第15話 図書委員初日で静かな決意
図書委員としての初活動の日、アリアは放課後、少し緊張した面持ちで図書館の裏口へと向かった。そこには、委員専用の作業室があるのだという。
「アリア嬢、こっちだ」
先に到着していたリアムが、小さく手を上げて合図をくれた。作業室に入ると、すでにクララや他の上級生図書委員たちが、返却された本の山を前に作業を始めていた。
「アリアさん、リアム様、おはようございます! 今日から一緒に頑張りましょうね」
クララの明るい挨拶に、アリアは少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「今日の作業は、返却された本の状態確認と、傷んだページの補修です。丁寧に、でも手早く進めてくださいね」
案内してくれた三年生の先輩委員が、てきぱきと作業の説明をしてくれる。アリアはメモを取りながら、真剣に耳を傾けた。
「私はマーゴットです。図書委員長を務めています。新入生の二人、よろしくお願いしますね」
快活な口調で自己紹介してくれた先輩に、アリアとリアムは揃って頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
「二人とも、礼儀正しいのね。最近の一年生は、もっと騒がしい子が多いのに」
マーゴットは感心したように目を細めながら、作業台の上に道具を並べていった。
「まずは基本を覚えてもらうところからね。焦らなくて大丈夫だから、分からないことがあれば、遠慮なく聞いてちょうだい」
その気さくな態度に、アリアは初日の緊張が少しずつ解けていくのを感じた。
「補修には、専用の糊と、この薄い紙を使います。破れたページの裏側から、そっと当てて……」
実演を見せてもらいながら、アリアは初めての作業に取り組み始めた。指先に神経を集中させ、繊細な作業を丁寧にこなしていく。
「アリアさん、筋がいいですね。手先が器用な方なんですか?」
「あ、はい……薬草を扱う作業で、細かい手仕事には慣れているので」
「なるほど、道理で」
先輩委員が感心したように頷く横で、リアムもまた、不慣れながらも真剣な表情で本の状態を確認していた。時折、指先を糊で汚しながらも、集中した表情を崩さない。その様子を見て、マーゴットがくすりと笑った。
「アークライト様も、意外と不器用でいらっしゃるのね。てっきり、何でも完璧にこなす方だと思っていたわ」
「面目ない。剣術や魔術の座学には自信があるんだが、こういう細かい手仕事は、どうも勝手が違う」
素直に認めるリアムの態度に、マーゴットは好意的な笑みを浮かべた。
「そういう風に、素直に弱みを認められる人、私は好きよ。完璧ぶる人より、ずっと」
その言葉に、リアムは少し照れくさそうに頭をかいた。アリアはその様子を、微笑ましく見守っていた。
「これは……ページの端が少し焼け焦げているな。何があったんだろう」
「あ、それは魔法薬学の実験中の事故だと思います。よくあることなんですよ」
クララの説明に、リアムは興味深そうに頷いた。三人で作業をしながら交わす何気ない会話が、アリアにとって、心地よい時間になっていた。
作業の合間、休憩時間になると、クララがそっとアリアに耳打ちした。
「そういえば、アリアさん。実は最近、ちょっと困っていることがあって……」
「え、何かあったんですか?」
「蔵書目録の整理をしているんですけど、どうしても分類が合わない古い本が何冊かあって。ソフィア先生に聞いても、はっきり教えてもらえなくて……」
クララが困り顔で見せてくれたリストには、聞き慣れない題名が並んでいた。
「『大陸古語彙集』『失われた属性の研究』……どれも、少し変わった本ですね」
「はい。多分、特別書庫に移すべき本だと思うんですけど、私はまだ、そこまでの権限がなくて」
クララの言葉に、アリアは以前ソフィアが語っていた言葉を思い出した。図書委員としての実績を積めば、いつか特別書庫にも立ち入れるようになる、と。
「私たちも、いつか力になれたらいいですね」
「はい! その日を楽しみに、一緒に頑張りましょう」
クララの前向きな言葉に、アリアは自然と笑みがこぼれた。
「あ、そういえば、この本も気になってたんです」
クララが取り出したのは、表紙の擦り切れた薄い本だった。タイトルは掠れて読み取りにくいが、かろうじて『風』という文字だけが判別できる。
「これ、何の本なんでしょう。分類記号もついていなくて」
アリアがそっと手に取ってみると、それは見覚えのある一冊だった。
「あ、これ……『風使いの楽しい家庭菜園』、です」
「え、知ってるんですか?」
「はい、実は、入学した頃から、ずっと愛読していて。家庭菜園の知恵がたくさん詰まった、素敵な本なんです」
