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小人の辞  作者: EndoArisa


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潔癖症の男


 例えば、こんな話がある――

 あきれるほど潔癖症の男がいた。ペットボトルの回し飲みもできないし、他人の作ったおにぎりも食べられないほどだった。しかしこれは序の口で、大学の講義室では自分の周囲を除菌しなければ座れず、友人たちと鍋物を食べるときも、誰かが口をつけた箸を鍋に入れた瞬間に食欲をなくして帰ってしまうほどだった。

 かつて恋人がいたことがあったが、消毒してからでなくては手もつなげず、つないだところで即座に消毒してしまうほどだった。さらにその潔癖症ゆえか、恋人でさえも自分の部屋に入れたことはなかった。恋人の部屋に行ったことはあったが、彼がやってきて十分もしないうちに、彼女の部屋はアルコール臭くなってしまった。そんな具合だから、一か月と続かずに別れたのだった。

 彼の潔癖症は汚れに対する嫌悪というより、見えない菌やウイルスに対する嫌悪のようだった。相手の飛沫が自分の口にぶつかるイメージをしてしまうので、テーブルをはさんで友人と会話するときでも、彼の顔はいつも斜め下を向いていた。

 彼は狭い空間に大人数でいることが大嫌いだった。人の口鼻から出た菌やウイルスが、次第に空気中に充満していくのを想像してしまい、呼吸困難になってしまうからだ。特にカラオケや居酒屋といったような、人々が気兼ねなく大声を出せるような空間は、彼の最も嫌いな場所だった。また大学の授業についても、彼は大講義室で行われるものしか受講していなかった。


 春中のある日、その潔癖症の男が大学を休んだ。友人の一人が連絡したところ、どうやら体調を崩したということだった。彼が大学を休んだのも体調を崩したのも今回が初めてだったので、友人たちは驚いたが、大事ではないことが分かると、すぐ彼のことを茶化し始めた。

「殺菌のやり過ぎで、かえって免疫力が低下しちまったのさ。」

 誰かがそう大声で言うと、みんな競うように手を叩きながら笑った。

 友人の一人は男の見舞いに行くことにした。心配する気持ちも多少はあったが、それより好奇心の方が強かった。というのも、今まで誰も彼の部屋を見たことがなかったからだ。友人の誰一人として、恋人でさえも見たことのない潔癖症の男の部屋。それは仲間内ではある種の都市伝説のように語られていた。

 ペットを飼っているのではないか、女を囲っているのではないか、子供がいるのではないか、はたまた死体でもあるのではないか……もちろん冗談半分だ。なんの変哲もない部屋、単に彼の潔癖症が他人を部屋に入れることを許さないだけだ、ということは誰もが察していた。

 午後三時過ぎの大学帰り、友人は男の部屋の前に立っていた。おそらく塵一つない、そしてアルコール臭い部屋があるだけなのだろう、だが写真の一枚でも撮って帰れば、仲間との話の種にはなるはずだ、彼はそう考えながら呼び鈴を鳴らした。同時に彼の中には、これを機に潔癖症の男が友人たちを家に招くようになるかもしれない、という自惚れた考えもあった。

 ドアの向こうに人が立つ気配がしたので、友人は、

「俺だけど、見舞いに来たよ。差し入れも持ってきたからさ。」と言った。

 男は少し戸惑っているような、たどたどしい口調で、

「ありがとう。うつしちゃ悪いからドアにかけといてくれるか?」と答えた。

 その返答を予期していた友人は、ドアノブを引っ張りながら、わざとらしい大声で、

「頼む、ついでにトイレ貸してくれ、漏れそうなんだ!」と叫んだ。

「それは無理だ。コンビニまで我慢するか、隣のを借りてくれ。」

 突き放すような言い方に少し面食らったが、友人はあくまで部屋に入れてもらおうと抵抗した。意味をなさない言葉を叫びながら、地団駄を踏んだり、ドアノブをガタガタしたり、ドアを叩いたりした。すると間もなく向こうから解錠する音がして、ドアがわずかに開いた。友人は、すぐ済ませるから!と言って中に入っていった。

 友人は部屋の中が想像よりずっと普通だったことに驚いた。ありふれた大学生のワンルーム、それこそ自分のと同じくらい汚かったのだ。ゴミ袋や脱ぎ捨てた服、ペットボトルなどが無造作に置かれているのが、玄関からでも見えた。部屋の中は薄暗くてひんやりとしていたが、皮膚にまとわりつくような湿り気を含んでいた。

 友人は見てはいけないものを見てしまったような気持ちになりながら、平静を装って靴を脱いだ。入ってすぐ右手にキッチンがあり、シンクの内側はうっすら白くなっていた。珍しい塗装だな、と彼は思いながら奥へ進んでいった。

 ローテーブルの上も散らかっていた。教科書や紙束やPC、その他こまごまとしたもので溢れかえっていて、差し入れの入った袋を置く場所が見当たらなかった。結局、カーペットの上に置くことにして、友人もそのそばに腰を下ろした。

「トイレ、行かないのか?」と男が尋ねた。

「ちょっと休憩。帰る前に借りさせてもらうよ。」

 友人はそう言って、後ろ手をついた。チクリ、と手に何か硬いものが食いこむ感触があった。乾いた米粒か砂利でも落ちてたか、と思って何気なく手を見てみると、そこには短い髪の毛と円弧形に尖った爪がびっしりとくっついていた。彼は悲鳴が漏れそうになるのを堪えて、さりげなくジーパンで手を拭いた。

 それから、恐る恐るもう一方の手を見てみると、そちらにも髪の毛がくっついていた。濃くて短くて太い、男性の髪の毛だ。ところどころ、パーマをかけたような縮れ毛も混じっている。

「トイレ、行かないのか?」男が再び尋ねた。

「そうだな。あんまり長居しちゃ悪いし、もう帰るよ。」

 友人は立ち上がって、玄関から左手、キッチンの反対にあるトイレの方に向かおうとした。その時、ふとシンクに目がとまった。先ほども見た風変わりなシンク、一般的には銀色のそれは、乳白色のような濁った色をしていた。そのまま見ているうちに、それが塗装ではないことに気づいた。それは白カビだった。シンクの内側が、ステンレスの銀色が見えなくなるほど、びっしりと白カビで覆われているのだ。

 友人は耐えきれず男の方を振り返って、

「お前、掃除してないのか?潔癖症じゃなかったのか?」と強い語気で尋ねた。

「潔癖症なのは本当さ。でも、自分の部屋なら平気なんだ。自分で汚す分には気にならないんだ。爪や髪の毛や、そういう自分の体から出たものが落ちてる分には構わないんだ。」

 感情を言葉にできずに、ただ視線でのみ訴える友人を見て、男は続ける。

「で?トイレ、行かないのか?」

 友人は断って部屋を後にした。あの部屋のトイレを確認する勇気は、彼にはなかった。

――そんなお話。


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