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小人の辞  作者: EndoArisa


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11/30

泣き女


 怖い体験をしたことがある。ただ先に断っておくが、僕自身は別に怖いと感じなかったし、振り返ってみてもやはり怖いとは思えない。起きた現象だけ抜き取ってみれば怖いと感じる人もいるかもしれない、その程度の話だ。

 春先のこと、ちょうど三月初旬のことだ。当時の職場は家から離れたところだったので、帰宅するのはいつも夜の九時過ぎだった。それから夕食や風呂を済ませて、床に就くのは午前一時前くらいだった。僕の住んでいたマンションは、昼間はにぎやかだが夜になると人通りが途絶えるような、そんな通りに面していたので、遠く離れた原付バイクの音も聞こえるほど静かだった。

 その日も一時くらいにベッドに入ったのだが、目をつむるや否や、どこからか声が聞こえ始めた。それまでは全く聞こえていなかったので、視覚を閉じたことで耳が鋭くなったのだろう。それは女性の泣き声だった。号泣や慟哭といった叫ぶような声ではなく、かといって忍び泣きのような押し殺した声でもない。それらの中間だった。人に聞かせるのでない、部屋で自分一人で泣いているときの声だった。

 何が悲しいのだろう、と僕はベッドの中でうとうとしながら考えていた。夜はまだ少し寒い時期で、僕は毛布を二枚重ねていたはずだ。冷たいベッドが体温で次第に温かくなっていく、心地いい感覚に包まれていた。耳を澄ますと、それは同じマンションの階下の方から聞こえていた。何が悲しいんだろう、こんなに静かな夜で、腹もいっぱいで、仕事があって、給料日が来たばかりで、素敵な春じゃないか……そんなことを考えながら、僕はついに眠りに落ちた。

 そのまま何事もなく朝が来た。起きてから間もなく、女の泣き声のことを思い出した。あの時は眠かったせいで何も感じなかったが、思い返してみると確かに妙な経験だった。僕が眠るまでずっと泣いていたのだ。それも一定のリズムで、かれこれニ十分近くも。もちろん、その気になればニ十分どころか二時間だって泣くことができる女性もいるだろう。しかし何がそれほどまでに悲しかったのか。僕は不思議でしょうがなかった。

 立哨(りっしょう)業務中に一緒になった先輩にその話をすると、薄気味悪い話だな、と言われた。確かにそうとも言えるだろう。真夜中に女の泣き声というのは、怖い話にあるような不穏な組み合わせだ。しかし、怖いと感じるには、あの夜はあまりにも穏やかだった。もしあの時、僕が気づくと同時に泣き声が止まって、その声の主が僕の部屋のチャイムを鳴らしたとしても、僕はきっと部屋に入れてやっただろう。それほどまでに、ほのぼのとした春の夜だったのだ。


 あの声は何が悲しかったのだろうか。春が来ると、なんとはなしに考えることがある。

 長年に渡る恋愛に破れたのだろうか。それも手ひどい失恋だったのかもしれない。好きだった男に実は恋人がいて、しかもその男は自分に気があるようなそぶりを見せていた、とか。

 あるいは三月のことだったから、大学の期末試験の成績が最悪だったのかもしれない。泣き声の女性はもう四回生で就職先も決まっていたが、単位を落としたせいで卒業できなくなった、とか。

 あるいは外国人の留学生が何かしらの理不尽、たとえば奨学金を取り消しになったとか、急遽帰国しなければならなくなったとか、自分を日本の大学に仲介したエージェントに騙されたとか。

 今となってはどれだって構わないのだが、あの時の彼女がもし同じマンションにいる僕を知っていたら、大学を何度もダブりまくったあげくに退学して、学歴も生かさずにフリーターとしてダラダラと生活する僕を知っていたら、どう思っただろうか。少しは気が楽になったのだろうか、あるいは僕の怠惰に気分を悪くしただろうか。

 あるいは、幽霊だったのかもしれない。不幸な目にあった女性のことをあれこれ考えるより、それが一番丸く収まるような気がする。幽霊だって泣きたい日があるのだろう。


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