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小人の辞  作者: EndoArisa


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8/30

増えることのない財産


 例えば、こんな話がある――

 本田という、郊外の町役場に勤める下っ端役人がいた。人生において極端な山場も谷底も経ることなく、思想において強い上昇志向も破滅志向も持つことなく、三十歳近くまで生きてきた男だ。日々職場と家を行き来するだけで、これといった趣味もなく、休みの日はできるだけ何もせず体力を温存するような生活を送っていた。

 ある日曜日のこと、本田は狭い自室のソファーにもたれて疲れ果てた様子で目をつむっていた。彼は昼過ぎまで大学時代の友人の披露宴に参加していて、つい先ほど帰ってきたところだった。会場が隣県だったので、家に着く頃には夕方になっていた。せっかくの日曜日が丸つぶれになり、明日から一週間が始まる。そう思うと、本田はため息をつかずにはいられなかった。

 明日が来なければいい、せめて今日一日ぶんだけでも取り戻せないものか、と考えながら夕焼けをぼんやりと眺めているうちに、外の光は次第に弱くなって部屋は薄暗くなっていった。昼間に食べたパンやサラダやスープやステーキの混淆物が、まだ腹の中に残っているのを彼はずっしりと感じていた。

 相変わらず確実に進んでいく時間、目には見えないが自分のもとから去っている時間という概念を手持ち無沙汰にこね回していたところ、彼の脳裏にふとある言葉がよぎった。それは例の披露宴で誰かがスピーチで言ったことだった。

「――時は金なり、と言いますから、夫婦で過ごす尊い一分一秒を大事に、是非お金よりも大事にしてください。」とか、そんな風な言葉だった。

 そこで本田は自分があと五十年生きると仮定してみたが、実感が湧かなかったので、日数に換算してみた。18250日。彼は少し愉快になって、さらに時間に換算してみた。438000時間。さらに分数、26280000。ついで秒数、1576800000。16億秒!彼は手を叩いて笑った。なんだか大富豪になったような心地がしたのだ。

 先ほどとは打って変わって晴れた春の日のように陽気な気分になって、彼は立ち上がった。そして少しでも裕福そうにするために、脱ぎ捨ててあったレンタルのベストとブラックスーツを身に着けると、コードレス掃除機を杖代わりに突いて、ソファーの前に立った。ちょっとした遊びを思いついたのだ。本田はいかにも余裕のある、人生に満足している紳士のような鷹揚な口調で、

「これ、キミ、本田クン。」とソファーに向かって呼びかけた。

 思いついた遊びとは、時間という莫大な財産を自分から自分に贈与することだった。

「本田クン、しっかりしたまえ。こんな財産なんか、鼻にかけてはならないよ、ふむ。」

 彼の目には、首もとのよれよれになったスウェットを着て、くたびれた様子でソファーに座る自分の姿が確かに見えていた。彼は存在しない口ひげをいじりながら続ける。

「財産なんて、つまらんもんだ。世間には貧乏でもしっかりやっている、尊敬すべき人がたくさんいるのだからね。」

 受取人たる本田は、一躍大富豪になったにもかかわらず、相変わらずソファーに座ったままどこを見ているのか分からない、どうでもよさそうな表情をしていた。

 珍妙な譲渡式が明けても本田は以前と同様の堅実で地味な生活を続けて、莫大な財産を譲り受けた人がやるような散財はしなかった。しいて変わった点を挙げるなら、彼の心にあった空白が余裕に置き換わったことだろうか。彼は出勤の時間を少し遅くするようになったし、食事や入浴をゆっくりするようになり、毎日軽く掃除や運動をするようになった。いつの間にかやらなくなっていたカメラや音楽にも、再び興味を持つようになった。

 ちょうど一か月経った日曜日、本田は軽い気持ちで例の計算して時間の資産を確認してみたのだが、すでにとてつもなく大きな支出になっていることに気づいて驚いた。260万秒も費やしていたのだ。彼はこの調子では五十年も生きられない気がして、もう少し節約をすべきだと考え直した。

 次の日から、彼の生活は今までにないくらい切り詰めたものになった。朝は日の出前に起きて、さっさと洗顔と歯磨きを済ませ、着替えながら朝食をとった。そして、開門しないうちから大急ぎで役場に駆けつけたのだった。彼はあらゆる機会に少しでも時間を節約しようとして、上司との会話でさえ言葉を減らせるように工夫をこらした。さらにボールペンのインク切れや乾きに悩まされないように、常に十本のスペアを持ち歩くようになった。

 ちょうど一か月経った日曜日、彼は再び資産を計算した。彼にしては珍しく、祈るような慎重さで電卓を打っていった。しかし、結果は無情にも彼の節約が無駄だったことを告げた。支出は先月と全く同じだったのだ。それなら自分が節約した時間はどこに消えたのか、彼は自分が騙されたのだと思った。あの紳士がこっそり自分の時間をかすめているのだと考えた。

 本田はじっとあの男を待っていた。自分の時間を返してもらうつもりだったのだ。それが無理なら譲歩してやって、今後はしないように誓わせようと決心していた。応じるまで絶対に帰さないつもりだった。夕焼けに赤く染まった部屋、彼は少し埃っぽいソファーに座って、貧乏ゆすりをしていた。

 待てど暮らせど、紳士風の男は現れなかった。イライラは募る一方だった。そもそも、あんな顔と身なりをしたやつは大体が詐欺師なんだ、と本田は毒づいてみたが、その男の姿をどうやっても思い出せなかった。余裕のある、人生に満足している、幸せそうな自分の姿。彼はどれだけ考えても、その姿を思い描くことができなかった。いつの間にか、夕暮れの時間は終わり、夜の時間になっていた。

――そんなお話。


リルケの「マルテの手記」の一部をもとにしました。

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