第18話 ピアノの残響
夜間の見回りを申し出てから三日後、ソフィアの許可を得たアリアとリアムは、閉館後の図書館に残っていた。窓の外はすでに闇に包まれ、月明かりだけが、静まり返った廊下をぼんやりと照らしている。
「準備はいいか、アリア嬢」
「は、はい……大丈夫です」
緊張の面持ちで頷くアリアに、リアムは小さく笑いかけた。
「無理はしなくていい。何かあれば、すぐに退避しよう」
二人はソフィアから借りた鍵を手に、三階の奥、開かずの音楽室へと続く準備室の扉を開けた。埃っぽい空気の中、古びた楽器や譜面台が、月光を受けて長い影を落としている。
「思ったより、物が多いんですね」
「昔は、盛んに使われていた部屋なんだろうな」
準備室の奥には、音楽室へと続く小さな窓があった。そこから覗くと、埃をかぶったグランドピアノが、部屋の中央にひっそりと佇んでいるのが見える。
棚には、古い譜面や、色褪せた表彰状が積み重なっていた。アリアはそっと一枚の譜面を手に取ってみる。端がすっかり黄ばんでいるが、丁寧な文字で「発表会用・第二楽章」と記されていた。
「これ、誰かの練習用の譜面でしょうか」
「かもしれないな。……この部屋自体、何十年も時が止まっているような雰囲気だ」
二人はしばらく、埃をかぶった部屋の中を見回した。壁には、古い集合写真が飾られている。制服姿の生徒たちが、楽器を手に、はにかんだ笑顔を浮かべている一枚だった。
「昔は、こんなに賑やかだったんですね」
「ああ。今のこの静けさとは、まるで別世界だな」
写真をそっと戻し、二人は再び窓の外、音楽室の様子に意識を戻した。息をひそめ、静かに時を待つ。分針が進むにつれ、館内の静寂が、次第に重く感じられてくる。
「……今、何か」
リアムの囁きに、アリアははっと身を強張らせた。かすかに、旋律のような音が聞こえてくる。途切れ途切れの、けれど確かに美しい、ピアノの調べだった。
「聞こえます……本当に」
二人は窓に顔を寄せ、そっと音楽室の中を覗き込んだ。薄闇の中、ピアノの前に、ほのかに光る人影が浮かび上がっている。まだ幼さの残る、少女の姿だった。
「あれは……生徒、でしょうか」
「いや……あの制服は、今のものとは違う。ずいぶん昔のものだろう」
少女は、透けた指先で鍵盤を辿るように弾いていたが、時折、旋律が乱れ、同じ箇所を何度も繰り返している。まるで、覚えたはずの曲を、思い出せずにいるかのように。
「……違う、こうじゃ、ない……」
少女の呟きには、深い焦りが滲んでいた。アリアはその姿に、胸を締め付けられるような切なさを覚えた。
「入ってみよう。刺激しないよう、慎重にな」
リアムが小さく頷き、二人はゆっくりと音楽室の扉を押し開けた。軋む音に、少女が弾かれたように顔を上げる。
「……誰?」
「驚かせて、ごめんなさい。私たち、図書委員なんです。あなたの、ピアノの音が聞こえて……」
アリアが穏やかに声をかけると、少女は不安げに瞳を揺らした。
「わたし……発表会で、弾かなきゃいけないの。でも、どうしても、最後まで、思い出せなくて……」
「発表会、ですか」
「うん。先生と、約束したの。この曲を、完璧に弾けるようになるって……。ずっと、練習してきたのに」
少女は、透けた指先をぎゅっと握りしめた。
「みんなの前で、失敗したくなかったの。だから、毎晩、こっそり練習してた。でも、なんでだろう。どんなに練習しても、最後の部分だけ、上手く弾けなくて……」
「無理に完璧を目指す必要は、ないんじゃないか」
リアムが静かに口を挟むと、少女は驚いたように顔を上げた。
「私も、剣術の稽古で、似たような経験がある。完璧を求めすぎるあまり、かえって体が強張って、実力を出し切れなかったことが」
「……あなたも?」
「ああ。焦りは、時に、本来の力を奪うものだ」
その言葉に、少女はしばらく黙り込んでいたが、やがて、小さく頷いた。その表情には、まだ深い悔恨が滲んでいた。リアムが、静かに一歩、前に出る。
「もしよければ、聴かせてもらえないか。途中からでも構わない」
その言葉に、少女はためらいながらも、再び鍵盤に指を置いた。途切れ途切れの旋律が、静かな音楽室に響き渡る。美しいが、どこか物悲しい調べだった。
「……やっぱり、駄目。ここから、先が……」
少女は、また同じ場所で手を止めてしまう。焦りと悲しみで、輪郭が不安定に揺らめき始めた。
「アリア嬢、頼めるか」
リアムの言葉に、アリアは小さく頷いた。エレノアの時と同じように、心を落ち着け、そっと少女に向かって語りかける。
「大丈夫。焦らなくていいの。曲が完璧じゃなくても、あなたの気持ちは、ちゃんと伝わるから」
その言葉とともに、アリアの指先から、淡い光がほのかに滲み出した。少女を優しく包み込むように、光は静かに広がっていく。
「……本当に、それで、いいの?」
