誰のものでもない乳母車
晴れた昼、僕は岡崎公園にいた。隅っこの方、二条通側の隅っこでベンチに座っていた。金曜日だったので、あちこちにテントや屋台が立っていた。土日に何かしらイベントが催されるのだろう。頭にタオルを巻いて工具を持った人たちが、行ったり来たりしていた。それとは別に観光客もたくさんいて、公園内は賑やかだった。まだ五分も経っていなかったけど、僕はすでに落ち着かなかった。
僕の近くにベビーカーがぽつんと立っていた。空っぽの乳母車。最初からあったので、誰のものか分からなかった。その乳母車が気になってしょうがなかった。周囲にはそれらしい、赤ちゃん連れの人はいなかった。僕はそれに近寄って、まじまじと眺めてみた。まだ新しい、丈夫そうな黒い乳母車だ。押してみると、しっかりした手ごたえとともに車輪が滑らかに回った。
ほしいなぁ、と思って、僕はキョロキョロした。誰も僕の動きに、それどころか僕自体に気づいていないようだった。この乳母車にも気づいていないようだった。なので、ありがたく頂戴することにした。
真っ黒な日除けを引っぱり出してベビーカーを覆うと、僕は持ち手をしっかり握って歩き始めた。ベビーカーの具合はとてもよかった。重すぎず軽すぎず、ちょうどいい力で自然に押すことができるし、体を支えてくれるので、いつもより歩きやすくさえあった。
歩き始めてすぐ、公園を横切る道に赤子連れの家族が見えた。僕は間の悪さにイライラしながら、同時にヒヤヒヤしていた。その場で立ち止まり、彼らをじっと睨みつけていた。家族はそのまま通り過ぎ、反対側の通りへと抜けていった。
この乳母車を手にした途端に僕が見えるようになったやつがいたら、そいつは嘘つきだ。そう誓って再び歩き始めた。
冷泉通、とりわけ平安神宮の前は観光客でごった返していた。浮かれ気分で道に広がって歩いていた。向こうからも同じような観光客がやってくるので、通り抜けることも難しかった。なぜなら僕はベビーカーを押しているからだ。
「すいません、すいません!」
後ろから声がした。急いでいる人がいるんだろうと思っていると、その声は僕の真横にピッタリ張りついた。
「すいません、すいません!それ赤ちゃんですか、いいですね、かわいいでしょうね!」
見ると、おじさんが僕に向かって話しかけていた。彼の視線は僕から一瞬も離れなかった。
「いいですね、いいですよね、赤ちゃん、かわいいですよね、僕赤ちゃん大好きなんですよ!」
気持ち悪かったので僕は無視した。それに僕はあまり赤ちゃんが好きではないから、彼と話が合わないだろう。
「見せてください、赤ちゃんかわいいですもんね、いいですか?」
僕は怖かったので小走りになった。こういうとき道が混んでいるのは便利で、僕はベビーカーで人混みをこじ開けながら、おじさんをまこうとした。
「見せてくださいよ、僕赤ちゃん大好きなんですよ!」
おじさんはそう言いながら追いかけてきた。声は全然離れなかった。僕の背後にくっついているのだ。彼の荒い吐息が首や耳にかかって気色悪かった。
岡崎通を横断して小道に入っても、まだおじさんはついてきていた。と、そこで向こうから警察官がやってきた。助かったなぁ、おじさんを追っ払ってもらおう、と思っていると、相手から口を開いた。
「そのベビーカー、あなたのですか?盗んだんじゃないんですか?確認させてください。赤ちゃんは入ってるんですか?確認させてください。」
これは偽物に違いない、コスプレ警官に違いない、僕は彼をベビーカーでひいた。脛を狙って突き飛ばした。警官だって暴力には勝てないのだ。彼は無言でうずくまり、代わりに背後のおじさんが、おっひょお、と嬉しそうな驚いたような奇声を立てた。
僕は全力で走った。ベビーカーを押しながらだったので、当然のろかった。おじさんと警官はずっと付きまとっていた。
「見せてくださいよ、赤ちゃん大好きなんですよ!」おじさんが言った。
「撃つぞ撃つぞ!止まりなさい、通報するぞ、盗人め!」パチモンの警官が言った。
彼らはそう言う割に、肩をつかんだり通せんぼしたりして僕を止めようとはしなかった。
道角から女が飛び出してきて、僕とベビーカーの前に倒れた。その道角は行き止まりに通じていたので、彼女はここで待ち伏せしていたか、さもなくば騒ぎを聞きつけてどこかの家から出てきたのだろう。気が変になっている女というのは一目でわかるもので、彼女がそれだった。女は上体を持ち上げると、ベビーカーにしがみついた。
「あああ、これ私の赤ちゃん、私の赤ちゃん、返してぇ」
彼女はベビーカーをガシャガシャ揺らしながら叫んだ。その声に呼応するように、背後の二人も盛り上がった。
「おお、赤ちゃん、あなたの赤ちゃん、見せてください、赤ちゃん大好きなんですよ!」
「応援を要請する!窃盗赤子誘拐暴行取締妨害逃走罪だ、極刑にしてやる、俺は裁判官もやるんだぞ!」
おじさんは自身のベルトを抜き取って、鞭のように地面を叩いていた。偽警官は真っ赤なオモチャのトランシーバーに向かって怒鳴っていた。こいつらも気が触れていると僕はようやく悟った。
「赤ちゃん、赤ちゃん!帝王切開なの、帝王切開なの!」
女が叫んだ。しかし、どう見ても僕より年下なので、子供なんかいるわけなかった。絶対嘘だ。第一、この乳母車の中には誰もいないんだから。僕はベビーカーを引いてから、思いっきり押して女のアゴにぶつけた。えうっ、とかうめき声をあげて、彼女は後ろに倒れた。本当に子供を産んだことがあるなら、この程度の痛みも衝撃もなんてことないはずだ、と僕は確信を深くして再び逃げ始めた。
しばらく逃げ回って、というか三人の狂人に付きまとわれて、僕はようやく解放された。彼らは飽きてしまったのか、いつの間にかどこかへ消えていた。僕はベビーカーから手を放して、その場にへたりこんだ。もうクタクタだった。家から遠ざかるように、それも闇雲に進んできたので、どこまで来たのか分からなかった。
息を整えていると、乳母車から声が聞こえた。寝起きに出すようなうめき声だ。僕は驚いて、日差し除けのカバーを開いた。中には、赤子らしき人がいた。つるっぱげで病的に色白で口ひげを生やした、中年のおじさんのような赤子がいた。いた、というか詰まっていた。乳母車はミチミチと鳴って、今にも壊れそうだった。
中年赤子はベビーカーを倒し、中から這い出てきた。もちろん裸だった。身長は百センチくらいしかなかった。体にくびれはなく、トイレットペーパーのような体形だった。腹も背中も脂肪だらけで、少しでも体を動かすとあちこちにしわが寄っていた。特に前かがみになると、腹の脂肪が垂れて醜かった。
「ここまでお世話していただき、ありがとうございます。」
赤子がそう言った。男にしては高いが女声とも思われない、そんな奇妙な高さの声だった。
「私はあなたから生まれてきた、あなたの単為生殖で生まれてきた存在。あなたの子供、文字通りあなたの分身です。名は無為と申します。それではさようなら。」
そのまま赤子は立ち去っていった。親不孝に生きてきた因果がこうやってめぐってきたのかもなぁ。僕はそう思いながら、もはや一歩も歩けなかった。




