっくりと書架の間を歩いていった。埃一つない棚に、革張りの古い本が、整然と並んでいる。時折、うっすらと魔力の気配を纏った本もあり、近づくだけで、肌がぴりりと痺れるような感覚を覚えた。
「これらの本の中には、扱いを誤ると、術式が暴走するものもあります。触れる際は、必ず私の許可を得てからにしてくださいね」
「は、はい」
思いのほか物々しい説明に、アリアは思わず身を引き締めた。ただの図書室とは、まるで違う緊張感が、この空間には満ちていた。
「あ……」
ふと、ある一冊の背表紙に、アリアの視線が吸い寄せられた。『結界術原論 ~空間定義と位相幾何学~』。著者名には、聞き覚えのある名が刻まれていた。
「リアム様、これ……」
「……アルキメナス・フォン・アークライト」
リアムが、震える声でその名を読み上げた。かつて話していた、遠い祖先の著書だった。
「本当に、あったんですね」
「ああ……まさか、こんな形で出会えるとは」
リアムは、そっとその本に手を伸ばし、大切そうに表紙を撫でた。長年、実物を見たことがないと語っていた祖先の書に、思いがけず巡り合えた感慨が、その横顔には滲んでいた。
「開いてみても、よろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ。ただし、丁寧にね」
ソフィアの許可を得て、リアムはそっとページを開いた。古びた紙に、精緻な図形と、見慣れない文字が並んでいる。
「これは……ルーン文字、でしょうか」
アリアが覗き込むと、不思議なことに、その古代の文様が、なぜか自然と意味を持って目に飛び込んでくるような感覚があった。
(……「境界は、断つものではなく、結ぶもの」……)
声には出さなかったが、確かに、そう読み取れた気がした。まるで、文字がそのまま、言葉として頭の中に響いてくるような、不思議な感覚だった。
「アリア嬢? どうした」
「あ、いえ……なんとなく、この本、優しい雰囲気がするなって、思って」
誤魔化すように答えながら、アリアは内心、動揺を隠せずにいた。今のは、一体何だったのだろう。まるで、読めるはずのない古代文字が、するりと頭に入ってきたような――。
その様子を、ソフィアが静かに観察していた。眼鏡の奥の瞳に、わずかな鋭さが宿っている。
「……アリアさん。あなた、この文字が、読めるのですか?」
「え……あ、いえ、そんな、まさか……!」
アリアは慌てて首を振ったが、ソフィアの視線は、しばらくアリアから離れなかった。
「そう。……まあ、いいでしょう。今日のところは」
その言葉に、アリアは以前、夜の図書館での一件の後にも、同じような台詞を聞いたことを思い出した。ソフィアは、いつも「今日のところは」と言葉を濁す。まるで、何かを見極めるように、じっとアリアを見つめながら。
書架を進んでいくと、棚の奥に、クララが話していたという、分類の合わない古い本の一角があった。『大陸古語彙集』『失われた属性の研究』――確かに、他の本とは異なる、独特の気配を纏っている。
「これらの本は、いずれきちんと分類し直す予定です。……もしかすると、お二人にも、いずれ協力してもらうことになるかもしれませんね」
ソフィアの言葉に、アリアとリアムは、揃って頷いた。棚の奥、薄暗がりの中に並ぶ題名の数々を眺めながら、アリアはふと、ここにはまだ自分の知らない世界が、いくつも眠っているのだと実感した。
「なんだか、まだ見ぬ知識の海に、足を踏み入れたような気分です」
「私も、同じ気持ちだ。……焦らず、少しずつ、ここで学べることを、大切にしていきたいな」
リアムの言葉に、アリアは深く頷いた。この静かな書庫が、これから二人にとって、かけがえのない場所になっていく予感がした。
特別書庫を後にし、図書館を出る頃には、外はすっかり夕暮れに染まっていた。
「今日は、色々なことがあったな」
「はい……本当に。まさか、ご先祖様の本に出会えるなんて、思ってもみませんでした」
「ああ。……不思議なものだな。あの本を目にした瞬間、なぜか、胸の奥が熱くなった」
リアムは、少し照れくさそうに続けた。
「実は、家では、あまり歓迎されていない話し方をされてきたんだ。アルキメナス様の研究は異端だった、と。だが、こうして、実際に彼の書いた文字を目にすると……ただの偏屈な学者ではなく、確かに何かを信じて、突き詰めていた人なんだと、そう感じられた」
「素敵な、ご先祖様なんですね」
「ああ。……いつか、もっと詳しく読み解いてみたいと思う。君も、また一緒に付き合ってくれるか」
「もちろんです」
その言葉に、リアムは柔らかく目を細めた。二人並んで歩く帰り道、夕日に染まる石畳が、いつもより温かい色を帯びているように感じられた。
リアムの言葉に、アリアも静かに頷いた。自分の中に眠る、まだ正体の分からない力と、あの不思議な読解の感覚。それが何を意味するのか、アリア自身にも、まだ分からなかった。
寮の部屋に戻り、鞄から出てきたクロノに、その日の出来事を報告すると、金色の瞳が、わずかに細められた。
「特別書庫、か。ついに辿り着いたか」
「うん……それでね、クロノ。古いルーン文字が書かれた本を見たとき、なんだか、意味が分かるような気がしたの。これって……」
クロノはしばし黙り込み、それから、いつになく静かな声で答えた。
「お前のその力は、いずれ、大きな意味を持つことになる。だが、今はまだ、その時ではない」
「また、その時ではない、なの……?」
「うむ。焦るでない。お前が知るべきことは、少しずつ、その扉を開いていくことになろう」
クロノの言葉には、いつもの軽さとは違う、確かな重みが感じられた。アリアは、その響きに、小さな胸騒ぎと、それ以上の静かな期待を覚えながら、ゆっくりと頷いた。
「ソフィア先生にも、何か勘づかれたみたいで、少し怖かった」
「あの司書、ただ者ではないぞ。長年この学園におるだけあって、鋭い目を持っておる」
「うん……。でも、なんだか、悪い人ではない気がするの。むしろ、見守ってくれているような、そんな感じ」
「ほう、お前がそう言うなら、そうなのかもしれぬな」
クロノは金色の瞳を細め、丸くなって静かに息をついた。
「リアムの奴も、随分と嬉しそうだったではないか。ご先祖様の本、とやらに」
「うん。あんな真剣な顔、初めて見た気がする」
思い返すと、リアムがあの本を手にした時の横顔には、いつもの落ち着いた雰囲気とは違う、少年のような無邪気さが滲んでいた。その姿を思い出すだけで、アリアの胸には、温かいものが広がった。
窓の外、二つの月が、今夜も静かに輝いている。特別書庫という新たな扉を開いたアリアの前には、まだ見ぬ多くの謎と、確かな成長の道が、静かに広がっていた。




