第16話 夜の図書館
図書委員としての活動が始まって二週間が経った。アリアとリアムは、放課後の作業にもすっかり慣れ、二人で息を合わせて本の整理を進められるようになっていた。
「今日は、閉館作業も手伝ってほしいの。ちょっと人手が足りなくて」
マーゴットに頼まれ、アリアとリアムは他の委員たちが帰ったあとも、図書館に残ることになった。窓の外はすでに薄暗く、館内には、いつもより静かで重い空気が漂っている。
「閉館作業って、具体的に何をすればいいんですか?」
「各階の巡回と、忘れ物のチェック、それから明かりを消して回ることね。二人一組で回ってちょうだい」
マーゴットの指示に従い、アリアとリアムは一階から順に、静まり返った書架の間を歩いて回った。昼間はあれほど賑やかだった図書館が、こんなにも静かで、どこか神秘的な雰囲気を纏うとは、アリアは思ってもみなかった。
「なんだか、いつもと違う場所みたいですね」
「確かに。昼間は気づかなかった本の匂いや、床のきしむ音まで、やけに際立って感じる」
二人で言葉を交わしながら、慎重に歩を進めていく。二階の閲覧室を通り過ぎる頃には、外はすっかり夜の帳が下りていた。
「夜の図書館って、なんだか雰囲気が違いますね」
「ああ、確かに。昼間の賑やかさが嘘のようだ」
二人で最後の巡回を終え、明かりを落としていく。最後の一角、旧館へと続く渡り廊下に差し掛かったところで、アリアはふと足を止めた。
「……今、何か聞こえませんでしたか?」
「何か、とは?」
耳を澄ませると、確かに、かすかな声が聞こえてくる。誰かが、何かを探すように、静かに何かを呟いているような――。
「……どこ……どこにあるの……」
消え入りそうな、けれど確かな声。リアムも、その気配に気づいたようだった。
「……この先だな」
二人で顔を見合わせ、そっと声のする方へと足を進める。旧館の奥、埃をかぶった古い書架の間に、ぼんやりとした青白い光が漂っていた。
「あれは……」
光の輪郭は、次第に人の形を象っていく。年老いた女性の姿。透けたその体は、古い書物を胸に抱えながら、何かを探すように棚の間をさまよっていた。
「ゆ、幽霊……?」
アリアは思わず身を強張らせた。だが、その姿には、恐ろしさよりも、深い悲しみのようなものが滲んでいた。
「……探しているの。あの子に、届けなきゃいけない本を……」
消え入りそうな声で呟くその人影に、アリアは思わず声をかけていた。
「あの、何を、探しているんですか?」
人影が、ゆっくりとこちらを振り向く。虚ろな目が、アリアを捉えた。
「……あの子に、渡さなきゃ……大切な、本……」
その声には、深い執着と、それ以上に切実な後悔が滲んでいた。リアムが、そっとアリアの肩に手を置いた。
「無理に刺激しない方がいい。少しずつ、様子を見よう」
「はい……」
二人はゆっくりと距離を詰めながら、人影の様子を注意深く観察した。書架を彷徨うその姿は、何十年も同じ問いを繰り返しているかのように、どこか痛々しかった。
「……禁書庫……あの子が待っている……」
その言葉とともに、青白い光が不安定に揺らめき始めた。まるで、感情が高ぶるにつれて、その魔力が制御を失っていくかのように。
「リアム様、これ、危ないかもしれません……!」
「分かっている。だが、無理に鎮めようとすれば、逆効果になるかもしれない」
リアムが結界を張ろうと身構える横で、アリアは、以前読んだ本の一節を思い出していた。『心象風景法』――心を静めることで、乱れた魔力を鎮める技法。
(この人も、きっと、何か心残りがあって……)
アリアは、震える手を伸ばし、人影に向かってそっと語りかけた。
「もう、大丈夫ですよ。探し物は、きっと見つかりますから」
その言葉とともに、アリアの指先から、淡い光がほんのりと滲み出た。誰にも気づかれないほど、微かな輝き。それは、人影を包み込むように、静かに広がっていく。
「……ああ……」
人影の表情が、次第に和らいでいく。悲しげだった目元が、微かな安堵の色を帯びた。
「……もう、探さなくても、いいのね……」
その呟きを最後に、青白い光は、まるで長い眠りにつくように、ふわりと霧散して消えていった。図書館には、再び静寂が戻る。
「……今、何をしたんだ?」
リアムの声に、アリアははっと我に返った。
「え、あ……寒気が、しただけです……!」
しどろもどろに誤魔化すアリアを、リアムはしばらく無言で見つめていた。その視線には、これまでにない鋭さが宿っていた。
「アリア嬢。君は、いったい――」
「あ、あの、もう遅いですし、戻りましょう!」
アリアは慌てて話を打ち切り、足早に歩き出した。リアムは追及こそしなかったものの、その表情には、拭いきれない疑念が残っているのが分かった。