「うん。完璧じゃなくても、一生懸命弾いたその音は、きっと誰かの心に届くよ」
アリアの言葉に、少女の表情が、少しずつ和らいでいった。震える指先で、少女は再び鍵盤に触れる。今度は、途中で止まることなく、たどたどしくも、確かに最後まで旋律を紡ぎ切った。
「……弾けた」
少女の声に、初めて、安堵の色が滲んだ。
「先生……ちゃんと、聴いてくれたかな」
「きっと、聴いていたと思います。一生懸命な音は、必ず届くものですから」
アリアの言葉に、少女は柔らかく微笑んだ。その微笑みを最後に、光はふわりと空へと溶けるように消えていった。音楽室には、再び静寂が戻る。
「……終わったか」
「はい……。あの子も、きっと、これで安心できたと思います」
リアムは、しばらく無言でピアノを見つめていたが、やがて、穏やかな声で口を開いた。
「今回は、私も少しは役に立てたか」
「はい、リアム様が一緒にいてくれたから、心強かったです」
その言葉に、リアムはわずかに目を細めた。以前のような、疑念の色は、もうそこにはなかった。
「君の力は、確かに不思議なものだ。だが、それが誰かを助けるためのものだというなら、私は、それでいいと思っている」
リアムの率直な言葉に、アリアの胸が温かくなった。すべてを話せたわけではない。それでも、少しずつ、信頼という橋が架かり始めているのを、確かに感じていた。
翌朝、二人は昨夜の出来事をソフィアに報告した。話を聞き終えたソフィアは、静かに頷いた。
「その子のことは、私も聞いたことがあります。何十年も前、発表会の直前に、流行り病で亡くなった生徒だと」
「そう、だったんですね……」
「あなたたちのおかげで、また一つ、この図書館の悲しい記憶が、静かに眠りにつけたようですね」
ソフィアの言葉には、確かな感謝が滲んでいた。
「二人とも、よくやりました。……こうして、地道に、誠実に向き合う姿勢。それこそが、私たちが最も大切にしているものです」
その言葉に、アリアとリアムは顔を見合わせ、静かに頷いた。特別書庫への道は、まだ見えない。けれど、その一歩が、確かに近づいているのを、二人は感じていた。
教室に戻ると、事情を知らないクララが、興奮した様子で駆け寄ってきた。
「聞きました! 開かずの音楽室の件、解決したんですって? マーゴット先輩が、朝から嬉しそうに話してましたよ」
「え、もう先輩たちに伝わってるんですか……?」
「委員の間では、こういう話はすぐ広まるんです。お二人とも、すごいです!」
クララの屈託のない賞賛に、アリアは少し照れくさくなった。
「私たちだけの力じゃないよ。ソフィア先生の後押しがあったから」
「それでも、実際に立ち向かったのはお二人じゃないですか。私、なんだか誇らしいです。同じ図書委員として」
クララの隣で、メアリも興味津々といった様子で身を乗り出した。
「アリアちゃん、幽霊とか平気なんだ? 私だったら、絶対腰抜かしちゃうよ」
「へ、平気ってわけじゃないよ。すごく緊張したし、怖かった」
「それでも立ち向かったんでしょ。やっぱりアリアちゃん、すごいなあ」
メアリとクララ、二人の屈託のない称賛に、アリアは面映ゆさを覚えながらも、素直に嬉しかった。入学当初は、こうして誰かに認められることさえ、どこか怖いと感じていた。目立たず静かに過ごしたいという当初の願いとは、少し違う形かもしれない。それでも、少しずつ積み重ねてきた日々が、確かな自信へと変わりつつあるのを、アリアは実感していた。
寮への帰り道、鞄の中からクロノの声がした。
「また一つ、片付けたか。存外、頑張るではないか」
「うん……なんだか、今回は、リアム様と一緒に乗り越えられた気がして、嬉しかった」
「フン。悪い縁ではなさそうだな、あの小僧との仲は」
「クロノったら、そればっかり」
「事実を述べておるだけよ。それより、お前の方こそ、あの小僧を頼りにし始めておるように見えるがな」
図星を突かれ、アリアは思わず言葉に詰まった。
「た、頼りにしてるっていうか……一緒に乗り越えられる人がいるのは、心強いな、って」
「素直でよろしい」
クロノは満足げに目を細め、丸くなって欠伸をした。
「今宵はよく働いたな。ゆっくり休むがよい」
「うん、おやすみ、クロノ」
ベッドに横たわりながら、アリアは今夜出会った少女のことを思い返していた。完璧を求めるあまり苦しんでいた姿は、どこか、かつての自分と重なるようにも感じられた。目立たないように、失敗しないように――そう気を張り続けていた入学当初の自分に、今なら、少し違う言葉をかけられる気がした。
(完璧じゃなくても、いいんだよね。一生懸命なら、それだけで、きっと十分)
その静かな気づきを胸に、アリアはゆっくりと目を閉じた。窓の外、二つの月が、今夜も静かに輝いている。開かずの音楽室の謎を解いた夜は、アリアの心に、また一つ、確かな温かさを残していた。