「へえ、そんな本があったんですね。今度、私も読んでみようかな」
クララの興味深そうな様子に、アリアはなんだか誇らしい気持ちになった。故郷を離れてからも、変わらず自分の支えであり続けているこの本が、こうして誰かの目に留まることが、嬉しかった。
休憩を終え、作業を再開すると、あっという間に一時間が過ぎていった。初日の活動を終え、作業室を出る頃には、外はすっかり夕暮れに染まっていた。
「今日は、お疲れ様でした」
「ああ、お疲れ様。思っていたより、楽しい作業だったな」
リアムの言葉に、アリアも素直に頷いた。
「はい。本に触れる時間って、なんだか落ち着きます」
「分かる気がする。私も、こういう静かな作業は、性に合っているようだ」
「リアム様は、いつも忙しそうにされているイメージがあったので、少し意外です」
「そうだろうな。公爵家の跡取りとしての責務は、確かにある。だが、こういう時間は、案外、貴重なものなんだ。誰かと肩を並べて、同じ作業に打ち込む……そんな機会は、これまであまりなかったから」
その言葉には、思いがけない本音が滲んでいた。アリアは、リアムの中にある孤独の一端を、垣間見たような気がした。
「これからも、一緒に頑張りましょうね」
「ああ、よろしく頼む」
二人で並んで歩きながら、今日一日の充実感を分かち合う。薬草学に続き、図書委員としても、こうして少しずつ、リアムとの距離が縮まっていくことを、アリアはまだ、うまく言葉にできずにいた。
寮の部屋に戻ったアリアは、鞄から出てきたクロノに、今日一日の出来事を丁寧に報告した。
「初日から、なかなか充実した活動だったようだな」
「うん。地味だけど、落ち着く作業だった。それに、クララさんが困ってたことも、聞けたし」
「ほう、どんな話だ」
アリアが特別書庫に移すべき古い本の話をすると、クロノは金色の瞳をわずかに細めた。
「『失われた属性の研究』、か。……ふむ、面白い」
「クロノ、その本、知ってるの?」
「さてな。だが、この学園の書庫には、確かに、興味深いものがいくつか眠っておるはずだ。お前が図書委員として実績を積めば、いずれそれらに触れる機会も訪れよう」
クロノの言葉には、いつもの軽口とは違う、微かな真剣さが滲んでいた。アリアは、その響きに、少しだけ胸騒ぎを覚えながらも、不思議な期待も感じていた。
「クロノは、この学園について、他にも何か知ってるの?」
「さてな。それは、追々知ることになろう。今は、目の前のことに、一つずつ向き合っていけばよい」
はぐらかすような答えだったが、その声音には、どこか優しさが滲んでいた。アリアは、それ以上追及することなく、素直に頷いた。
「うん、分かった。焦らず、一歩ずつ、頑張るね」
「うむ、それでいい」
クロノは丸くなって、満足げに目を閉じた。その穏やかな寝顔を見つめながら、アリアは改めて、この小さな相棒への感謝を噛みしめた。
「振り返ってみると、選択授業に始まって、薬草学でリゼットさんと打ち解けて、図書委員まで始めて……この数週間で、本当にたくさんのことがあったなあ」
「うむ。お前の言う『目立たず静かに過ごす』計画は、もはや見る影もないがな」
「うっ……それは、言わないでよ」
思わず苦笑するアリアに、クロノはくつくつと喉を鳴らした。
「振り返れば、随分と遠くまで来たものだな」
「うん……本当に。入学式の日は、一日中隅っこに隠れてることしか考えてなかったのに」
「今のお前を見たら、あの日のお前は、さぞ驚くだろうよ」
クロノの言葉に、アリアは思わず笑ってしまった。確かに、あの頃の自分に「もうすぐ図書委員になって、リアム様と一緒に活動することになるよ」と教えても、きっと信じてもらえないだろう。
「変わったね、私」
「うむ。悪くない変化だ」
クロノの素っ気ない、けれど確かな肯定の言葉に、アリアの胸が温かくなった。
「じゃが、案ずるな。今のお前の在り方は、悪くない。友を得て、居場所を得て、少しずつ、この学園に根を張り始めておる。それは、決して悪いことではないぞ」
その言葉に、アリアは静かに頷いた。窓の外、二つの月が、今夜も穏やかに輝いている。
寝る前、アリアは窓辺に立ち、遠くに見える図書館の尖塔をそっと見つめた。あの静かな書架の奥深くに、まだ自分の知らない何かが眠っている――そう思うと、不思議と胸が高鳴った。
(焦らず、一歩ずつ。クララさんも、リアム様も、一緒にいてくれるから、きっと大丈夫)
自分にそう言い聞かせながら、アリアはゆっくりとベッドに横たわった。選択授業の悩みから始まった数週間は、こうして、新しい仲間との絆や、まだ見ぬ秘密への小さな予感を胸に、静かに幕を閉じようとしていた。
そして、その先には――特別書庫という、新たな扉が、アリアを待っていた。