図書館を出て、寮への道を並んで歩く間、二人の間には、これまでになく気まずい沈黙が漂っていた。リアムが、その沈黙を破るように、ぽつりと呟いた。
「アリア嬢。私は、詮索が好きな人間ではない。だが……君には、何か、私の知らない事情があるように思う」
「……」
「無理に聞き出すつもりはない。ただ、覚えておいてほしい。もし何か困ったことがあれば、私は、力になりたいと思っている」
その言葉には、これまでにない真剣さが込められていた。アリアは、何と答えればいいか分からず、しばらく俯いたまま黙り込んだ。
「……ありがとう、ございます」
それだけを、ようやく絞り出す。リアムは小さく頷くと、それ以上は何も聞かず、静かに歩調を合わせてくれた。
翌日、司書のソフィアに昨夜の一件を報告すると、彼女は驚いた様子もなく、静かに頷いた。
「ああ、あの方ね。昔、この図書館に勤めていた司書です。生前、探していた本を、生徒に届けられなかったことをずっと悔いていたと聞いています」
「そう、だったんですね……」
「彼女の名前は、エレノア。三十年以上、この図書館に勤めていた人です。晩年、目を悪くしてからも、生徒たちのために本を探し続けていたと聞いています」
ソフィアの声には、かつての同僚を懐かしむような、静かな響きがあった。
「彼女が最後に探していた本は、結局見つからないまま、彼女は亡くなってしまいました。それ以来、時折、こうして夜の図書館に姿を現していたようです」
「そんな事情が……」
「魔力の残滓が、強い想いとともに、時折こうして姿を現すことがあるのです。……あなたたちのおかげで、彼女も、ようやく安らげたのでしょう」
ソフィアの眼鏡の奥の瞳が、アリアを静かに見つめた。
「不思議なこともあるものですね。ただの一年生に、あのような現象を鎮められるとは」
その言葉には、単なる感心以上の、何か探るような響きが感じられた。アリアは、思わず視線を逸らした。
「た、たまたまです。本当に」
「そうですか。……まあ、良いでしょう。今日のところは」
ソフィアは眼鏡の位置を直しながら、独り言のように付け加えた。
「この図書館は、長い歴史の中で、色々なものを見てきました。中には、説明のつかない出来事もいくつか。……もしまた何かに遭遇したら、遠慮なく私に相談してくださいね」
「は、はい、ありがとうございます」
その言葉には、単なる助言以上の、何か見守るような温かさが感じられた。アリアは、少しだけ肩の力を抜いた。
ソフィアは意味深にそう言うと、それ以上の追及はせず、いつもの作業へと戻っていった。
放課後、寮の部屋に戻ったアリアは、鞄から出てきたクロノに、その日の出来事を報告した。
「またやってしもうたか」
「うん……つい、放っておけなくて」
「まあ、良い行いだ。責めはせぬ。だが、あの小僧、確実にお前を怪しみ始めておるぞ」
クロノの言葉に、アリアは深いため息をついた。帰り道でのリアムの真剣な言葉を思い出すと、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような気がした。
「リアム様、優しい言葉をかけてくれたの。詮索はしない、でも、困ったことがあれば力になりたいって」
「ほう。存外、できた男よ」
「うん……。でも、それが余計に、苦しくて。本当のことを話せない自分が、なんだか、ずるいような気がして」
クロノは、しばし黙り込んでから、静かに答えた。
「今はまだ、その時ではない。だが、いずれ、話すべき時が来るやもしれぬ。その時が来るまで、焦らず、今できることを、一つずつ積み重ねていけばよい」
その言葉に、アリアは小さく頷いた。目立たないように、静かに過ごすという決意は、こうしてまた一つ、綻びを重ねていく。それでも、あの悲しげな人影を救えたことに、後悔はなかった。
「これから、どうすればいいんだろう」
「なるようになる。案ずるな、お前には儂がついておる」
クロノの言葉に背中を押されるように、アリアはゆっくりとベッドに横たわった。天井を見上げながら、今夜出会った、エレノアという名の元司書のことを思い返す。長年、誰にも見つけられなかった想いが、こうしてようやく安らぎを得られたことを思うと、アリアの胸には、切なさと同時に、確かな満足感も広がっていた。
(人の想いって、こんなにも長く、強く残るものなんだ……)
自分の中に眠る「光」の力が、そうした想いを救う手助けになるのなら――アリアは、これまで恐れてばかりいた自分の力に、初めて、ほんの少しの誇らしさを感じていた。
窓の外、二つの月が、今夜も静かに輝いていた。夜の図書館で出会った小さな奇跡は、アリアの秘密に、また一つ新しい影を落としながらも、確かな温かさを残していた。




