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小人の辞  作者: EndoArisa


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少女のようにすり抜けて


  例えば、こんな話がある――

 バスが市街地から遠ざかるにつれて、男は窓の外ばかり眺めるようになっていた。彼は連れの少女にどうしてもと頼みこまれて、隣の市にある公園へ向かっているところだった。その公園は海沿いにあり、展望台からの眺めが近ごろ評判になっていたのだ。乗客の大半が直前の駅前で下車したので、車内はすいていた。男は斜め前の一人掛け席に座る少女の方を見てみたが、彼女の表情は見えなかった。肩までの髪がバスの振動に合わせて揺れていた。隣が空いたから移ってきやしないかと微かに期待したが、少女は一瞥もくれなかった。

 男は少女を誘拐した。少し前の話だ。どこの誰かも知らない、いまだ名前さえ知らない。彼女はタンポポの綿毛のように、どこからともなく現れた。男は嫌がる彼女の手をつかみ、無理やり家に押しこめたのだった。

 最初のうちは当然ながら抵抗を受けた。少女は何度も隙を見ては逃げ出そうとするので、男も気が抜けなかった。しかし二三か月も経てば環境に慣れたのか、あるいは諦めたのか、彼女は無謀な試みを敢えてすることはなくなった。男はすっかり彼女を籠絡(ろうらく)したつもりになっていた。彼女が逃げ出すことは、少なくとも自分に何も告げずに去ることはないだろうと高をくくっていた。今回の遠出を承諾したのも、そういった自信からきていた。

 バスを降りると、空はすっかり夕焼け色になっていた。予定では太陽が高く昇っている時、海が一番きれいに見える時間には到着するはずだったが、男が乗り換えを間違えたり、時刻表を読み間違えたりしたせいで、大幅に遅れてしまった。ここから公園の奥にある展望台まで三十分近くかかるので、目的地に着く頃には日は暮れてしまっていることだろう。

 隣に立つ少女は彼を一度も見上げなかった。怒っているのだ。男はどうにか彼女をなだめようと周囲を見渡した。しかしそこは住宅街の入り口だったので、流行っていそうな、若者受けのよさそうな店は見当たらなかった。何かを買い与えるほかに手段を知らなかったので、彼はさっさと諦めて歩き出した。そして、不愛想な口調でついてくるよう促したのだった。


 公園は想像よりずっと広かった。芝生を縦断するように敷かれている道の半ばまで来ても、海はまだ見えなかった。話題の場所と聞いていたにもかかわらず、閑散としていて男は驚いた。あちこちにあるベンチには誰も座っていなかったし、ここに来るまで誰ともすれ違わなかった。日はとうに落ちていて、空と公園を囲む森林を黒くしていた。道に沿うように設置された街灯が、二人の影を四方に作っていた。

「夢を見たんだ。」と前を歩く少女が不意に言った。

 男が黙っていると、彼女は前を向いたまま続ける。

「空を飛ぶ夢なの、浮かぶって言った方が正しいかな。ふわっと浮かんで、風に流されるみたいに空に向かっていく夢。」

「逃避願望の現れかもね。」

 男は適当にそう返しながら、彼女の背中、厳密には彼女のシャツのヨレ具合を見ていた。そして、そろそろ新しい服を買わないとな、と考えていた。誘拐した当初から考えてはいたのだが、なかなか腰を上げられずにいたのだ。

「それでね、ふっと消えるの。みんなの記憶からも、消えるの。この世界で私を覚えてる人は、誰もいなくなる。」

 少女の声はどこか冷淡だった。というより、悟りきったような、前世の記憶でも語っているかのようだった。

「面白いね、特に自分の体が消えたことを認識しているところがさ。それに君のことを忘れるって言ったって、どんな風に?記憶が抜け落ちるの?写真とかの記録はどうなるのさ?」男はからかうように言った。

「そうじゃないよ。私のことを鮮明に思い出せなくなるの、そうやって過ごすうちに忘れるっていうか、どうでもよくなっちゃうの。写真や動画があっても、その中いるのは私だけど、それを見て思い出しても、その私は今ここにいる私じゃないの。」

「なんでもいいけど。まぁ、たかが夢だから。ところで、明日にでも君の服を買いに行かない?」

 少女が立ち止まって振り返ったので、男もぶつからないよう足を止めた。服を買うと聞いて機嫌を直したのだろうと思ったが、彼女の表情は喜んではいなかった。怒っていたわけではない、微笑みさえしていた。しかし、喜んでいないことが一目で伝わる表情だった。

「夢ってなんなんだろう、なんで見るんだろう?」と彼女は言った。

「そりゃあ、眠っている時間も脳みそは動いているからね。」

「目も耳も鼻も、私以外は動いてるよ?」

「まぁね。でも一般的には眠っている間、目はまぶたの裏を見ていて、鼻は嗅ぎなれた部屋の空気を吸っていて、耳は深夜の静寂を聞いている。そんな具合に動いてはいるけど何もしてない状態だ、起動したまま放置してあるパソコンみたいにさ。」男は少し歯切れ悪く言った。

「そんなわけないよ!だって例えば……」と少女は目をつむって顔の前に手をかざした。「こうすると手の形、指の形も見えてくるもん。だから眠っていても、目は見えてるんだよ?」

「それは年のせいじゃないかな。もう十年くらい経てば君のまぶたも厚くなって、そんな神経質なことを考えなくなるはずだ。」

 男は笑いながらそう言ったが、なおも少女が目をつむったままだったので、少し興味が湧いてきた。目を閉じると、まぶたの裏に街灯の光が薄く広がった。それから目の前に手を広げると、確かにぼんやりとした影が見えてきて、それは次第に指の形になっていった。

「どう、見えてきたでしょ?」と耳もとで少女の声がした。「近づけたり、遠ざけたり、振ったりしてみて?」

 言われた通りにしてみると、黒い影は近くに遠くに、左右に動いた。手を動かすたびに影は一度崩れるが、じっとしていると次第に鮮明になっていった。男は愉快な気持ちになって、スノードームで遊ぶ子供のように何度も手を行き来させた。

「なるほど、確かに見える。でもやっぱり夜は真っ暗なんだから見えないんじゃないかな?」

 返事がなかった。怪訝に思って目を開けると、その場には男一人だけで、他には誰もいなかった。慌てて周囲を探してみても、少女は見つからなかった。音もたてずに、彼女は消え去ったのだ。

――そんなお話。


 少なくとも私にとって、書きたい詩や小説の着想というやつは、こういう存在です。いつの間にか私のもとから逃げ出しているのです。どれほど完全に支配したと思っていても、ある日ふと消えてしまいます。

 思いついた瞬間の感覚や手ごたえみたいなものを忘れてしまうと、メモを読み返してもピンと来なくなります。ハリボデのような。なぜこんなモノを書こうと思ったんだろうとモヤモヤした気持ちになります。

 振り返ると、こういう状態で書かれたモノばかりで気が滅入ってしまいます。

 あるいは単に、私がヘボなだけかもしれません。

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