第17話 実績
エレノアの一件から数日が経った。アリアとリアムの間に流れていた気まずさは、少しずつ、けれど確かに和らいでいた。二人は変わらず放課後の図書委員活動を続け、蔵書整理の作業にも、すっかり息を合わせて取り組めるようになっていた。
「今日は、新着図書の分類作業ね。二人とも、もう慣れたものだから、安心して任せられるわ」
マーゴットの言葉に、アリアは小さく誇らしさを感じた。図書委員として活動を始めてから、まだ一月も経っていないというのに、こうして頼りにされることが、素直に嬉しかった。
「マーゴット先輩、あの、一つお伺いしたいことがあるんですが」
「あら、何かしら」
「特別書庫への立ち入りって、どのくらいの実績を積めば、許可されるものなんですか?」
思い切って尋ねると、マーゴットは作業の手を止め、少し考えるような表情を浮かべた。
「そうねぇ……明確な基準があるわけじゃないの。ソフィア先生が、その委員の働きぶりや、信頼度を見て判断される、と聞いているわ」
「信頼度、ですか」
「ええ。単に作業をこなすだけじゃなくて、本を大切に扱う心構えとか、秘密を守れる誠実さとか……そういうものを見ておられるんじゃないかしら」
マーゴットの言葉に、アリアはリアムと顔を見合わせた。夜の図書館での一件を思い出し、少しだけ胸がざわつく。あの時、ソフィアは「今日のところは」と言葉を濁していた。もしかすると、あの出来事も、何かしらの判断材料にされているのかもしれない。
「私も先輩になって、もう三年目だけど、特別書庫に入れたのは去年からよ。地道に信頼を積み重ねるしかないの」
「三年も……」
「大変そうな顔をしないで。焦らなくても、真面目にやっていれば、きっと機会は巡ってくるわ」
マーゴットの励ますような笑顔に、アリアは気持ちを新たにした。
その時、近くの棚を整理していたクララが、興味深そうに会話に加わってきた。
「実績の話なら、私も先輩たちから聞いたことがあります。図書館の困りごとを解決すると、特に評価が高くなるみたいですよ」
「困りごと、ですか?」
「はい。蔵書の紛失を見つけたり、傷んだ古書を修復したり……あとは、その、変わった現象を収めたり、とか」
クララの言葉に、アリアはどきりとした。もしかすると、エレノアの一件も、すでに委員たちの間で、何かしらの形で噂になっているのかもしれない。
「変わった現象って、例えばどんな……?」
恐る恐る尋ねると、クララは声をひそめた。
「この図書館、実はちょっとした『七不思議』があるらしいんです。歴代の図書委員が、こっそり記録帳をつけているとか。私はまだ見たことないんですけど」
「記録帳……」
「マーゴット先輩なら、詳しく知ってるかもしれません」
クララに水を向けられ、マーゴットは苦笑しながら頷いた。
「ああ、その話ね。あるにはあるのよ、代々の委員が書き継いでいる古いノートが。でも、軽々しく見せるものでもないから、気になるなら、いずれ自分の目で確かめることね」
思わせぶりな言い方に、アリアの好奇心はますます膨らんでいった。
作業を再開すると、リアムがふと、声を落として話しかけてきた。
「アリア嬢。少し、気になっていることがあるんだが」
「な、何でしょうか」
夜の図書館の一件を思い出し、アリアは思わず身構えた。だが、リアムの表情は、思いのほか穏やかだった。
「三階の奥に、長く使われていない音楽室があるのを知っているか。生徒たちの間では『開かずの音楽室』と呼ばれているらしい」
「開かずの、音楽室……ですか?」
予想していなかった話題に、アリアは拍子抜けしたように瞬きをした。
「ああ。数年前まで音楽の授業に使われていたそうだが、今は鍵がかけられて、誰も立ち入れないようになっているという。理由は分からないが、時折、夜になると、誰もいないはずの部屋からピアノの音が聞こえるという噂があるらしい」
「そ、それって……もしかして、またあの、エレノアさんみたいな……」
アリアの脳裏に、あの夜の光景が蘇った。リアムは小さく頷いた。
「可能性はあるだろうな。マーゴット先輩に聞いてみたところ、以前、代々の図書委員が『七不思議』と呼んで、ひそかに記録を残しているものがあるらしい。エレノアの一件も、その一つに数えられているそうだ」
「七不思議……」
その響きに、アリアはどこか胸が高鳴るのを感じた。恐ろしさよりも、不思議と、ワクワクするような気持ちが勝っていた。
「もし本当に何かあるなら、力になれたら、と思ってな。……前回のような形で、また君を頼ることになるかもしれないが」
リアムの言葉には、以前のような詮索の色は感じられなかった。ただ、純粋に、何かを一緒に解決したいという意志が滲んでいるように思えた。
「はい。私にできることがあれば、何でも協力します」
アリアが即答すると、リアムはわずかに目を見開き、それから柔らかく笑った。
「頼もしいな。……ああ、それと、マーゴット先輩が言うには、そうした『七不思議』の謎を解決することも、図書委員としての立派な実績になるそうだ」
「え、本当ですか?」
「ああ。本や図書館にまつわる問題を解決することは、司書の先生方の信頼にも直結するらしい」
思いがけない朗報に、アリアの心は俄然、前向きな熱を帯びた。特別書庫への道が、少しだけ近づいたような気がした。
その日の作業を終え、二人は連れ立って三階の奥へと足を運んでみた。確かに、古めかしい木製の扉には、錆びついた大きな鍵がかけられている。扉の隙間から中を覗いても、埃をかぶったピアノの輪郭が、かろうじて見える程度だった。
「本当に、静かなものだな」
「はい……今は、何も聞こえませんね」
二人はしばらく扉の前に佇んでいたが、特に変わったことは起こらなかった。
「昼間は、やはり何も起きないのかもしれないな」
「そうかもしれません。夜に、確かめてみる必要が、あるのかもしれませんね」
アリアの言葉に、リアムは少し驚いたように目を見開いた。
「君の方から、そう言い出すとは意外だな。以前は、幽霊の類は苦手そうだったが」
「こ、こわくないわけじゃ、ないんですけど……でも、エレノアさんの時みたいに、誰かが本当に困っているなら、力になりたいな、って」
その言葉に、リアムは目を細めた。
「君らしいな。……分かった。今度、マーゴット先輩に相談して、夜間の見回りを申し出てみよう」
その足で、二人は司書室に立ち寄り、ソフィアに相談を持ちかけた。事情を聞いたソフィアは、眼鏡の奥の瞳を静かに細めた。
「開かずの音楽室、ね。……ええ、確かに、いわくのある場所です。歴代の委員の中にも、興味本位で近づいて、痛い目を見た者もいたと聞いています」
「危険な場所、なんですか?」
「危険、というより……センシティブな場所、と言うべきかしらね。無理強いはしません。ですが、もしあなたたちが挑むというのなら、私も、少しだけ協力しましょう」
ソフィアはそう言うと、引き出しから古びた鍵を一本取り出した。
「これは、音楽室に隣接する準備室の合鍵です。何かあれば、そこから様子を見られるはずよ。……ただし、決して無茶はしないこと。危険を感じたら、すぐに引き返しなさい」
「は、はい、ありがとうございます」
思いがけない後押しに、アリアは深く頭を下げた。ソフィアの態度には、単なる許可以上の、どこか試すような響きが滲んでいるように感じられた。
「それと、これは老婆心からの忠告だけれど……本当に困っているものに手を差し伸べる時、恐れる必要はありません。あなたたちの、その優しさこそが、きっと力になるはずですから」
その言葉に、アリアとリアムは顔を見合わせ、揃って頷いた。二人で今後の計画を話し合いながら、図書館を後にする。夕暮れの回廊を歩く足取りは、以前よりずっと軽やかだった。
寮の部屋に戻ったアリアは、鞄から出てきたクロノに、今日の出来事を報告した。
「開かずの音楽室、か。……ほう、それはまた、懐かしい話だ」
「クロノ、知ってるの?」
「さてな。この学園ほどの歴史があれば、色々な因縁が積み重なるものよ。ピアノに宿る想い、というのも、珍しい話ではない」
クロノの含みのある言い方に、アリアは少しだけ首を傾げた。
「クロノは、いつもそうやって、はぐらかすんだから」
「知る必要のあることは、いずれ知ることになる。今は、お前自身の目で、確かめていけばよい」
クロノの言葉には、いつもと変わらぬ余裕が滲んでいた。だが、その奥に、微かな慈しみのようなものが感じられ、アリアは思わず小さく笑った。
「それにしても、リアム様、変わったね」
「ほう、どう変わった」
「前は、もっと真面目で、堅苦しい感じだったのに、最近は、こういう不思議な話にも、素直に興味を持ってくれるようになった気がする」
「フン。あの小僧も、お前と関わるうちに、少しは肩の力が抜けてきたのだろうよ」
「クロノは、いつも辛口だけど、本当はリアム様のこと、結構買ってるでしょ」
「知らぬ。わしはただ、事実を述べておるだけよ」
つんとそっぽを向くクロノの態度に、アリアはくすくすと笑いを漏らした。こうして軽口を叩き合う時間も、アリアにとっては、何にも代えがたい安らぎだった。
クロノの素っ気ない言葉に、アリアは頬を緩めた。図書委員としての活動は、目立たず静かに過ごしたいというアリアの願いからは、少しずつ遠ざかっているのかもしれない。それでも、こうして誰かと同じ目標に向かって歩んでいく日々は、アリアにとって、かけがえのない時間になりつつあった。
窓の外、二つの月が、今夜も静かに輝いている。開かずの音楽室に眠る秘密は、まだ何も明らかになっていない。だが、アリアの胸には、恐れよりも、確かな期待が広がっていた。
(次は、どんな謎が待っているんだろう)
その小さな高鳴りを胸に、アリアはゆっくりと眠りについた。特別書庫への道は、まだ遠い。けれど、その一歩一歩が、確かにアリアを、新しい場所へと導いていた。




